運命の赤い糸が引きちぎれない

泉野あおい

3章:30m

 まるで雲の上にいるみたいにふわふわして安心する。
 いい夢を見た気がして、私は目を開けた。

 すると全くいい状況ではないことに気づく。


 ――ここ、どこ!?


 私が固まっていると、ベッドサイドに座って私を微笑んで見ていた直さんが、目をさらに細める。

「おはよ、よもぎ」
「直さん!」

 飛び起きて、周囲を確認する。

(どこ!? 直さん! って直さん!? そういえばダイニングバーで会って……それから……それから……!)

 昨夜、直さんに会ってからがどうにもはっきり思い出せない。
 頭がぐらりと揺れて、自分が完全に二日酔いであることに気づいた。

「え、ちょ、待って、なに? どういうことですか!」
「何が?」

 私が慌てているのに、直さんはいつも通りの口調と優しい笑顔で……。

 私はさらに自分の服に目を向けて泣きそうになる。
 見たことないルームウェアを着ているじゃないか……!

「ルームウェア、なに、これ。なんですか! もしかして直さんの彼女のとかですか? 昨日ここに彼女もいて、私に着せたとか?」

(できればそうであってください!)

 そう祈ってみたけど、直さんはさらりと真相を告げる。

「まさか。僕、彼女なんていないよ。それ僕が買ってきたんだ」
「買って……。って、まさか、着替えさせたんですか!」

(裸見られたの!?)

 思わず顔を赤くして言うと、直さんは当たり前のように頷いた。

「だって、よもぎ、ここでももう一度吐いたし」
「もう一度? 吐いた?」
「覚えてない? 昨日トイレで吐いて、その後寝たと思ったらベッドでももう一度。だからシーツも交換して、ついでによもぎも着替えさせておいたってだけ」

(私ってやつは! なにをやってるんだ!)

 恥ずかしさと、情けなさで涙が出る。
 今すぐ壁に頭を打ち付けたいけど、すでにそれくらい頭が痛い。

「ってことは、全然覚えてないんだ?」
「……店で直さんに会ったことは何となく」

 私がうなだれると、直さんは私の頭を撫でる。
 私は息を吸い、ちらりと顔を上げて直さんを見た。

「み、見ました? よね?」

 私がつぶやくと、直さんが一瞬きょとんとして、それから優しく微笑む。

「恥ずかしがらなくて大丈夫だよ。見慣れてるし」
「見慣れてる……」

(裸を? あ、そうだよね。直さんってずっとモテてたもんね……)

 そんな私に直さんは苦笑して、
「患者さんでね」と加えた。

(そ、そうか! 患者さんね!)

 そうだよね、見慣れてるよね。それに直さんは廉と違って立派なお医者様だし、妹みたいな小娘の裸見たって何も感じないよね。

 目を細めて私を見ている直さんからは、そういう破廉恥な雰囲気は、一切感じなかった。
 だから、私は心底ほっとしていたのだ。

 それから息を吸って、少し落ち着くと、私はぺこりと頭を下げた。

「本当にごめんなさい……迷惑かけて」

 そんな私を見て、直さんは目を細める。
 まるで困った妹でも見るように。

 そうされると私はやけにホッとした。
 いつだって家族みたいな立ち位置で、直さんがいてくれたから、私は罪悪感を持たずに済んだんだ。

「とにかくシャワー浴びておいで。バスルームはここ出て廊下の左の突き当り」
「はい……ありがとうございます」


 熱いシャワーを頭から浴びると、少しすっきりした。

 直さんだから何も起きなかったけど……
 同じ状況で相手が廉なら、絶対に私はもう処女ではなくなってたよなぁ……。
 
 でも、私は……
 そっちの方がよかったのかなぁ……。

 そんなことを考えて、ハッとする。

 いや、良くない良くない良くない!
 絶対よくない! バカか、私は!

