嘘と微熱〜甘美な一夜から始まる溺愛御曹司の愛執〜
一章 はじまりはひとつの嘘/二、天国から地獄へ【1】
オミくんと会えてから十日ほどが経った、お盆明けの八月下旬。
今朝の総務部のフロアは、空気がピリピリしていた。
昨日の夕方、部署内でのミスが発覚して総務部の社員の大半が残業する中、例によって私だけが定時に帰されてしまったのだ。
もちろん、『私にもなにかお手伝いさせてください』と申し出た。
ただ、予想通り拒絶された上、『君に残業させるなと社長から言われてるんだ』と部長に苦い顔をされてしまい、帰路に就くしかなかった。
だって、私がいるだけで迷惑になるということなのだから……。
仮に残らせてもらえていたとしても、戦力にはなれないことくらい自覚している。
けれど、あまりにもあからさまな言葉を受け、申し訳なさと情けなさでいっぱいになり、『お疲れ様でした』と頭を下げたときにはいたたまれなかった。
その結果、今日はいつにも増して居心地が悪く、同僚たちの視線も冷たい。
みんなからよく思われていないのは、当たり前だと理解している。
周囲にとって自分が迷惑な存在であるというのもわかっているけれど、こういうときにはやっぱり肩身が狭くて仕方がない。
それでも、こうなることをなんとなく予想しながらも仁科に就職することを承諾したのは、他の誰でもない私自身。
こんな風になっている責任も原因も、父を納得させられない私にあるのだ。
申し訳なさで押し潰されそうになりながら課長に回された業務をこなし、ようやく迎えた昼休憩。
「お嬢様、早く寿退社でもしてくれないかな~」
ひとりぼっちでお弁当を食べたあと、メイク直しをするために化粧室に入ろうとした直前に迷惑そうな声が聞こえ、反射的に足がぴたりと止まった。
「いてもいなくても同じだしね。むしろ、ここにいられると私たちに仕事が回ってきて迷惑だし。曲がりなりにもお嬢様なんだから、家で大人しくしてればいいのにさ」
「まぁ、お嬢様って言ってもうちの会社程度じゃね」
「そりゃそうか。それにしても、毎日毎日自分だけ定時に帰ってるのに居続けるんだから、気弱そうな顔して意外と図太いよね」
「確かに!」
共感とともに上がった笑い声に、胸の奥がズキズキと疼く。
鼻がツンと痛んだけれど、唇をグッと噛みしめてこらえた。
(泣くな……! 言われて当然なんだから、これくらいで泣いちゃダメ……)
自分自身に言い聞かせながらも、会社から逃げ出したくなる。
逃げてもなにも変わらないとわかっているのに、一瞬でもそんなことを考えてしまう私はとてもずるくて弱い。
父の意見を承諾したのは、私。
お見合いをするように言っていた父に『まずは働きたい』と懇願し、苦い顔をしながらも『仁科に就職するならば……』と言われて頷いた。
社会に出られないままお見合いで結婚するよりも、この方がいいと思った。
仕事もせず、実らない恋心を押し殺して知らない男性のもとに嫁ぐくらいなら、父の監視下に置かれていても仁科で働く方がいい……と。
けれど、現実は私が思い描いていた理想とは程遠く、会社ではずっと息苦しい。
ただ、逃げたくはなかった。
ここで逃げたら、私は心から自分を嫌いになってしまいそうだったから……。
噛みしめたままだった唇の力を緩め、そっと息を吐く。
メイク直しは諦めてこの場を離れた直後、マナーモードのスマホが震えた。
【突然で悪いけど、今夜時間ある?】
【この間話してた本、渡したいんだけど】
用件だけの、たった二文。
端的な文面なのに、泣きたかった気持ちが和らいで笑みが零れる。
絶妙なタイミングで連絡をくれたオミくんが、まるで正義のヒーローのように思えて、喜びと甘切なさで胸の奥が微かに苦しくなる。
【大丈夫だよ。ありがとう!】
急いで打った文章を送ると、すぐに【十八時半にセグレートで】と返ってきた。
午後も頑張れそうだ……と思ったとき、今度は電話がかかってきた。
ディスプレイを見て、なんだろう……と不安混じりの疑問が過る。
「……はい」
『昼食を済ませたら、すぐに社長室に来なさい』
そこで電話は切れてしまい、父の一方的な用件を聞かされただけになった。
(わざわざ社長室に呼び出すなんて……)
父が強引なのは、今に始まったことじゃない。
ただ、なぜ呼び出されたのかは見当がつかなかった。
仕事のことで私に話があるとは思えない。
もしかしたら贔屓をやめてくれるのかも……と考えたけれど、それも一瞬でありえないという答えにたどりついた。
とはいえ、わざわざ社内にいるタイミングで電話をかけてきたくらいだから、急を要する可能性はある。
仕方なく、五階建てのビルの最上階にある社長室に足を向けた。
古びた茶色のドアをノックをして程なく、「入りなさい」と告げられる。
気が重いことは隠して「失礼します」と声をかけてから中に入ると、最奥にあるデスクに座る父の傍に兄と姉もいた。
「……なにかあったの?」
三人の表情に緊迫したような雰囲気はない。
けれど、社内にいる家族全員が揃っているという光景に、実家にいるはずの母になにかあったのだろうか……と考え、心臓が嫌な音を立てた。
