『原作小説』美形王子が苦手な破天荒モブ令嬢は自分らしく生きていきたい!
49閑話『誰か……!』マリアンヌ視点
「マリアンヌ、さぁおいで」
いや。
 
自分に迫ってくる男の手はぶくぶくと身が詰まり指の関節が肉に埋もれてしまっている。
贅肉を蓄えたら腹部はせりだしている。首元を閉めていたリボンを外すとはだけた襟首から男性らしい胸毛を蓄えた女性に負けずとも劣らない豊満な胸部が目に入り全身に悪寒がはしった。
「母に似て美しくなったな」
いや、嫌! 来ないで!
じりじりと距離を詰める父の腕から逃れるように必死に毛足の長い絨毯の上を後ずさる。
元来父は好色家と言う不治の病らしい、幼い頃からいつも屋敷に沢山の女を連れ込んでいた。
扇情的に背中が開いたデザインのドレスから白い肌が覗き、最早不自然なほど胸元を主張したドレスから薫る媚を含んだ甘ったるい香りが鼻につく。
くっきりと引かれた紅い唇が、父の甘えるような声音で父の名を呼ぶ度に耳を塞いだ。
屋敷に響き渡る嬌声を、母の腕の中でひたすら耐えた。
「大丈夫よ、マリアンヌ大丈夫」
「奥様……」
険しい顔で扉を睨み付ける乳母とは対照的に母は何度も何度も私に大丈夫だと言い続けた。
まるで自分に言い聞かせているように。
ほとんど借金のかたとして嫁入りした母に逃げられる場所などあるはずもない。
それから何年も何年もただ耐える苦痛の日々が続いたある日、とうとう母が病に倒れた。
母が倒れた日も、生死を彷徨っている間も家令を通じて父には病状を知らせてあったが、一度たりとも母の元に姿を見せることをしなかった。
母の苦しそうな息遣いと一緒に今日も嬌声が聞こえてくる。
「ごめんね……マリアンヌ、貴女は幸せに……」
涙を流しながら懸命に握り締めた母の痩せ細り骨の浮き出た手は私の頬をひと撫でするとそのまま力を失ったようにベッド脇へと墜ちた。
体調を崩してからガタガタと病状を悪化させた母の目尻から一筋の涙が頬を伝いシーツに流れ落ちる。
「お母様……っ、おっ、おか……」
何度も嘔吐きながら母の亡骸にすがり付いた。
一体どれ程の時間そうしていたのかわからない。
そんな私を母の側から引き摺りだしたのは不機嫌を隠そうともしない父だった。
肥え太った巨体を揺らして品性の欠片もない装飾過多な衣装を纏った醜い生き物が自分の腕を掴んでいる。
久し振りに見た父は、もはや人には見えなかった。
掴まれた腕に感じる父の体温に嫌悪が沸き起こる。
加齢臭に混じって香る女物の香水の甘い匂いに吐き気が止まらなかった。
醜い生き物を受け付けなくなったのは、今思えばそれが切っ掛けだったのだろう。
それ以来私はひたすら美しさを求めるようになった。
自分を美しく見せる術は母が死んでからも変わることなく連れ込まれる女達を見て覚えた。
男を相手に春を売る女の仕草は色っぽくて使い方によっては強い武器になる。
自分を磨き続けた微かな平穏の日々は、酒の臭いを撒き散らしながら赤ら顔で部屋に入ってきた父によっては崩壊した。
「初めて会った時のお前の母にそっくりに育ったな。 俺を見下すその目もなぁ?」
ニタァッと笑う。 それだけで身の毛がよだつ。
必死に後退り、何かに躓いて絨毯の上に転がった私に覆い被さった怪物の手がスカートの中に忍び込んだ瞬間、目の前が真っ赤になった。
それからの事は覚えていない。無我夢中で抵抗していたのだろう、ヌルリとした物を手のひらに感じて正気に戻ると見慣れたはずの白い手が深紅に染まっていた。
着ていた筈の服は無惨に破かれ血で汚れ、身体中から痛みが走る。
手に持っていた凶器となった燭台が手から滑り落ちてゴトッと鈍い音をたてて床に転がった。
「あは、あはは、あははははぁ。 うっ、うえーっ」
怪物を倒したと言う安堵と鼻につく酒精と鉄臭い血液の臭気に耐えきれず嘔吐した。
「きっ、きゃー! おっ、お嬢様がぁ!だっ、誰か来て!」
騒ぎを聞き付けて部屋に駆け付けた侍女の悲鳴を聞きながら私は意識を手放した。
