嘘と微熱〜甘美な一夜から始まる溺愛御曹司の愛執〜

桜月海羽

一章 はじまりはひとつの嘘/二、天国から地獄へ【3】

セグレートに行くと、ちょうどオミくんからメッセージが届いた。
内容は一時間ほど遅れるというもの。
謝罪とともに【待たせるのは悪いから今度にしようか】と書かれていたけれど、今日はほんの少しでも彼の顔が見たい。
わがままだとわかっていたけれど、【私は大丈夫だから待ってるね】と送った。


「マスター、ミモザをください」


ひとまず注文をすると、六十代後半のマスターが優しい笑みを浮かべる。


「かしこまりました。今日は雅臣くんの方が遅いみたいだね。彼、いつも茉莉花ちゃんを待たせないようにしてるのに」
「オミくんは忙しいから……」


多忙な中、オミくんはいつだって先に来て待ってくれている。
私がひとりで待たなくて済むように、必ず彼の方がお店に早く着ける日に誘ってくれるのだ。


「彼の代わりにはなれないが、こんなおじさんでよければ話し相手にならせてね」


マスターの気遣いを笑顔で受け取りつつ、ミモザのグラスに口をつける。
やるせない感情を流し込むように、ほとんど一気に飲んでしまった。


「マスター、おかわりもらえますか? あと、少し濃いめにしてください」
「え? 大丈夫かい? 茉莉花ちゃんはあまり強くないだろう?」


マスターが目を丸くするのも無理はない。
私はあまりお酒が飲めなくて、いつも頼んでいるミモザもオミくんが軽めの度数で作ってくれるようにお願いしているものだ。


「でも、今日はどうしても飲みたいんです」


けれど、アルコールの力でも借りていなければ、今にも泣いてしまいそうだった。
なにに泣きたいのかはわからない。


はっきりと言えないこと。
言いたいことを呑み込んでしまうこと。
すぐに諦めること。
情けないと言いながらも、自分ではなにもできないこと。
恋が叶わないこと。
それどころか、好きでもない男性と結婚するのかもしれないこと。


すぐに思いつく限りのなにもかもが嫌になって……。けれど、自分の力ではなにひとつ変えられない自分自身に、本当はもううんざりしているのかもしれない。
姉の言う通り、自分の人生なんだから自分でどうにかしなくてはいけない。
それはわかっているのに、『嫌』という一言すらいえなかった。


「お待たせいたしました、ミモザです。でも、アルコールは軽めね。茉莉花ちゃんを酔わせたら、僕があとで雅臣くんに叱られるから」


どこか茶目っ気のある笑顔のマスターに、小さな笑みが零れる。
お礼を言ってグラスに口をつけ、彼が離れたのを確認してからため息を吐いた。


「夢は見てないつもりだったんだけどな……」


オミくんとの結婚なんて、大人になってからは夢見ることすらなくなった。
まだ少女だった頃には、彼との結婚式を想像してみたりもしたけれど、それが叶うと思い続けられるほどもう子どもじゃない。
いくら世間知らずでも、身の程知らずではいられなかった。


「でも、オミくんには告白もできなくて、お父さんには本心すら言えないのに、私に初恋を引きずる資格なんてないよね……」


小さく小さく呟いた言葉が、薄暗い店内に落ちていく。
ひとりでオミくんを待っているのは心細いけれど、マスターが他のお客さんから話しかけられていてよかったのかもしれない。
だって、彼を想う心はひどく痛み、今にも涙が零れてしまいそうだったから……。

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