僕が彼女に執着心を持った時

白河 てまり

回想 3

 翌日、原元先生はいつも通り授業を行っていた。
 私はほっと胸を撫で下ろす。
 原元先生、どこが悪かったんだろう? 風邪かな? 細いけど、ちゃんとご飯食べてるのかな?

 原元先生への想いは、日に日に増していく。
 彼を窓越しに眺める度、想いは募る。
 穏やかにゆっくりと教室を回る原元先生も、教室の後ろで誰も見ていない時に躓いて、生徒に見られていないことをキョロキョロと確認する姿も、愛しかった。
 いつしか私は、原元先生が好きで、彼と付き合ってみたい、と思うようになっていた。
 でも、先生と生徒だし。相手にされなさそう。そんな願いは聞き届けられないだろうな。それに、卒業まであと1年もないしね。無理でしょう。
 いつも、そう自分に言い聞かせて諦める。



 7月に入り、空気に熱気が渦巻くようになった頃、土曜日に母が夕食に作る酢豚に入れるピーマンを切らしていると言うので、お遣いに来た帰り道。
 右手に持つネイビーの買い物袋には、ピーマンと、店員さんが茶色い紙袋に包んでくれた生理用品に、暑すぎて買ってしまった500ミリリットルのペットボトルの水が入ってる。
 よく行くスーパーで、うちまで歩いて5分。

 昼下がりの並木道は、木陰でも暑さを凌ぐことができない。
 髪が汗で腕や首に張り付く。
 家を出る前に、母が「日焼け止めと冷えピタを服の下に貼っていきなさい、今日は猛暑だから」と言っていたので、その通りにしてきて正解だと痛感してる。

 20メートル先には蜃気楼が見える。
 よく目を凝らすと、人が倒れていた。
 え、蜃気楼かな? それとも幻覚? そう思って更によく目を凝らしながら近づいていくと、白いTシャツにデニム、サンダルを突っかけた男の人が蹲っていた。
 顔は見えないけれど、色白で細身で、黒髪にゆるいパーマをあてている。耳には眼鏡のつるが見える。
 この姿には見覚えがある。もしや。

 あと5メートルを駆け寄って、
「大丈夫ですか?」
 と声を掛けた。
 男性の荒い息遣いの後3秒後、掠れきった虫の鳴くような、か細い声が聞こえる。
「大、丈夫です」
 意識はあるみたいだけど、相当苦しそう。
 そう男の人は言ったけれど、右手で喉を抑えていて、滝のように汗をかいている。

「日陰へ行きましょう!」
 買物袋を腕にかけて、男性の右腕を自分の肩に回して、立ち上がらせる。
 細身だから私でもおんぶくらいならできそうだな、と思っていたら、私の左側に掛けられた彼の体重は、案外重い。
 ぐぬぬ。歯を食いしばって、商店街の横の日陰へ引きずる。
 この細い身体のどこに、こんなに体重が詰まっているの? あ、確か、意識が無い人間の身体は重いって聞いたことある。だめ、意識、手放さないで! 私も重くて、限界かも!
 彼の腕が触れている部分が、もう自分の汗なのか、彼の汗なのか、区別がつかなかった。
 男性の気遣いは荒く、それなのに浅い。ちゃんと息が吐けていなく、それで息も吸えないみたい。私の身体に触れる腕は猛暑なのにひんやりとしていて、横からちらっとみた顔色は真っ青。それなのに、大量の汗をかいている。
 熱中症とは、ちょっと違いそう。

 やっとの思いで日陰へたどり着いた私の方が先に腰からへたり込んでしまう。
 このまましゃがんだら、2人とも顔面を道路に打ち付けちゃう! そう思って瞬時に身体を右に回転させて、尻もちを着く。その上から男性が倒れ込んできた。

 ……いたあ~。
 コンクリートに打ち付けられたお尻が、ずきずきと痛む。
 でも、男性は無事。私に覆いかぶさってる。怪我はないみたい。よかった。
 ふと、良い匂いが香る。シトラス系かな。
 男性の正面から顔を見ると、やはり原元先生だった。
 瞬間、この態勢にどきりと心臓が高鳴る。
 いけないいけない、病人にときめいてる場合じゃない!
 原元先生、やっぱり身体があまり丈夫じゃないんだ・・・。