 私がガシガシ頭を掻いていると、バスルームの外に直さんが立っていた。

「よもぎ? タオル、外に置いておくから」
「は、はいっ! ありがとうございます」 

 直さんは、相変わらず誰にだって優しくて……私にも優しくて。

 だから、私はそんな直さんだからこそ、安心して、引きちぎればいいって思ってた。

 ――直さんなら、誰とでもうまく行く。

 そんな風に考えてたんだ。

 バスルームから出ると、タオルといつの間にか服まで置いてあった。
 服は薄いピンクのワンピースで、しかも着てみるとぴったり。

「直さん、これも買ってくれたの? 元彼女の?」

 リビングに行くと、直さんがテーブルの上に朝食を二人分並べていた。
 面倒見がいい直さんらしい。

「ルームウェアのついでに買ったんだ」
「両方、ちゃんとお金払います」
「いいよ、そんなの」

 直さんはそう言うと顔を上げ、私を見ると、嬉しそうに目を細める。

「それにしても、それ。よもぎ、よく似合ってる」

 そう言った直さんを見て、一瞬、胸がどきりとした。
 なんだか恥ずかしくなって、思わず目を背けるように下を向く。

「ほ、本当に、い、色々、め、迷惑かけてごめんなさい」
「平気だよ」
「でも……」

 私は、直さんを見上げる。
 すると、真剣な目をした直さんと目が合った。

 昔から時々、直さんと目が合うと、なぜか反らせなくなった。
 固まった私を見て、直さんはふっと目を細める。

「本当に平気だから。ほら、温かいうちにご飯食べて」
「……はい」
「これ、二日酔いに効くから。あまり食べられそうになかったら、これだけでも飲んで」

 そう言って、しじみのお味噌汁まで渡される。

「あ、ありがとうございます」

 ――ずっと直さんのことお兄ちゃんみたいだと思っていたけど、なんだかお母さんみたいだ。

 私はホッとしてテーブルにつくと、ずずず、と味噌汁をすする。
 すると、直さんも目の前の席に座って食べながら話し出した。

「それにしても昨日は大変だったね」
「え?」
「さくらと伸がセックスしてるとこに出くわしたんでしょ」

「ぶぅっ!」

 思いっきり味噌汁を吹き出すと、自分がとんでもない発言をした張本人くせに、直さんは苦笑しながら私の横まで来て拭いてくれた。顔も手も、丁寧に。

「な、直さん!?」
「なに?」

 慌ててる私に、直さんは、なにがおかしいの? と言うように首を傾げる。

「い、いえ……な、直さん、そういう事、割と普通に言うんだなぁって、思っただけで……」
「だって、恋人や夫婦はそういう事するのが当たり前でしょ。僕だって『好きな人』とは、当たり前に毎日何回もしたくなってるよ?」
「……毎日何回もって!」

(どれだけだ!)


 私が赤くなって叫ぶと、直さんはふっと微笑む。
 直さんって……全然そういう感じじゃないと思ってた。

 なんていうか、結婚してすぐ老夫婦みたいな。
 縁側に座って2人でお茶を飲むとか……そんな感じなのかと勝手に思ってた。

 直さんも性欲あるんだなぁ……。今はいないみたいだけど、確かに昔から彼女は途切れなかったもんね。

 でも直さんがそんなことしたいだなんて全然想像すらできない。
 実は嘘でからかわれているだけの可能性の方が高い気すらする。


 直さんは、いつだって大人の余裕で、
 こういう話だって、変に慌てることも、恥ずかしがることすらないんだ。

 私が意識的に避けていたのもあったのか、これまで直さんとこんな話しなんてしたこともなかったし。

(私は直さんとこういう話するの、なんだか恥ずかしくてずっとドキドキしてるのに)