次に目が覚めた時、認識したのは見たことがない真っ白な天井だった。
自分を覗きこむ初老の女性は心配そうにこちらを見詰めていた。
「……っ、……!?」
発したはずの声は出ず、喉が焼けつくようだった。
喉を押さえて咳き込むと、女性は慌てることなく背中を落ち着くまでゆっくりと撫で続ける。
「目が覚めましたね、飲めますか?」
そう言って手渡されたカップに口をつけるととても甘露な飲み物が身体に染み込むようで一気に飲み干した。
数杯飲み干した頃、ようやくその飲み物が只の水だと気がついた。
「貴女は一週間意識が無かったのです、高熱が続き生死の境をさまよったのです。 熱は下がりましたがもうしばらく休養が必要ですわ」
背中を支えて貰いながらベッドへと横になると直ぐに睡魔がやって来た。
後から聞かされた話では、倒れた後で母の伯母の住むこの屋敷に運ばれたらしい。
父は出血の量が多かったものの、幸い命に関るほどの怪我にはなっていなかったらしい。
手当てを済ませて直ぐにどこかへと連行されていったそうだ。
父は買春だけに留まらず、人には言えないような事を悪どくやっていたようで余罪を含めて断罪され、その後屋敷に戻ってくることは無かった。
もう父を醜い怪物としてしか見れなくなっていた私は、それ以降極度の男性恐怖症に陥った。
下卑た笑いを浮かべる物、醜く歪んだ顔を見れば自然と身体が拒絶する。
「いっ、嫌ぁぁぁー! 来ないでぇぇぇ!」
毎夜のようにやって来る悪夢に悲鳴をあげながらベッドから飛び起きた。
全身から冷や汗が出ていた。 手足が冷えきり震えが止まらない。 
見慣れない部屋にここが入学したばかりの王立学院の寮の自室だと思い出した。
本当は男の人など会いたくない。
しかし貴族の義務付けられている王立学院への入学はどうしても避けられなかった。
ベッドから脱け出して身嗜みを整えようと鏡台に向かえば、青白い顔をした自分が映る。
歳を重ねるごとに研ぎ澄まされていく母譲りの美貌、私の人生を狂わせたこの美貌など要らない!
衝動的に近くにあった小物入れを投げ付けると、ガシャーン! と大きな音を立てて鏡台が割れた。
「何処か具合でも悪いのか?」
登院初日、気分が悪いと教室を脱け出して校庭の片隅に踞っていた私にひとりの男子生徒が声を掛けてきた。
銀色の髪に和やらかなラベンダー色の瞳の少年。
透けるような白い肌と幼さを色濃く残した少年は当然のように隣にしゃがみ込むと私の頭上へと手を伸ばしてきた。
叩かれるっ!
「嫌!」
次の瞬間私は少年の手を反射的に払い除けてしまった。
「ごっ、ごめ」
見ず知らずの人に手を挙げてしまったと言う事実にざぁっと血の気が引いていく。
「大丈夫だよ? もう君が良いと言うまで触らない。 立てる?」
「はい」
少年はロキと名乗った。
ロキはそれからと言うものマリアンヌが一人になるとひょっこり現れてはマリアンヌの他愛ない話を笑顔で聞いてくれた。
その美しい容貌は彼が父親とは全く違う生き物なのだと認識させてくれた。
彼と出逢ってから一年が経過した頃には、ただ彼に会いたくて、時間を見つけては人がいない空間を求めてひとりで学院内をさまようようになってしまっていた。
「ロキ様……」
「マリアンヌ?」
今日は会えないのだろうか、ポソリと口をついた名前に、すっかり心の拠り所となった声の主が自分の名前を呼んでくれた。
「ロキ様! お会いしたかった!」
駆け寄る私の身体を優しく抱き寄せて、額に羽毛のようなキスを落としてくれた。
ロキ様は始めてあった時の約束を守り、今日まで決して私に触れる事がなかったのに。
「ロキ様?」
驚きに彼の顔を見上げればいつもの明るい表情とは違い、苦痛に耐えるような憂いを帯びた笑顔を浮かべていた。
「マリアンヌ、実は私はこの国を去らなければいけなくなってしまった……今日は別れを告げに来たんだよ……」
別れ、えっ、誰と誰が。 ロキ様は一体何を仰っているの?