「日陰でゆっくり休んでください。過呼吸かな? 救急車呼びます?」
 うちの父も昔祖母が亡くなった時ストレスで、過呼吸というものになったと母から聞いたことがあった。
 繰り返し聞かされたその話に、その時母が言っていた父の症状に、よく似てる。

「い、え、いつもの、こと、なので、大、丈夫です」
 絶え絶えの息でやっとの思いで言った言葉。
 原元先生の横顔に苦悶の表情が浮かぶ。
 肩を上下に激しく動かして息をしてる。

 私の左肩に顔を預けた原元先生を落とさないように、左手で彼の頭を抑えて、慎重に右腕に掛けられた買い物袋から、右手のみで生理用品が入った茶色い紙袋を片手で取り出す。
 袋を破かないように慎重に片手で毎度テープを器用に剥がしてから、中身をコンクリートの地面に投げ捨て、紙袋を原元先生の口元に急いで充てた。

 すると原元先生は、さすがいつものことなので、と言うだけはあって、紙袋に気付いてから自分の左手で紙袋を持った。紙袋が、クシャクシャ、と音を立てた。

 原元先生の背中を両手で撫でながら言う。
「大丈夫、大丈夫、落ち着いて。ゆっくり息を吐いて」
 原元先生は、どんどん態勢が丸まって行き、私の胸の中で縮こまっている。

 5分すると、大分呼吸ができるようになっていた。
 激しく上下していた肩は治まり、胸で息をしている。
 自分の胸でくるまる彼を抱きしめていると、なんだか幼気な小動物みたいで可愛く思えた。
 いけないいけない、具合が悪い人を可愛いだなんて、失礼だよね。

 それからさらに3分程分経った頃、彼の呼吸は完全に落ち着きを取り戻してきた。
 彼が紙袋を口から離して私の顔を間近で見つめる。
 2、3秒見つめ合ったかと思ったら、彼は勢いよく私から身体を離した。
「す、すみません、ご迷惑をお掛けしました!」
 真っ青だった顔が、耳まで赤くなっていた。
「あ、まだそんなに動かない方がいいですよ!」
 原元先生は顔を真っ赤にして俯いてる。
 その隙に、さっき地面に打ち捨てた生理用品を素早くネイビーの買い物袋へしまい込み、代わりにペットボトルの水を取り出す。
 なんとか乙女の尊厳は守られた。危ない危ない。

「近くのスーパーで、少し休ませてもおらいますか? あ、これ、飲んでください」
 キャップを外して手渡した。
 彼が顔を上げて言う。
「あ、ありがとうございます」
 軽く頭を下げて、受け取ってくれた。
 うん、さっきよりは声が出てる。よかった。

 ごく、ごく、と喉を鳴らして飲んでいた。
 上下する喉仏に見惚れる。男の人って感じ。

 原元先生が、眉をハノ字にして申し訳なさそうに言う。
「ありがとうございます。本当に助かりました。あ、お水のお金……」
 座ったままデニムのポケットからお財布を取り出そうとしてる。

 原元先生は、私が自分の学校の生徒だなんて、まるで気付いてないみたい。
「いいんですよ。困った時はお互い様です」
 その事実がなんだか少し可笑しくて、微笑んだ。

「え、あの、そういう訳には……。では、改めてお礼がしたいので、ご連絡先を教えていただけませんでしょうか?」
 原元先生が真剣な表情で聞いてきた。

「いえ、そんな、お礼だなんて」
 私、生徒ですって、名乗り出た方がいいのかな?
 でも、そしたら、私の登校する楽しみである、原元先生観察に支障がでる……?
 でもでも、これってひょっとして、仲良くなるチャンス?
 一瞬迷いが生じたけれど、長くてもあと1年も無い付き合いしかできないことを改めて思い出し、両手を胸の前で振って断った。

 原元先生は、そんな私を見て、眉をハノ字にして、唇をぐっと噛んでから言う。
「それでは僕の気が済みません。お願いします」
 とうとう彼は、両手を胸の前で合わせ、頭を下げだした。

 ……え、どうしよう。
 少し逡巡した後、私は折れる事にした。
「そういうことでしたら」

 儚い願いに、灯がともった瞬間だった。

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