 すごく変な感じだ。
 もしかして、家族とそういう話をしにくいのと一緒なのかもしれないな……。


 そんなことを思ったとき、

「でもね? よもぎ」
と直さんは付け加えた。「付き合ってもいない相手と『誰でもいいから』っていう考え方はいけないと思うな」

 その言葉に私は目を見開いて直さんを見つめる。

「……直さん。知って……」
「やっぱり知らないと思ってたんだ。僕のこと、それくらいにしか思ってなかったもんね」

 急にそんなことを直さんがぴしゃりと告げる。
 その声が、今まで聞いたことのない低い声で私の背中はゾクリと冷えた。

 その時、ふとあることに気付いた。

 あれ? 直さん、なんで私の目の前にいるんだっけ。
 私が吹き出しちゃったお味噌汁拭いて、そのまま……ってだけだよね。

 身体も顔も固まったままの私の頬を、直さんはするりと撫でる。
 その感触に背中が粟立つ。

「かわいいな、よもぎは……。いい子だから、そのままでいてね」

(なに……?)

 頭の中は動かないといけないと思っているのに、不思議と身体は全然動かない。

「よもぎ。ごめんね」

 直さんはそういうと、顔をゆっくり近づけて、私の唇に自分のそれを合わせる。

「んんっ!」

 ――キスされてる!

 そう思って両手で直さんの胸を押しても、そんなことはまるで感じていないように、角度を変えて、何度もキスをされた。
 わけがわからなくて固まっていると、直さんが耳元で笑った気配がする。すると、さらに長くキスは続く。

「んんんんんんんーーーーー!?」

(なんで私、直さんにキスされてるのーーーー!?)


 ――やっぱり知らないと思ってたんだ。僕のこと、それくらいにしか思ってなかったもんね。

 さっきの直さんの言葉が頭を巡る。
 確かにそうだ。

 私のこれまでの人生の中心は、私とさくら、それに廉だった。
 直さんは私たちをいつも温かく見守ってくれるみんなのお兄ちゃん。それだけだったはずだ。

 私と直さんの『赤い糸』が繋がっているのもほんの偶然みたいなもので……だからか100m以上はあって、それは他のどんな赤い糸より長かった。
 もしかしたら、残り物同士、神様がくっつけただけなんじゃないかって思ったくらいだ。



 ――なのに……。

 直さんの唇が離れたと思ったら、もう一度キスをされる。
 その身体を押したら、やっと直さんの唇と身体が離れた。

「直さん!」

 私は叫んで、目の前の直さんを睨んだ。
 でも目を合わせられなくて、すぐに目をそらす。

「なに?」
「なに、って……なんで突然こんなこと……。……っ!」

 目をそらした先。
 いつもの、『それ』が変化していることに気づく。

 いつだって100m以上はあり、ぐるぐると何十にも巻かれていたはずの私と直さんを繋ぐ『赤い糸』の束が、ざっと見ただけでもこれまでの1/4程の長さになっている。

 こんなに短時間で、さらにこれだけ縮まるのを見たのははじめてで戸惑った。

(おい! どういう原理でこんなに突然短くなった!? 誤作動か!?)

「なんで……こんなに……!」


 私が青ざめていると、直さんはなぜか微笑んで言う。

「よもぎ? 何を焦ってるの?」

 私は慌てて糸から目をそらし、直さんを見てしどろもどろ答えた。

「そ、そ、それは……な、直さんが……キスなんてするから、焦るに決まって……」
「それだけじゃないでしょ」

 はっきり言われて、そのまま後頭部を持たれる。

(またキスされる!)


 そう思ったとき、直さんが

「よもぎ、舌出して?」と微笑んだ。
「な、なに?」
「ほら、舌だよ。口開けて、舌出すの。こうやって」

 少し口を開けて舌を出す直さんを、私は眉を寄せて見ると首を横に振る。

「しない」
「よもぎは『いい子』だから、上手にできるよ?」

 降ってくる直さんの優しい声。
 思わず目を見ると、直さんに目が捉えられる。

 すると、自然と口が開いて舌を出していた。
 直さんは当たり前のように私にキスをして、自分の舌を私の舌に絡める。

「んんんっ!」

 舌の絡まる粘着質な音がして、はっとした。

(何で私、直さんとこんなキスしてるんだーーーー!)

