ショートケーキは半分こで。〜記憶を失った御曹司は強気な秘書を愛す〜

森本イチカ

5-4


 翌朝、誰よりも早く出社した羽美は社長のデスク後ろにある大きな窓を全開にし朝の爽やかな空気を部屋に取り込んだ。社長室のデスクと秘書室のデスクを拭き上げる。


(昨日私あんなこと言っちゃって、逃げるように帰ってきちゃったよ)


 花瓶の水を変えながら止めどなくため息が溢れ出す。


「あぁ、ダメダメ。仕事とプライベートはちゃんと分けないと社会人として失格よ」


 冷たい水が手を冷やすとともに頭も冷やしてくれた。


「お〜おはようございます。張り切ってるね〜先にやってもらっちゃってごめんね」


 安藤が出社してきた。羽美は急いで手を拭き花瓶を戻す。


「安藤さん、おはようございます。いえ、明日からも私がやりますので!」


 鞄をしまいながら安藤に「頼もしい、頼もしい」と言われ嬉しく頬が緩む。コーヒーの準備をしながら海斗が出社してくるのを待っているとタイミングよく社長室のドアが開いた。コーヒーメーカーのスイッチを押す。


「おはようございます社長。コーヒーです」


 デスクに座りパソコンの電源を入れている海斗の前にそっとコーヒーを差し出す。海斗の趣味なのか、安藤の趣味なのか海斗の愛用しているマグカップは可愛らしい丸みを帯びたマッドピンクのものだった。


「ん、ありがとう」
(え、昨日のことなんとも思ってない感じ……?)


 羽美が宣言した言葉に対して海斗は全く動じていないのか、顔色ひとつ変えずにコーヒーに手を掛けた。


「なに、そんな熱い視線で見つめて。大倉も飲みたいの?」


 クスッと笑った海斗は羽美を見上げた。


「やっ、ち、違いますよっ!」
「今日は適当なカップを使って飲んでくれ。今度大倉用のマグカップも用意しておくから」


 海斗の笑顔に朝から心臓がキュンと痛んだ。


「あ、ありがとうございます。嬉しいです!」
(うぅ、可愛いっ……仕事、仕事!)


 上がりきってしまった口角を必死で戻し、真顔で「失礼します」と秘書室に戻ろうとする羽美に海斗は「大倉」と羽美の背中に声をかけた。


「どうしました?」


 くるっと羽美は振り返る。


「今日は銀行に行ったり、外回り中心の予定なんだけど、大倉も同行してくれるか? 仕事を覚えるためにも、いいよな?」
「も、もちろんです。お願いします!」
「じゃあ安藤には会社に残ってもらって、大倉はさっそく準備してくれ」


 安藤の高らかな「は〜い」と言う声が秘書室と社長室を繋ぐドアの隙間から聞こえてきた。まるで一緒に行かなくてラッキーとも捉えられるような弾んだ声だった。


 運転手付きの車なんて初めて乗る羽美は緊張していた。今まで羽美が勤めていた会社は規模的に本郷不動産の足元にも及ばない弱小企業だったため、社長秘書として勤めていた羽美が社長の乗る車の運転までも勤め上げていたのだ。自分の運転じゃない車に乗るのは不思議な感じがして少し落ち着かない。


 流れるようなスムーズな動作で運転手が海斗を後部座席にエスコートし、海斗は当然のように乗り込んだ。その一連を眺めていた羽美は「じゃあ、私も失礼致します」と助手席に乗り込もうと動くと「大倉」と海斗は羽美を呼び止めた。


「はい、なんでしょか?」


 後部座席を覗き込むと、ぽんぽんと海斗は自分の隣を軽く叩き「こっちい座って」と言ってくる。


「いえ、秘書は順番的に助手席と決まってますので」


 嬉しい、とニヤけそうになる顔を必死で隠して羽美は真顔で断った。けれど海斗も折れず、社長という強い立場を利用して指示してくる。


「俺がいいって言っているんだからいいんだよ。移動中に見せておきたい資料とかもあるしね。早く乗れ」


 そう言われたら断るすべもない。羽美は「わかりました」と車を周り助手席の後部座席に乗り込んだ。


 無口な運転手なのだろうか、羽美が乗ったことを確認すると「出発します」と落ち着いたトーンで言い、その後は一言も言葉を発しなかった。ゆっくりと車が動き出す。


「あの、見せたい資料とはどちらですか? すぐに確認致します」
「ああ。これなんだけど今から行く銀行さんの資料だよ。融資などで長年お世話になってるところだ。これからは大倉と外回りしていくことも増えるだろうから今日は挨拶もかねてね」
「分かりました。少しお借りしてもよろしいですか? すぐに確認いたしますので」


 羽美は両手を差し出し海斗の持っていたタブレットを受け取る。ファイルに色々な取引先の資料がまとめられており、聞くと安藤がデータ化したほうが何かと便利だからとまとめてくれたんだと、海斗が言っていた。


「これから取引先が増えた場合は大倉にこういったこともお願いするからしっかり安藤に聞いておいて」
「分かりました。でも本当に見やすいですね、安藤さんさすがですね」


 羽美は見やすい取引先リストに感動し、画面をスライドする指が止まらない。ついタブレットに夢中になって銀行以外の資料も少し見てしまった。見応えばっちりでふぅ、と一息つきスライドさせていた指がつかれたのでグーパーして凝りをほぐす。


「ははっ、一気に見すぎて疲れたんじゃないか? そろそろ着くよ」
「あ、そうなんですね。本当見やすくてつい色々見てしましました。すいません」


 借りていたタブレットを海斗に返そうと両手で差し出すと、タブレットを持っていた右手をぎゅっと押さえられ、左手からするりとタブレットが抜かれていった。右手はなぜか海斗に握られたままだ。


「あの、社長……?」


 しぃっと右手の人さし指を立てて、海斗はクスクス声を出さずに笑っている。すっと海斗の顔が耳元に入り込み、小声で囁くように話した。


「俺のこと惚れさせるって言ってたけど、本気早く見せてよ」
(なんなの? この可愛い生き物は。仕事中なんですが!? 私をからっかって遊んでるつもり?)


 海斗は羽美を慌てさせて面白がっているように見える。羽美は嬉しくてドキドキしながらも、そう思い通りにはさせない、と羽美は握られていた手を動かし、海斗の指に自分の指を絡めた。ふんっとドヤ顔を見せると海斗は驚いたようで一瞬表情を固めたがじわじわと顔を赤く染め始めプイッと窓の外を向いてしまった。


(え……照れてる?)


 そっぽを向いてくれたお陰で海斗の耳がよく見える。


(ふふ、耳まで真っ赤。自分から仕掛けてきたくせになぁ。本当、変わらない)


 幼きあの日に初めてしたキス。海斗からキスしたいと言い出したくせに耳まで真っ赤にして照れていた。その姿と大人になった海斗の今の姿が重なり懐かしい気持ちで胸が熱くなった。
 大人になって素直じゃない、意地悪な海斗も好き。


「さ、着いたから行くぞ」


 繋がれた手が自然と解ける。


「はい。よろしくお願いします」


 羽美はニッコリと微笑んだ。まだ羽美の右手には海斗の温もりがまだほんのり残っていた。


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