今朝の総務部のフロアは、空気がピリピリしていた。
昨日の夕方、部署内でのミスが発覚して総務部の社員の大半が残業する中、例によって私だけが定時に帰されてしまったのだ。
もちろん、『私にもなにかお手伝いさせてください』と申し出た。
ただ、予想通り拒絶された上、『君に残業させるなと社長から言われてるんだ』と部長に苦い顔をされてしまい、帰路に就くしかなかった。
だって、私がいるだけで迷惑になるということなのだから……。
仮に残らせてもらえていたとしても、戦力にはなれないことくらい自覚している。
けれど、あまりにもあからさまな言葉を受け、申し訳なさと情けなさでいっぱいになり、『お疲れ様でした』と頭を下げたときにはいたたまれなかった。
その結果、今日はいつにも増して居心地が悪く、同僚たちの視線も冷たい。
みんなからよく思われていないのは、当たり前だと理解している。
周囲にとって自分が迷惑な存在であるというのもわかっているけれど、こういうときにはやっぱり肩身が狭くて仕方がない。
それでも、こうなることをなんとなく予想しながらも仁科に就職することを承諾したのは、他の誰でもない私自身。
こんな風になっている責任も原因も、父を納得させられない私にあるのだ。
申し訳なさで押し潰されそうになりながら課長に回された業務をこなし、ようやく迎えた昼休憩。
「お嬢様、早く寿退社でもしてくれないかな~」
ひとりぼっちでお弁当を食べたあと、メイク直しをするために化粧室に入ろうとした直前に迷惑そうな声が聞こえ、反射的に足がぴたりと止まった。
「いてもいなくても同じだしね。むしろ、ここにいられると私たちに仕事が回ってきて迷惑だし。曲がりなりにもお嬢様なんだから、家で大人しくしてればいいのにさ」
「まぁ、お嬢様って言ってもうちの会社程度じゃね」
「そりゃそうか。それにしても、毎日毎日自分だけ定時に帰ってるのに居続けるんだから、気弱そうな顔して意外と図太いよね」
「確かに!」
共感とともに上がった笑い声に、胸の奥がズキズキと疼く。
鼻がツンと痛んだけれど、唇をグッと噛みしめてこらえた。
(泣くな……! 言われて当然なんだから、これくらいで泣いちゃダメ……)
自分自身に言い聞かせながらも、会社から逃げ出したくなる。
逃げてもなにも変わらないとわかっているのに、一瞬でもそんなことを考えてしまう私はとてもずるくて弱い。
父の意見を承諾したのは、私。
お見合いをするように言っていた父に『まずは働きたい』と懇願し、苦い顔をしながらも『仁科に就職するならば……』と言われて頷いた。
社会に出られないままお見合いで結婚するよりも、この方がいいと思った。
仕事もせず、実らない恋心を押し殺して知らない男性のもとに嫁ぐくらいなら、父の監視下に置かれていても仁科で働く方がいい……と。
けれど、現実は私が思い描いていた理想とは程遠く、会社ではずっと息苦しい。
ただ、逃げたくはなかった。
ここで逃げたら、私は心から自分を嫌いになってしまいそうだったから……。
噛みしめたままだった唇の力を緩め、そっと息を吐く。
メイク直しは諦めてこの場を離れた直後、マナーモードのスマホが震えた。
【突然で悪いけど、今夜時間ある?】
【この間話してた本、渡したいんだけど】
用件だけの、たった二文。
端的な文面なのに、泣きたかった気持ちが和らいで笑みが零れる。
絶妙なタイミングで連絡をくれたオミくんが、まるで正義のヒーローのように思えて、喜びと甘切なさで胸の奥が微かに苦しくなる。
【大丈夫だよ。ありがとう!】
急いで打った文章を送ると、すぐに【十八時半にセグレートで】と返ってきた。
午後も頑張れそうだ……と思ったとき、今度は電話がかかってきた。
ディスプレイを見て、なんだろう……と不安混じりの疑問が過る。
「……はい」
『昼食を済ませたら、すぐに社長室に来なさい』
そこで電話は切れてしまい、父の一方的な用件を聞かされただけになった。
(わざわざ社長室に呼び出すなんて……)
父が強引なのは、今に始まったことじゃない。
ただ、なぜ呼び出されたのかは見当がつかなかった。
仕事のことで私に話があるとは思えない。
もしかしたら贔屓をやめてくれるのかも……と考えたけれど、それも一瞬でありえないという答えにたどりついた。
とはいえ、わざわざ社内にいるタイミングで電話をかけてきたくらいだから、急を要する可能性はある。
仕方なく、五階建てのビルの最上階にある社長室に足を向けた。
古びた茶色のドアをノックをして程なく、「入りなさい」と告げられる。
気が重いことは隠して「失礼します」と声をかけてから中に入ると、最奥にあるデスクに座る父の傍に兄と姉もいた。
「……なにかあったの?」
三人の表情に緊迫したような雰囲気はない。
けれど、社内にいる家族全員が揃っているという光景に、実家にいるはずの母になにかあったのだろうか……と考え、心臓が嫌な音を立てた。
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