ショートケーキは半分こで。〜記憶を失った御曹司は強気な秘書を愛す〜

森本イチカ

12-1

 真っ白で、無機質な部屋。静かな呼吸音だけが羽美の耳に鮮明に届いてくる。その呼吸音が生きている証だとわかるけれど、羽美の心はざわついて落ち着きを取り戻さない。ベットに眠る海斗の力ない手を必死で羽美は握り続けた。


「海斗、早く目を覚まして」


 握りしめた温かな手に羽美は顔を近づけて祈る。少しでも気を緩めたらせっかく止まった涙がまた溢れ出してしまいそうだ。


「海斗……」


 羽美を庇って階段から落ちた海斗。そこまで段数はなかったものの頭痛を引き起こしていたことと、日頃の疲れが生じてかなかなか目を覚まさない。夜から朝になり、昼を過ぎても今だ点滴に繋がれ眠っている。


 自分が逃げなければこうはなっていなかったかもしれない。


 幼い日の駆け落ちもだ。羽美が海斗を誘っていなければ海斗の母親の自殺を防げたのかもしれない。


「また、私のせいで……って弱気になっちゃ駄目だよね……」


 もう弱い気持ちは捨ててきたのだ。羽美はキリッと背筋を伸ばして海斗の眠る顔を見つめた。すると海斗のまぶたが少し動き、ゆっくりと開いて、視線が合う。


「かかかかかいとっ!!!」


 羽美は嬉しさを堪えきれず、椅子から勢いよく立ち上がり海斗に抱きついた。


「よかった、よかったよぉ」


 涙が勝手に溢れ出してくる。涙とは不思議なもので悲しくても嬉しくても流れ出てきてしまうのだ。


「う、み……俺……あ、良かった。無事だったんだな」


 海斗の弱々しく、でもホッとしたような声が抱きついている羽美の耳元に聞こえた。


 ――今、羽美って呼んだ?


 身体を離し羽美は海斗の顔を覗き込むとパッと顔を逸らされる。


「かい、あっ、本郷さん? 大丈夫ですか? 今先生を呼びますからっ」
「いい、まだ呼ばないで」
「……え? でもっ」


 立ち上がり、反対側にあるナースコールに手を伸ばした羽美の手首を海斗は握り、ボタンを押すのを制した。


「あ、あの、本郷さん?」


 どうしたらいいのか分からず羽美は海斗と目を合わせる。真剣な瞳が赤く充血し、真っ直ぐに羽美を見つめていた。


「――」


 ドキドキしすぎて、声が出ない。この状況、どうしたらいいのだろうか。海斗の身体の上を通る羽美の腕は海斗に掴まれていて動けない。


「羽美」
「え……」


 心臓が破裂しそうなほど驚いて、喜んでいる。ただ名前を呼ばれただけなのに、それだけなのに、嬉しい。羽美という名前がなんだかすごく特別なもののように感じてしまうほど。


「羽美、キスしていい?」
「へ? な、なに言って――っん」


 掴まれていた腕を引き寄せられ羽美の身体はバランスを崩し、そのまま唇が重なった。片腕で力強く抱きしめられ、唇が強く押し当てられる。それでもよく知っている柔らかさ。それでも羽美の中には入ってこようとしない、なんだか初々しい、初めてのキスのよう。


「ほ、本郷さん、どうしたんで……え……」


 海斗の顔が今にもボッと火を吹き出しそうなくらい、耳まで真っ赤に染まり上がっている。


「え? 照れてるんですか? 自分からしておいて?」


 羽美は椅子に座り直し、海斗の顔を覗き込む。真っ赤に充血した瞳はゆらゆらと揺れて瞬きしたら溜まっている雫が零れ落ちそうだ。


「本郷、さん?」
「……ずっと、ずっと待たせてごめんな」


 海斗の唇が小さく動く。


「え、そりゃ待ちましたよ。本郷さん丸一日眠ってたんですからね。本当目を覚ますかどうか心配で心配で。本当によかったです」
「違う。ずっと……小学五年の時からずっと、待たせてごめん」
「え……?」


 海斗の視線に、言動に、身体を撃ち抜かれたような衝撃が走る。苦しくなり、息を吸うとヒュッと喉からおかしな音が鳴った。


(かい、と……?)


