恋と遺伝子~相性98%のおためし同居生活~

寧子さくら

さよならとキス(2)

「あ、あの……?」

 どうして引き込まれたのだろうか。
 初めて入る社長室は、来客用にソファセットがあり、奥に整頓された彼のデスクが置かれていた。オフィスの中だというのに、最低限のオフィス家具と整頓された空間は、いかにも彼らしい部屋だ。

「もうこれから帰るところか?」

 私の荷物をまじまじと見て、彼が尋ねる。

「はい、ちょうど先ほど退勤しまして」
「また他人の仕事でも手伝ってたのか?」
「ち、違います。今日は例の企画書を作っていて……」

 さすがに悩み過ぎて仕事に手が付かなかったとは、口が裂けても言えない。
 それに……。

「こ、この手は……?」

 部屋に引き込まれる際、引かれた手は啓さんに握られたまま。彼も無意識だったのか、ぱっと離すと近くのソファに腰掛けた。

「ならちょうどいいところに来た。少しだけ付き合ってくれないか?」
「え……」
「こっちに来てくれ」

 二人掛けのソファの隣をポンポンと叩くと、隣に座るように促される。戸惑いつつも彼の隣に腰を下ろすと、肩に重みを感じた。

「あの……」

 見れば、私の肩に啓さんが寄りかかり目を閉じている。

「少し疲れたんだ。休憩させてくれ」
「誰か来たら……」

 一応ここは会社だ。それに社長である彼と、こんなに密着している様子を誰かに見られたら、弁明のしようがない。
 しかし啓さんは相変わらず冷静に、目を閉じたままで口を開く。

「この時間ほとんど人はいないし、ノックなしに入ってくるやつもいない」
「ですが……」
「君はそこにいるだけでいい。五分でも構わない」

 そんな風に言われてしまっては、断ることもできない。小さく「分かりました」と頷くと、彼は口角を緩めた。

「やはり君といると落ち着く。何でだろうな」

 至近距離で伝わる、彼の温もりと匂い。私も落ち着くはずなのに、妙にドキドキしてしまって、この心臓の音が彼に聞こえてしまわないかヒヤヒヤとさせられた。

「そういえば、七滝とは何の話をしてたんだ?」
「ええと……内緒です」

 なんとなく、意地悪でそう返すと、彼はムッとしてこちらを見る。

「君たちはやけに仲良いな。たまに連絡も取り合ってるんだろう」
「そ、それは事務的な連絡で……」

 確かに七滝さんとは、何度か連絡を取ることがあった。と言っても、生活に不便はないかなど他愛もないことばかり。彼なりに、啓さんの家で暮らす私をフォローしてくれているのだろう。

「前にも言ったが、俺のことで聞きたいことがあれば俺に聞け」
「社長の話はしてませんよ……!」
「ほう、してないのか。それはそれで複雑な気分だな」
「もう何なんですか? またヤキモチですか?」
 
 いつもの意地悪のお返しに、わざとらしく聞き返す。

「悪いか。君と七滝が仲良くしてるのは面白くない」

 啓さんを少し困らせたかったのに、彼はなんてことのない風に答えた。

「っ、それはどういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だが」

 そう言って、彼は再び目を瞑る。
 ダメだ、啓さんがよく分からない。そんなことを言われると、まるで私に好意があるのかのように思えてしまう。だけど、「社長は私のこと好きなんですか?」なんて馬鹿みたいなこと聞けるわけがない。
 隣で目を閉じている彼の表情は穏やかだが、目の下には薄っすらとクマがあった。昨日はよく眠れなかったのだろうか。
 土曜は一緒に眠ったけれど、彼の慢性的な疲れがたった一日で取れるとは到底思えなかった。それなのに今日も、週の前半から遅い時間まで働いているなんて。どれほど自分の体を酷使するのだろうか。

「あの、今週はThanks meされましたか?」
「んー……君とのデートくらいかな」
「ええっ」
「君といると不思議と癒される。今だってそうだ」

 まただ。彼は簡単に期待するようなことを言う。そのくせ、私とは恋愛する気がないだなんて。私の気も知らないで。
 彼の一言一言に振り回されるモヤモヤは、どんどんと怒りに変わる。
 やけになって、彼の頬にキスを落とす。そして数秒後、とてつもない後悔に襲われた。

「……ここは会社だぞ」
「す、すみません。つい……」
「誰かに見られたらと言ったのは君の方なのに」
「はい……」
「今ので満足か?」

 グイッと距離を縮められる。
 どちらかが少しでも動けばキスしてしまいそうな距離に、上手く息ができない。

「誘ったのは君だ」
「っ……」

 瞬間、啓さんから唇を奪われた。ここはオフィス。しかも社長室。背徳感と比例するようにキスは深くなり、何も考えられなくなる。
 優しくて、濃厚な口づけに、私の頭は麻痺してしまう。彼と触れ合うたびに溢れだしそうな気持ちを抑え込み、口づけが離れていくと、浅く息継ぎをした。
 啓さんの透き通った瞳には、私が映っている。それがこの上なく幸せに思えた。

「……ここが会社じゃなければよかったな」

 名残惜しそうに呟いて、彼が離れていく。やめて欲しくなくて、無意識にシャツを掴んだ。

「どうした?」
「私……」

 ずっと、敢えて考えないようにしていた。一度認めたら、一気に溢れてしまいそうだから。でも、もう自分の気持ちを誤魔化すことなどできなかった。
 啓さんが好きだ。尊敬できる上司でも、人間でもなく、ひとりの男性として。
 自ら好きにならないと言ったものの、啓さんと一緒にいて好きにならない方が難しかった。それほどまでに、彼は魅力的な人だから。

「……もっと」

 ギリギリのところで抑えた言葉は、違う方向で彼を煽る。それでも啓さんは「まいったな」と困ったように笑って、もう一度口づけてくれた。
 本当にこのままでは、いつか好きが溢れて止まらなくなってしまう。だから、彼の傍にいてはいけない。
 そう思いながら、あと少しだけと、束の間のキスを交わした。

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