「私の本当の名前はロキシアン。 ロキシアン・フレアルージュ。 フレアルージュ王国の第三王子だよ」
フレアルージュ王国、それは今私がいるローズウェル王国の隣国の名前だった。
ローズウェル王国と軍事大国として名高いゾライヤ帝国に国境を接する小国がフレアルージュ王国だ。
「二人いた兄が亡くなったと祖国から早馬が来たんだ。 隣国のゾライヤ帝国が侵攻してきたんだよ。 直ぐに第二王子の兄上が防衛戦に出陣したんだけど、備えも足りず苦戦を強いられて包囲網を突破され、救援に向かった王太子である兄上も伏兵に矢をいられて亡くなられてしまった。 優秀な兄達に先立たれてもう残った王子は私だけになってしまったよ」
自嘲に話す声は僅かに震えていた。
いつも優しく、私の意思を尊重して今日まで決して触れようとしなかった。
辛いときには隣に座りただただ私の悩みを聞いてくれたり励ましてくれた彼と離れなければならない。
いや、嫌だ! 離れたくない!
そうか、私はこの人の事が何よりも大事なんだ。
そう自覚した私は小さく微笑を浮かべたロキ様の首もとに抱き付いた。
はしたない行為だとわかっている。 それでも!
「私も一緒にお連れください! お願いです! ロキ様!」
私の行動に驚き、目を見開いた彼は懇願に答えるように私の背中に腕を回すと強く抱き締めてくれた。
「すまない、すまないマリアンヌ。フレアルージュは戦乱の真っ只中だ。 いつこの国もフレアルージュに攻め入るかもわからないんだ。 君を危険に巻き込みたくはない」
耳元で優しくも苦渋に満ちた彼の声が耳に響く。
この温もりもマリアンヌと呼んでくれた声も、そして彼の馨りも喪ってしまう。
「ロキ様……抱いて下さい」
小さな願いが口から漏れた。 きっと優しい彼は私を国へ連れていってはくれないだろう。
それならせめて初めては貴方に捧げたい。
「マリアンヌ?」
困惑した様子でこちらを向いたロキ様の両頬に軽く両手を添えると、私は自分から顔を寄せて触れるだけのキスをした。
「お願いです」
「マリアンヌ!」
彼の腕に抱かれて一晩中身体を繋げ、目が覚めると彼はもう学院から去ってしまっていた。
一通の封筒を残して。
『愛しのマリアンヌへ
きっと迎えに来る。 待っていてくれ』
ポタリと瞳から涙が頬を伝い、膝に乗せた封筒の上に落ちた。
「はい……マリアンヌはロキ様をいつまでもお待ちしております」
大切に手紙を胸元で抱き締めてマリアンヌは決意した。
ロキ様が無事に戦乱を乗り越えられるように私も出来る事をしよう。
ローズウェル王国が貴方の大切なフレアルージュ王国に出兵出来ないように。
それが私に出来るただ一つの事なのだ。
「私に、出来ること……」
こんな小娘に出来ることなどたかが知れている。
それでも心はロキ様の側に、いくら身体を開こうともこの国が貴方を傷付ける事がないように。
「こんにちは! こんなところでどうかなさいました?」
怖い! やはり特別だったのはロキ様だからだったのだろう。
悲鳴を上げそうになる心を叱咤して、庭園の片隅に蹲り頭を抱えた男性に声を掛ける。
この国が他国に構っている暇がないように少しでも掻き回せれば……
「誰だ?」
何事も無かったように颯爽と立ち上がった人物が誰何する。
王妃譲りの金糸のような長い髪を三つ編みにして肩口へと流している。 青い瞳の美男子。
第三王子ルーベンス・ローズウェル殿下。
私とロキ様の幸せの鍵となる最重要人物だった。
「はじめまして、私はマリアンヌ。 マリアンヌ・カルハレスと申します」
いや。
 
自分に迫ってくる男の手はぶくぶくと身が詰まり指の関節が肉に埋もれてしまっている。
贅肉を蓄えたら腹部はせりだしている。首元を閉めていたリボンを外すとはだけた襟首から男性らしい胸毛を蓄えた女性に負けずとも劣らない豊満な胸部が目に入り全身に悪寒がはしった。
「母に似て美しくなったな」
いや、嫌! 来ないで!
