自殺者の思う所

ノベルバユーザー594923

自殺者の思ふ所

 或る人は其れはぼんやりした不安だと言う。また、或る人は其れは人との結びつきの弱まりだと言う。だが私はこう思う。其れは、ただ純粋な、生への恐怖であると。
 
 美しく揺らめく火に、好奇心で触れてしまい、火傷を負った事はあるだろうか?私は一度、触れてしまった事があり、痛い思いをした。一度その痛い思いをすれば、二度と火には触れようとは思わない。其れは単純な原理で、其れは単純故に強く結びつく。これを痛みと言う。やがて人は、痛みから恐怖を覚える。痛みから恐怖を得て、恐怖から痛みを避けようとする。其の根本的な感情は、全ての行動につきまとい、行動を制限し、行動を限定化する。言ってしまえば、人間というコンピューターのアルゴリズムを構成する「0」と「1」に過ぎない。そうして私達はその限定化された行動をとる。
 
 死ぬことは怖い。何故?恐怖は痛みを避けるために感じる。では死ぬ瞬間に痛い思いをするのが怖いのか?違う。死んだ後にどうなるか分からない。分からないということは痛い思いをするかもしれない。だから怖い。しかし、其れは生きているのと同じこと。生きていれば、痛い思いをするかもしれない。では、何が生きる事ではなく、死ぬことが怖いと、そう思わせるのか。其れは環境である。死の後には楽園が待っている。とそそのかすカルトは、教祖が死ねと言えば、信者は喜んで死ぬ。飛び降り自殺なんて注射の様なものとでも感じているかもしれない。中にはそれでも死なない信者もいるだろう。其れは、教祖の作った「死<教祖の話」という構造が「死=教祖の話」或いは「死<教祖の話」となるからだ。なぜそうなるかは、彼が死に対してどれ程恐怖を生まれてから得ているかだ。 
 私達は、生きて、増える事に重きを置いている価値観と環境で、育てられ、生きるということに非常に執着的である。しかし、其れは、進化論的に考えれば、その種の人間、或いは生物のみが存続するというのは何一つ不自然ではない。死が怖くなく、繁殖に欲を見出さない種は早々に淘汰されるからだ。環境もまた然り。死が怖くなく、繁殖をよしとしない環境は淘汰される。故に、今のカルトではない、現存する古来の宗教はほぼ、自殺をよしとしない。または、自殺については記されていない。つまりは、私達は死ぬことよりも生きる事に重きをおいて「死<生きる」という構造を現代社会の環境の中で培う。では、自殺はこの構造が破綻して「死>生きる」という構造になれば自殺という行動を取るのかと言われればそうではないと考える。
 
 例えば真っ直ぐ進むミニカーに止まることを死と定義した場合、進路に長方形の積み木を垂直に置くとどうなるだろうか?当たり前の如く止まる。或いは死ぬ。では、垂直にでは無く斜めに置けばどうだろうか?角度にもよるが大抵は進路をその方向へと変え進むだろう。私の言う行動の限定化とはこれに似たようなものだ。そうやって積み木をいくつも使ってカーブでも作ればその推力の許す限りそれに沿って動く。しかし、そのミニカーは自分は自分の意思で曲がっていると勘違いすることだろう。つまるところ、この積み木は恐怖の役割を果たしているのだ。最初に積み木をミニカーの進行方向に垂直に置いたとき、ミニカーはどうなっただろうか?そう、止まった。つまるところ、私の考える自殺とはまさしくこれである。一見私たちからすれば、其れは、ただ、積み木に行く手を阻まれ、動けなくなったようだ。言い換えれば、そのミニカーは積み木に殺されたようなものである。しかし、ミニカーは自分の意思で止まったと考えるだろう。人間に置き換えれば、学校でいじめられ、家では虐待を受けた子供が、学校にも、家にも立場がなく、どうしようもなくなって、自殺したのと同じだ。状況を知れば、この子を殺したのは学校と家庭環境であると言えるが。其れを知らなければ、学校と家庭環境の恐怖と言う積み木を知らなければ。ただの自殺にしか、ミニカーが勝手に止まったようにしか、人は思わない。
 
 つまるところは、直面する恐怖を避けようとして、死という未知に希望を見出してしまうことであり、それは、当事者の行動を[自殺]へのルートに限定化して起こしたものである。その限定化したルートに踏み入れ、今までの環境の中で培った価値観が多少なりとも失えば、こう感じるはずだ。「生きているとはなんと恐ろしい」と。其れが、自殺という現象の原理だと思うところである。・・・否。感じるところである。
 

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