僕が彼女に執着心を持った時

白河 てまり

 スマホから薫さんの優しい声が流れる。
「暫くさみしい思いさせちゃうけど、ごめんね。連絡は必ずするから。逢えない分、電話するよ。
 展示会が開催されたら、僕が受付してる時に絶対に観に来てね。
 映子ちゃんがヘソを曲げると長い事会えなくかる事がわかったから、映子ちゃんのご機嫌を損なわないように頑張ります」
 最後は冗談ぽく言われた。
「ふふ。もうヘソを曲げたりしないので、安心して頑張ってくださいね。展示会、楽しみにしてます。良い子にして待ってます。おやすみなさい」
「ありがとう、おやすみ」
 電話を切って、ふう、とため息をつく。

 薫さんは1か月後の展示会に作品を出品すべく、今は制作で忙しいらしく、暫く会えないらしい。
 90センチメートル×140センチメートルのキャンバスで、薫さんは基本的に風景画なんだけど、今回は違うものに挑戦中で手間取っているとか。

 薫さん、どんな絵を描いたんだろう。楽しみ。薫さんが展示会で受付をするのは土曜日か日曜日だから、その日は会社、絶対に有給取ろう。
 清水さんもまた来るのかな? 私もまたフィナンシェを買っていこうっと。

 窓を開けて夜空を眺めると、吐く息が白かった。
 私は秋が一番好き。読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋。何をするにも涼しくてちょうどいい。でも、秋はいつも一瞬で通り過ぎて、冬になってしまう。



 12月初旬もになると、ダウンコートが手放せなかった。朝は霜が降り、前日の水溜まりが、魔法が掛けられたかのように氷の鏡に姿を変える。
 薫さんとはあの電話以来、ずっと逢えていない。
 毎日電話で、その日あった事を報告し合う。
 会いたい、という言葉をグッと堪えてる。今、私が会いたいと言ったら、きっと薫さんは飛んできてくれると思う。でもそれは、薫さんの制作を邪魔することになるから。
 今までの展示会は、薫さんは筆も早いのか時間配分が上手いのか、会えなくなることはなかった。今回はよほど大変なんだと思う。邪魔しないように、応援してます、薫さん。

 その日の日曜、私はお休みで、時間を持て余していた。
 高校時代の友人の加奈は美容師で日曜日が休みなんてことはまず無いし、茜ちゃんも出社しているだろうし。お母さんは友達とお茶会に出かけた。
 家に居るのは私とお父さんだけ。

 なんとなく1階のリビングに降りると、お父さんが居間で新聞を読んでいた。
「お父さん、温かいお茶飲む?」
 私の声に、お父さんが新聞から顔を上げる。
「うん。貰おうかな」

 ケトルでお湯を沸かして2人分のお茶を淹れ、急須と2つの湯飲みを茶色いお盆に乗せて運ぶ。湯飲みは、よくお寿司屋さんで使われている、魚編が付いた漢字が沢山書かれている柄。

「ありがとう」
「うん」
 お父さんの前に湯飲みを置くと、お父さんはぽつりと言った。

 ベランダから、日差しが差し込む。
 良いお天気。どこか出かけたいけど、なんとなく、家でゴロゴロするのも好きだし、たまにはこういったお休みがあっても、良いよね。
 私が両手を天井に向けて伸びをした瞬間、お父さんがまた呟く。
「映子、彼氏とは順調か」
 その瞬間私の小さな心臓が跳ね上がり、両手を天井に向けたまま硬直する。
 え、お母さん、しゃべった? それとも、カマかけられてるだけ?
 心臓がバクバクと音を立てる。
「え? 何? お父さん。どうしたの、急に」
「おまえ、彼氏ができただろう。パパにはわかる。どんな奴だ?」
 新聞に落とされていたお父さんの視線が、鋭く私を見据える。
 あ、だめだ、逃げられない。
「うん……。すごく、優しくて、穏やかで、良い人。お母さんは賛成だって」
「ママは知ってたのか!? 知らなかったのはパパだけか!?」
 お父さんの顔が、般若の形相になる。
「あ、お母さんにも私から話したわけじゃなくて、お母さんが感づいただけだよ。いつか話すときには、夕食の時にでも、お父さんとお母さん2人同時に話そうと思ってたから」
 その言葉を聞いたお父さんの形相が、少し和らぐ。こめかみに青筋が立ってるけれど。
「そうか。パパにもきちんと話しなさい。
 で、何の仕事してるんだ?」
「……学校の先生。」
 再びお父さんの眼光が鋭くなる。
「まさかとは思うが、高校の時の美術の教師か?」
「え、あ、うん。」
 私がそう言い終わらない内に、お父さんがバサッと大きい音を立てて新聞を閉じる。
「連れてこい!!!!」
「えっ、やだよ。お父さん絶対怒るでしょ。だから言わなかったのに。
 それに、いいの? 家に連れてくるってことは、結婚の挨拶の前段階か、もしくはもう結婚の挨拶一直線だよ!? お父さんは私の事そんなに早くお嫁に行かせたいの!?」
 私も必死に抵抗。
 お父さんが私の言葉に、グッと唇を噛んで黙る。
 お父さんと目を合わせて膠着状態が続く。
 沈黙を破ったのは、お母さんの声だった。
「ただいま~。あなた~、映子~、お買い物してきて荷物がすごいの~。助けて~」
 お父さんが立ち上がって、私も後に続く。
 2人で玄関に並ぶと、お母さんがけろっとして言う。
「なあに? やだ。2人とも、コワイ顔しちゃって」
「だってお父さんが!」
「だって映子が!」
 そう2人で声が重なると、お母さんが、ふふ、と笑った。
「はいはい。じゃあ、映子はこのお洋服のショッピングバッグ、ママの寝室に持って行って。パパはこれ、夕飯の材料、冷蔵庫に入れてね」
 私とお父さんは、お母さんの言うことに素直に従った。

 その日の夕飯は、私が好きなとんかつと、お父さんが好きなカレーが組み合わさった、カツカレーだった。

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