ショートケーキは半分こで。〜記憶を失った御曹司は強気な秘書を愛す〜

森本イチカ

7-2

 不安は完璧には拭えずにあっという間に十四時になってしまった。


 千葉県K街にある古びたアパートの前に羽美と海斗、営業の森下は来ていた。


「社長どうですかね? ここのオーナーがもう御高齢で相続してくれる親族も居ないということで売却希望なんです」


 森下はタブレットを片手に物件の情報をすらすらと話す。営業職で磨かれたスマイルなのか、元からそういった性格なのか、明るい髪色で前髪センター分けの今流行の髪型をした森下は天性の営業職とも思われる子犬のような可愛らしい満面の笑みを海斗に見せた。


「そうですね。確かに建物は古いから取り壊して新しいアパートを立て直して、賃貸物件として貸し出すのもありだし、ここは田舎街だからアパートよりも一軒家の賃貸物件のほうが需要もありそうですね。土地も広いし。もう少しこの街の特徴をリサーチして、周りにどんな物件が多いか調べてください。でも、このアパートは購入方向で話を進めていきましょう。オーナーさんも御高齢で親族も居ないなら色々不動産を回るのも大変だろうしね」
「かしこまりました。すぐにリサーチを始めたいと思います」
「ん、頼みます」


 一歩下がって二人のやり取りを聞きながらタブレットに二人の話を打ち込んでいた羽美はいつもよりも気を張っていた。チラチラと周りを確認するが今の所、人は誰も通っていない。海斗の様子もいつもとなんら変わりはなさそうで、淡々と話しを進めていく。


「じゃあ、私達はもう少しこの周りを見てから帰りますので森下くんは社に帰ってリサーチの準備をお願いします」
「はい、では社長、大倉さん、お先に失礼します」


 森下は満面の笑みで一礼し、足早に帰っていった。


「では社長、車で少し周りますか?」
「ん、あぁ。少しこの当たりを周って帰ろうか」
「では運転手の方にそう伝えておきますね」


 車に乗り込み、羽美と海斗の産まれ故郷を周ることになった。羽美は車に乗る時は海斗の隣に乗る。最初の頃は海斗に乗るように指示され断り、それでも乗れと言われ何度もそのくだりを繰り返しているうちに羽美のほうが折れて海斗の隣に乗るようになったのだ。


「のどかでいい街だな」


 車の窓から外を眺め、海斗がボソリと呟いた。


「そう、ですね」


 なにか感じたのだろうか、海斗は小学五年生のときにこの街から居なくなってしまったが羽美は社会人になる前までこの街に住んでいた。それにこの街に羽美の両親も住んでいる。いつどこで知り合いに会うかわからないと、羽美はハラハラしていた。


(どうか知り合いに会いませんようにっ……)


 海斗は記憶を失っている。羽美とも初対面だと思っているし、最初に海斗と名前を言ったことは名前が同じだっただけで、人違いということになっているのだ。もし誰か知り合いにでも会って「あれ〜羽美ってばやっと海斗と会えたんだね!」なんて言われたら、海斗を混乱させてしまう状況をつくりかねない。


(あれ? 私、嘘つき女ってことにならない!? 記憶が無いとはいえ、海斗のこと騙してたとか思われちゃう!?)


 事の重大さに今さら気づき羽美の心臓がバクバクと動きだし冷や汗をかきそうになった。両手を膝の上でギュッと握りしめる。


 自分は海斗のことを騙している、ということになるのだろうか。海斗が記憶を思い出しそうになるたびに頭痛で苦しむ。小さい頃から色んな事に耐えてきた海斗にはもう自分を苦しめて堪えて欲しく無いと思った。確かに自分の事を忘れられていたことは悲しかったけれど、思い出すことによって海斗がまた苦しんでしまうのであれば思い出さなくても良い。新しく思いでを作ってまた好きになってもらえればいいと思っていた。けれど、それは自分の独りよがりな思いで、もし何かのきっかけで海斗が記憶を取り戻した時どう思うだろうか。嘘つきとか騙されたとか思われてしまうのだろうか。考えれば考えるほど思考が毛糸のように絡まり、わけが分からなくなってきた。


(え……?)


 膝の上でギュッと握りしめていた羽美の両手にそっと海斗の左手が重なった。驚いて海斗の方を見ると頬杖を突いて窓の外を眺めている。
 海斗は人の変化に敏感に気がつく。


「ふふっ」


 不安でいっぱいになりそうだったはずなのに笑みが溢れだす。羽美は重なる海斗の手を握りしめた。


(海斗……大好き。もし海斗が思い出したらその時考えよう)


 窓の外を眺めている海斗の耳がじわじわと真っ赤に染まりだす。きっと今更恥ずかしくなってきたのだろう。愛おしさが込み上げてくる。今はこの幸せを、大きな飴玉を口の中で長い時間ゆっくりと溶かすように、じっくり、じっくり味わいたい。


 羽美は左手だけをほどきスマートフォンを取り出した。フリック入力で素早く打ち込み送信する。


「社長、スマホが鳴りましたよ」
「ん、あぁ、確認する」


 海斗は右手でスマートフォンを取り出し内容を確認するとぶわっと顔を沸騰させたように真っ赤にした。


「社長、なんて書いてあったんですか?」
「自分がよく分かってるだろう」


 海斗が確認した内容は羽美が送ったものだ。


 ”優しい本郷さんが大好きです”


 海斗は顔を真っ赤に染めたまま、それでも繋いだ手は離さずにいてくれていた。


「社長、返事を返さないんですか?」
「ん、まだ返さない」


 まぁいいか。羽美はまだ真っ赤に茹で上がっている海斗を見て満足そうに微笑んだ。


(少しずつだけど前進してるよね)


 羽美は重なった手の熱をしっかりとこの身体に染み込ませておこうと指を絡めて繋ぎ直した。もうこの手の温もりを絶対に離したくない。

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