じりじりと距離を詰める父の腕から逃れるように必死に毛足の長い絨毯の上を後ずさる。
元来父は好色家と言う不治の病らしい、幼い頃からいつも屋敷に沢山の女を連れ込んでいた。
扇情的に背中が開いたデザインのドレスから白い肌が覗き、最早不自然なほど胸元を主張したドレスから薫る媚を含んだ甘ったるい香りが鼻につく。
くっきりと引かれた紅い唇が、父の甘えるような声音で父の名を呼ぶ度に耳を塞いだ。
屋敷に響き渡る嬌声を、母の腕の中でひたすら耐えた。
「大丈夫よ、マリアンヌ大丈夫」
「奥様……」
険しい顔で扉を睨み付ける乳母とは対照的に母は何度も何度も私に大丈夫だと言い続けた。
まるで自分に言い聞かせているように。
ほとんど借金のかたとして嫁入りした母に逃げられる場所などあるはずもない。
それから何年も何年もただ耐える苦痛の日々が続いたある日、とうとう母が病に倒れた。
母が倒れた日も、生死を彷徨っている間も家令を通じて父には病状を知らせてあったが、一度たりとも母の元に姿を見せることをしなかった。
母の苦しそうな息遣いと一緒に今日も嬌声が聞こえてくる。
「ごめんね……マリアンヌ、貴女は幸せに……」
涙を流しながら懸命に握り締めた母の痩せ細り骨の浮き出た手は私の頬をひと撫でするとそのまま力を失ったようにベッド脇へと墜ちた。
体調を崩してからガタガタと病状を悪化させた母の目尻から一筋の涙が頬を伝いシーツに流れ落ちる。
「お母様……っ、おっ、おか……」
何度も嘔吐きながら母の亡骸にすがり付いた。
一体どれ程の時間そうしていたのかわからない。
そんな私を母の側から引き摺りだしたのは不機嫌を隠そうともしない父だった。
肥え太った巨体を揺らして品性の欠片もない装飾過多な衣装を纏った醜い生き物が自分の腕を掴んでいる。
久し振りに見た父は、もはや人には見えなかった。
掴まれた腕に感じる父の体温に嫌悪が沸き起こる。
加齢臭に混じって香る女物の香水の甘い匂いに吐き気が止まらなかった。
醜い生き物を受け付けなくなったのは、今思えばそれが切っ掛けだったのだろう。
それ以来私はひたすら美しさを求めるようになった。
自分を美しく見せる術は母が死んでからも変わることなく連れ込まれる女達を見て覚えた。
男を相手に春を売る女の仕草は色っぽくて使い方によっては強い武器になる。
自分を磨き続けた微かな平穏の日々は、酒の臭いを撒き散らしながら赤ら顔で部屋に入ってきた父によっては崩壊した。
「初めて会った時のお前の母にそっくりに育ったな。 俺を見下すその目もなぁ?」
ニタァッと笑う。 それだけで身の毛がよだつ。
必死に後退り、何かに躓いて絨毯の上に転がった私に覆い被さった怪物の手がスカートの中に忍び込んだ瞬間、目の前が真っ赤になった。
それからの事は覚えていない。無我夢中で抵抗していたのだろう、ヌルリとした物を手のひらに感じて正気に戻ると見慣れたはずの白い手が深紅に染まっていた。
着ていた筈の服は無惨に破かれ血で汚れ、身体中から痛みが走る。
手に持っていた凶器となった燭台が手から滑り落ちてゴトッと鈍い音をたてて床に転がった。
「あは、あはは、あははははぁ。 うっ、うえーっ」
怪物を倒したと言う安堵と鼻につく酒精と鉄臭い血液の臭気に耐えきれず嘔吐した。
「きっ、きゃー! おっ、お嬢様がぁ!だっ、誰か来て!」
騒ぎを聞き付けて部屋に駆け付けた侍女の悲鳴を聞きながら私は意識を手放した。
次に目が覚めた時、認識したのは見たことがない真っ白な天井だった。
自分を覗きこむ初老の女性は心配そうにこちらを見詰めていた。
「……っ、……!?」
発したはずの声は出ず、喉が焼けつくようだった。