 しかし自分の熱なのか、直さんの熱なのか分からないけど、顔も身体も熱くなって、頭がぼうっとした。

 その次に、心臓はドキドキして、どこかに連れていかれる恐怖心が身体を駆け巡る。
 キス一つがこんなに怖いものだなんて思わなかった。


 一瞬、直さんと目があって心臓が跳ねて、思わず目をぎゅっと瞑る。
 すると直さんは楽しそうに口内を全部舐めて、さらに飲み込めないくらい唾液を送ってきたと思ったら、かき混ぜるようにして音を立てる。

「ふぁ……」

(なにこれ。こんなの……しらない)

 苦しくなればなるほど、口内を這いまわる直さんの舌は喜んだように動いた。

 ほおを涙が伝ったとき、やっと我に帰って口内にある直さんの舌を思いっきり噛む。すると、やっと直さんの唇が離れてくれる。

「な、なに……! なんで、ですか……! なんでキスなんてするんですか!」

 頬に熱いものがどんどん伝って落ちてくるのを感じる。
 直さんは口元に流れた血を拭うこともなく、そのまま言葉を発した。

「覚えてない、なんて言わせないために、酔いがさめるまで待ってたんだ。でも、さっきの様子だと思った以上の効果があったみたいだね」
「……なに?」

「よもぎのこと、僕はどんな手を使っても、手に入れるから」

 直さんは微笑んでそんなことを言い出す。
 それから言い忘れてた、とでも言うようにさらに加えた。

「さっき言った『好きな人とは、当たり前に毎日何回もしたくなってる』って話の『好きな人』はよもぎのことだからね? いい子だからそれもちゃんと覚えておいて」

 そう言って、直さんは楽しそうに微笑む。


 ふうん、毎日何回もって……例の、
 毎日そういうことしたくなるって話。

 冗談じゃなかったの?

 さらに相手、私? 私なの?
 私のことが好き?
 それで毎日何回もしたくなってた?

 直さんが?
 あの直さんが、私と?

 ――えぇえええええええ! 絶対嘘でしょ!

 頭では嘘だと思うのに、今日1日で……いや、このほんの数分で、直さんの言うことなすこと全部理解の範囲を超えていて、嘘と言い切れなくなった自分がいる。

「いや、でも、ちょっとまってください! おかしいでしょ! どうしてそんなこと突然言い出したんですかっ! 今まで、全然、そういうこと、考えてるそぶりすらなかったでしょう!」
「よもぎは怖がると思ってたから、家族の立ち位置に徹してただけだよ」

 そう言って直さんはクスリと笑う。
 その笑顔は、見たこともない『男の顔』で……。

「でもね、本当の僕はこうなんだ」

 低い声で呟かれると、私は何も言えなくなり、直さんの顔を見つめるしかできなかった。

 そんな私の頬を撫で、びくりと震えた私を見て直さんは嬉しそうに笑う。

「やっと男として意識できたかな? いい子だね。よもぎ」

 そんなことを呟いて、私の唇をするりと撫でる。そして、

「僕はいつだって、よもぎにキスして、よもぎを抱きたいって思ってたよ」

 そう、きっぱりと言った。

 ――だから、ちょっと待って! さっきまでお母さんみたいだとか思ってた人に、私、なに言われてるの!?

 そんな私の気持ちに気づいたのか、直さんは真剣な目で私を捉えると、

「冗談だと思えないくらい、これから分からせるからね」

 と、かなり不吉なことを言って、私の頬をするりと撫でた。

「ひっ……!」

 またキスされるかと思ってビクリと肩をすくめる。
 すると楽しそうに笑われた。

「あ、キスされると思った?」

(なんか楽しそうですねーーー!?)

 私が答えられずに、直さんを睨んでふるふるふると首を横に振ると、
 直さんはさらに笑って、結局もう一度私にキスをしたのだった。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品