 真剣な海斗の表情。羽美は海斗から視線をずらすことが出来ず、身体が金縛りにあったようにびくともしない。


「記憶が、戻ったんだ。多分全部思い出した。だからもう知らない振りをしなくていいんだ、羽美」


 海斗の真っ直ぐな瞳から冗談で言っていないことはよく分かる。分かるからこそ、言葉がなかなか出てこない。羽美の唇が小刻みに震えていて声が出なかったからだ。言葉が出てこないかわりにツーっと目尻から涙が流れた。


「羽美」


 穏やかな波のような優しい声。海斗はベットから起き上がり、両手を広げて羽美を見る。


「羽美、おいで」
「っ――」


 広げられた海斗の腕の中に羽美は飛び込んだ。まるで二人で駆け落ちした日にタイムスリップしたかのよう。でも違う。十センチちかく小さかった海斗の身体は羽美よりもはるかに大きく羽美の身体をすっぽりと包み込んだ。


「あぁあっ――、っいと、かいと……」


 羽美は海斗の胸の中で何度も何度も海斗の名前を泣きながら呼んだ。海斗はうん、うん、と羽美の背中を撫でながら優しく何度も頷いた。


 どのくらい泣いたか分からず、羽美が落ち着くまで海斗はずっと羽美のことを抱きしめてくれていた。


「羽美、落ち着いた?」


 海斗は自分の身体から羽美をそっと離し、羽美の顔を覗き込んだ。潤んだ瞳にも海斗の表情がしっかりと映る。


「うん、ごめ、鼻水ついちゃったかも」
「そんなのいいよ」
「……本当に思い出したの?」
「うん。羽美を走って追いかけたあと頭が急に痛くなって、その時凄い勢いで頭の中にいろんな記憶が流れ込んできた、そんな感じだったかな。でも、あそこでヒールが折れて落ちかけるとか、本当驚かせてくれるよな。でも羽美が無事でよかった」


 ヘラっと力なく笑った海斗をどうしても抱きしめたくなった。羽美はそっと立ち上がり海斗の頭から包み込むように抱きしめる。


「おかえり、海斗」
「……うん」


 抱きしめる海斗の肩が小さく揺れ始めた。今度は海斗の番。自分はさっきたくさん泣いた。次は自分が海斗をおもいっきり泣かしてあげる。


 泣きながら海斗が何を考えているのかは分からない。自分の事なのか、母親のことなのか、会長夫婦のことなのか。思い当たる節はたくさんあるけれど羽美は一言も発しなかった。ただただ子供のように背を丸くしてすすり泣く海斗の身体から少しも離れず羽美は抱きしめ続けた。


「羽美……ありがとう」


 鼻をすすりながら海斗は小さく笑った。


「ううん。私はなんにもしてないよ。ただ、海斗のことがずっと好きだっただけ」
「それが一番嬉しいんだよ。俺、多分、今ここに羽美が居なかった現実を受け止める事が出来なかったかもしれない。目を覚ました時、羽美の顔が一番に見れてすごくホッとした」


 ふにゃりと笑った海斗の顔が幼い頃を思い出させる。


「私、海斗のこと守れてる?」


 また、声が震えそうになり羽美は両手をぎゅっと拳にした。その手に気がついた海斗はそっと羽美の二つの拳を手に取り、大きく包み込む。海斗は羽美を真っ直ぐに見つめた。


「かい、と?」
「本当は男の俺が羽美のことを守ってやらなきゃいけないのに。小さい頃も、大人になってからも羽美にはたくさん守ってもらっちゃったな」
「ははっ、ダメだ。我慢しても涙が勝手に出てきちゃうなぁ」


 鼻の奥がツンと痛み、こらえようにも目元が熱くなっていく。


「羽美」
「うん」
「俺、もう大丈夫だから。ちゃんと思い出したことも全部受け止める。だから、これからは俺が羽美をずっと守りたい。子供の頃の約束覚えてるか?」
「私と海斗の考えてることが同じなら、もちろん覚えてる。大切な約束だからね。海斗、私と結婚してくれる?」


 羽美の瞳は涙で溢れてボロボロとこぼれ落ちる。悲しいから流れるんじゃない。羽美は目尻をさげて笑った。


「ちょっ、また羽美に先越されたじゃねぇか。俺が格好良くプロポーズするはずだったんだけど!」


 おい、と言いながら海斗は羽美をぎゅっと抱き寄せた。身体と身体がしっかりと密着しあい、お互いの鼓動が感じ取れる。


 生きていてくれて良かった。何度思ったことだろう。海斗が生きていてくれて良かった。


「羽美、結婚しよう。一生大切にする、羽美を失いたくないんだ」


 海斗の甘く囁く声が羽美の身体を熱くする。羽美は何度もうん、うん、と海斗の胸の中で頷いた。


「もう、どこにも、行かないで……」
「あぁ、約束する。もう羽美を置いてどこにも行かないよ。俺たちは大人になったんだ。自分の足で、自分の力で生きていける。もう羽美を絶対に手放したりはしないから」


 海斗の大きな手で優しく頭を撫でられ、心の底から羽美は安心した。もうこの手が自分から離れることは無いのだと。


「羽美……」
「海斗……」


 唇が自然と引き合って重なった。舌が繋ぎあい、いい場所を探り合う。息をするのも惜しいくらい、少しの隙間もあけたくない。何度も何度も角度を変えて、息が苦しくなってきたところでゆっくりと唇が離れた。

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