喉を押さえて咳き込むと、女性は慌てることなく背中を落ち着くまでゆっくりと撫で続ける。
「目が覚めましたね、飲めますか?」
そう言って手渡されたカップに口をつけるととても甘露な飲み物が身体に染み込むようで一気に飲み干した。
数杯飲み干した頃、ようやくその飲み物が只の水だと気がついた。
「貴女は一週間意識が無かったのです、高熱が続き生死の境をさまよったのです。 熱は下がりましたがもうしばらく休養が必要ですわ」
背中を支えて貰いながらベッドへと横になると直ぐに睡魔がやって来た。
後から聞かされた話では、倒れた後で母の伯母の住むこの屋敷に運ばれたらしい。
父は出血の量が多かったものの、幸い命に関るほどの怪我にはなっていなかったらしい。
手当てを済ませて直ぐにどこかへと連行されていったそうだ。
父は買春だけに留まらず、人には言えないような事を悪どくやっていたようで余罪を含めて断罪され、その後屋敷に戻ってくることは無かった。
もう父を醜い怪物としてしか見れなくなっていた私は、それ以降極度の男性恐怖症に陥った。
下卑た笑いを浮かべる物、醜く歪んだ顔を見れば自然と身体が拒絶する。
「いっ、嫌ぁぁぁー! 来ないでぇぇぇ!」
毎夜のようにやって来る悪夢に悲鳴をあげながらベッドから飛び起きた。
全身から冷や汗が出ていた。 手足が冷えきり震えが止まらない。 
見慣れない部屋にここが入学したばかりの王立学院の寮の自室だと思い出した。
本当は男の人など会いたくない。
しかし貴族の義務付けられている王立学院への入学はどうしても避けられなかった。
ベッドから脱け出して身嗜みを整えようと鏡台に向かえば、青白い顔をした自分が映る。
歳を重ねるごとに研ぎ澄まされていく母譲りの美貌、私の人生を狂わせたこの美貌など要らない!
衝動的に近くにあった小物入れを投げ付けると、ガシャーン! と大きな音を立てて鏡台が割れた。
「何処か具合でも悪いのか?」
登院初日、気分が悪いと教室を脱け出して校庭の片隅に踞っていた私にひとりの男子生徒が声を掛けてきた。
銀色の髪に和やらかなラベンダー色の瞳の少年。
透けるような白い肌と幼さを色濃く残した少年は当然のように隣にしゃがみ込むと私の頭上へと手を伸ばしてきた。
叩かれるっ!
「嫌!」
次の瞬間私は少年の手を反射的に払い除けてしまった。
「ごっ、ごめ」
見ず知らずの人に手を挙げてしまったと言う事実にざぁっと血の気が引いていく。
「大丈夫だよ? もう君が良いと言うまで触らない。 立てる?」
「はい」
少年はロキと名乗った。
ロキはそれからと言うものマリアンヌが一人になるとひょっこり現れてはマリアンヌの他愛ない話を笑顔で聞いてくれた。
その美しい容貌は彼が父親とは全く違う生き物なのだと認識させてくれた。
彼と出逢ってから一年が経過した頃には、ただ彼に会いたくて、時間を見つけては人がいない空間を求めてひとりで学院内をさまようようになってしまっていた。
「ロキ様……」
「マリアンヌ?」
今日は会えないのだろうか、ポソリと口をついた名前に、すっかり心の拠り所となった声の主が自分の名前を呼んでくれた。
「ロキ様! お会いしたかった!」
駆け寄る私の身体を優しく抱き寄せて、額に羽毛のようなキスを落としてくれた。
ロキ様は始めてあった時の約束を守り、今日まで決して私に触れる事がなかったのに。
「ロキ様?」
驚きに彼の顔を見上げればいつもの明るい表情とは違い、苦痛に耐えるような憂いを帯びた笑顔を浮かべていた。
「マリアンヌ、実は私はこの国を去らなければいけなくなってしまった……今日は別れを告げに来たんだよ……」
別れ、えっ、誰と誰が。 ロキ様は一体何を仰っているの?
