アナザー・デイズ 1977

kenji sugiuchi

第1章 〜 2 平成三十年(3)

 2 平成三十年(3)
 


 それから、何時間が経ったのか? 
 知らぬ間に寝てしまっていたらしく、激しい胃の痛みによって目が覚める。
 それから〝もしや〟と思って、慌てて己の顔を弄った。しかし期待は裏切られ、未だ横たわっている現実に彼は再びショックを受ける。
 胃の痛みの方はしばらくすると治まって、すると今度は腹がクークー鳴り出した。どうしようもなく落ち込んでいたが、それでもしっかり腹は減るらしい。
 少なくとも部屋は暗くなっていて、窓からの景色も同様だ。
 思えば、朝から何も食べていない。
 加えて恐ろしいまでのストレスに、老人の胃袋はきっと悲鳴を上げたのだ。
 ――何か、ないかな……?
 あまりに小さな冷蔵庫に目をやって、彼が立ち上がろうとした時だった。
 玄関からノックが聞こえ、続いて男の声が耳に届いた。
「翔さん、俺です、吉崎です」
 一瞬、どうしようかと思ったが、すぐに記憶にあった言葉が蘇る。
 ――翔太さん、吉崎です! 大丈夫ですか?
 今朝方、男はそう告げて、また電話するからと言っていた。
「入りますよ、いいですか?」
 そんな声が聞こえた時には、古ぼけた扉がギギーと音を立てている。
「やっぱり、具合悪いんですね!?」
 せんべい布団にいる彼を見るなり、男は辛そうな顔でそんなことを言ってきた。
 この日、達哉が初めてあった男は吉崎涼、三十七歳。
 天野翔太の所属する会社の上役で、天野翔太となってしまった達哉のことを何かと心配してくれる。
「俺の今があるのは、翔太さんのお陰っすから! だからなんでも言ってください!
俺はなんでも、何があっても、翔太さんの味方ですよ!」
 などと言ってくれる彼によってこれ以降、どれだけ助けられたか知れないのだった。
 ただこの時は、彼が誰なのかもわからない。
 だから懸命なるウソを吐いた。
 昨晩、酒に酔っ払って頭を強く打ってしまった。それから記憶が曖昧で、なんでもないことが思い出せなくて困っている。そんな達哉の大嘘を信じ込み、
「絶対、医者に行った方がいいですよ!」
 真剣な顔でそう言う彼へ、達哉は数日くらい様子を見たい……それでダメだったら医者に行くからと返し、
「それより、俺のことを教えてくれないか? キミが、知ってることを……」
 できれば知り合った頃のことからと、頭を下げつつ頼み込んだ。
「俺も、翔太さんと知り合って、たった三年ですから、なんでも知ってるってわけじゃないけど、それで、よければ……」
 二人の出会いは出先の現場で、吉崎涼は吉崎工業社長の息子だ。
 建築とは無関係の会社で働いていた彼は、父親の病気によって呼び戻される。
「三年の実務経験さえ終わらせれば、チャチャっと主任技術者にもなれるし、そうすりゃ現場監督なんて楽勝だって、俺、あの頃、マジでそう思ってたんですよ……」
 ところが現場で働く作業員と、彼はまったく以って上手くいかない。
「実際、見下してましたもん……どうせ馬鹿ばっかだって、みんなのこと……」
 そんな気持ちは、あっという間に現場全体に知れ渡ってしまう。
 さらに偉そうな態度とは裏腹に、吉崎の指示、行動には的外れなことが多々あった。作業員からの指摘にも、素直に認めるどころか「勝手にしろ」という態度。
 そうして当然、彼の言うことなど誰もがちゃんと聞かなくなって、工事はどんどん遅れていくのだ。
「そんな時に、翔太さんに俺、助けてもらったんです」
 翔太は作業員一人一人を説得して回り、もちろん吉崎涼へも叱咤した。
「翔太さんって、背は高いけどガリガリでしょ? 俺、学生時代ボクシングやってたからさ、チョロいもんだって思っちゃって……」
 結果、吉崎涼は一発のパンチも浴びせられない。
「俺、慌てちゃってさ、近くにあったスコップを振り上げたんだ。そしたらさ、いきなり翔太さんの一発でダウンですよ。で、気が付いたら親父がそばに立ってて、翔太さんから電話があったって、俺のせいで、翔太さんが辞めちまうって言いやがる。だから、どうしてだよって聞いたら、社長の息子をぶん殴って、それでも働いてたら、みんなにも〝示し〟が付かないだろうって、翔太さんがさ、そう言ったって……まったく、実際、クソって思ったよ。でもさ、完全に……俺の負け、ですよね」
 吉崎涼は翔太のアパートまでやってきて、頭を下げて頼み込んだ。
「もちろん、俺の気持ちもあったけど、まあ、みんながさ、怒っちゃって、翔太さんを辞めさせるんなら、みんなも辞めるって、親父のところに怒鳴り込んできて、大騒ぎだったんですよ」
 そんなことから少しずつ、吉崎涼も作業員らと打ち解けて、特に翔太とは、驚くくらいに仲良くなった。

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