「私の本当の名前はロキシアン。 ロキシアン・フレアルージュ。 フレアルージュ王国の第三王子だよ」
フレアルージュ王国、それは今私がいるローズウェル王国の隣国の名前だった。
ローズウェル王国と軍事大国として名高いゾライヤ帝国に国境を接する小国がフレアルージュ王国だ。
「二人いた兄が亡くなったと祖国から早馬が来たんだ。 隣国のゾライヤ帝国が侵攻してきたんだよ。 直ぐに第二王子の兄上が防衛戦に出陣したんだけど、備えも足りず苦戦を強いられて包囲網を突破され、救援に向かった王太子である兄上も伏兵に矢をいられて亡くなられてしまった。 優秀な兄達に先立たれてもう残った王子は私だけになってしまったよ」
自嘲に話す声は僅かに震えていた。
いつも優しく、私の意思を尊重して今日まで決して触れようとしなかった。
辛いときには隣に座りただただ私の悩みを聞いてくれたり励ましてくれた彼と離れなければならない。
いや、嫌だ! 離れたくない!
そうか、私はこの人の事が何よりも大事なんだ。
そう自覚した私は小さく微笑を浮かべたロキ様の首もとに抱き付いた。
はしたない行為だとわかっている。 それでも!
「私も一緒にお連れください! お願いです! ロキ様!」
私の行動に驚き、目を見開いた彼は懇願に答えるように私の背中に腕を回すと強く抱き締めてくれた。
「すまない、すまないマリアンヌ。フレアルージュは戦乱の真っ只中だ。 いつこの国もフレアルージュに攻め入るかもわからないんだ。 君を危険に巻き込みたくはない」
耳元で優しくも苦渋に満ちた彼の声が耳に響く。
この温もりもマリアンヌと呼んでくれた声も、そして彼の馨りも喪ってしまう。
「ロキ様……抱いて下さい」
小さな願いが口から漏れた。 きっと優しい彼は私を国へ連れていってはくれないだろう。
それならせめて初めては貴方に捧げたい。
「マリアンヌ?」
困惑した様子でこちらを向いたロキ様の両頬に軽く両手を添えると、私は自分から顔を寄せて触れるだけのキスをした。
「お願いです」
「マリアンヌ!」
彼の腕に抱かれて一晩中身体を繋げ、目が覚めると彼はもう学院から去ってしまっていた。
一通の封筒を残して。
『愛しのマリアンヌへ
きっと迎えに来る。 待っていてくれ』
ポタリと瞳から涙が頬を伝い、膝に乗せた封筒の上に落ちた。
「はい……マリアンヌはロキ様をいつまでもお待ちしております」
大切に手紙を胸元で抱き締めてマリアンヌは決意した。
ロキ様が無事に戦乱を乗り越えられるように私も出来る事をしよう。
ローズウェル王国が貴方の大切なフレアルージュ王国に出兵出来ないように。
それが私に出来るただ一つの事なのだ。
「私に、出来ること……」
こんな小娘に出来ることなどたかが知れている。
それでも心はロキ様の側に、いくら身体を開こうともこの国が貴方を傷付ける事がないように。
「こんにちは! こんなところでどうかなさいました?」
怖い! やはり特別だったのはロキ様だからだったのだろう。
悲鳴を上げそうになる心を叱咤して、庭園の片隅に蹲り頭を抱えた男性に声を掛ける。
この国が他国に構っている暇がないように少しでも掻き回せれば……
「誰だ?」
何事も無かったように颯爽と立ち上がった人物が誰何する。
王妃譲りの金糸のような長い髪を三つ編みにして肩口へと流している。 青い瞳の美男子。
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