僕が彼女に執着心を持った時

白河 てまり

香り

 それからは毎日、おはよう、今日はこんなことがあったよ、とか、おやすみなさい、ゆっくり休んでね、だとか、毎日ラインのラリーが続いた。平均して1日2往復くらいだろうか。

 先週の日曜は楽しかったな、と、今日水曜日になって思い返す。
 水曜の今日は生徒総会がある。あの暑い体育館でみんなで蒸されるのだ。

 自分が担任の2年5組の生徒たちに、昼休み前、
「昼休み終わったら生徒総会だから、各自遅れるなよー!」
 と伝えると、傍にいた男子生徒に
「先生こそ遅れるなよ~!」
 と、軽口を叩かれた。

 映子さんに、
『今から生徒総会です。
 体育館蒸されるので少し不安です。
 頑張ってきます!』
 と、短く送った。

 普段は映子さんから、朝と夜しか連絡を取り合わない。
 しかし、今朝に僕から送り、朝の内に彼女から返信が来ていたので、それに対して送ったのだ。

 昼休みの時間に僕から送ることは珍しい。というか、初めてだったかもしれない。
 決死の覚悟を映子さんに伝えておきたかったのだ。
 なんとなくだけど、伝えたら頑張れる気がした。

 既読がすぐに付き、返信が来る。

『私もです。
 また倒れたら心配なので、無理はしないでくださいね。』

 ん? 私もです? 何が『私も』なのだろう。
 前後の自分のラインを読み返し、多分、彼女も今から何かしら暑い思いをして蒸されるのだろうか、大学の講義の部屋が暑いのだろうか、程度にしか考えていなかった。


 昼下がりの体育館は既に蒸されており、生徒も半数以上が集まっている。
 今以上に二酸化炭素で充満して熱気が上昇するのかと思うと、もう既に眩暈が起きそうだ。

 校歌のメロディーチャイムが5時限目の開始を知らせる頃には、全学年の生徒が全員集まって来た。
 僕も5分前に、体育館の奥の壁沿いに集まった2年5組の人数確認を終えたばかりだった。
 みんな集まってくれてよかった。僕は胸を撫で下ろす。

 生徒総会は粛々と行われた。
 僕も含めて教師たちは、自分の受け持つクラスの一番後ろの列に座り、自分のクラスの男子生徒で首を落として胡坐をかき、微動だにしない生徒をゆすって起こした。
 眠くなっちゃう気持ちはよくわかるけどね。
 たまに飴玉をバリボリと音を立てて噛む生徒も居て、あからさまだったので、傍に行き、「こら!」と肩をトントン、とした。するとその女生徒は、「ごめ~ん」と小声でお茶らけてみせた。
 眠くなる気持ちも、暇つぶしに飴やガムを食べる気持ちもわかるけどさ。

 体育館の舞台横にある時計に目をやると、まだ30分程しか経過していなかった。
 たまに生徒たちは、後ろに控えている先生に許可を取り、トイレと言う名の避暑地へ出かけて行く。特に3年生ともなれば、遠慮なしだ。
 窓を全開にしているとはいえ、体育館の気温は上昇し続けている。これから太陽が最も盛んな14時から15時代へ向けて、更に暑くなっていくだろう。
 生徒も先生も、みな汗だくだった。
 みんな事前に配られた資料で、うちわのように仰いでいた。

 少し、嫌な感じがする。
 体育館中の二酸化炭素の割合が増えてきて、僕の心臓が、普段ならドックン、と脈打つのが、ドドドドド、と、物凄い勢いでこだまし始めた。吐き出す息も浅く、吸い込む息も浅い。まるで胸に鉛が詰まったように重い。
 胸に、左手を充てて、大丈夫、大丈夫、と心の中で唱える。
「原元先生、いつも以上に顔が青白いですよ。大丈夫ですか?」
 隣のクラスの青葉先生が、声を掛けてくれた。
「あ、いえ、大丈夫、です」
 必死に蚊の鳴くような声で言った。
「無理なさらないで」
 青葉先生が僕の左隣に身を乗り出し、右手で僕の背中をさすってくれた。

 視界の端が、暗幕に覆われ始めた。暗幕が徐々に広がってゆく。
 呼吸も浅く、肩で息をするのが苦しい。
 はあ、はあ、と自分の息の音が聞こえる。
 周りの生徒達も、「原元先生どうしたの?」と言っている。
 あ、やばいかも……。

 僕の右側から、僕のクラスではない女生徒のの声が聞こえる。
「青葉先生、私、トイレに向かうんですけど、原元先生具合悪そうなので、私がトイレに行くついでに保健室に連れてってもよろしいでしょうか?」
 ついには生徒のお世話になってしまうのか、僕は。

「うん。保険委員長なら任せられるね。よろしく」
 青葉先生の声が聞こえた。
 保険委員長てことは、恐らく3年生だろう。

「原元先生、つかまってください」
 女生徒が僕の右腕を自分の肩に回した。
「ご、めんね」
 視界が暗くて女生徒の顔も確認できないが、おぼつかない足取りで僕は立ち上がる。

 体育館の壁沿いを遠回りして、僕たちは熱気の渦を抜けた。
 呼吸がどんどん早くなっていく。
「原元先生、頑張って。保健室、すぐそこです!」
 保健室は、体育館を抜けて廊下を右に曲がり、階段を通り過ぎた奥の部屋だ。
 いつもなら15秒で着くような道のりも、視界が暗く、息も心音も荒い僕には遥か先に思えた。

 なんとか保健室のベッドまでたどり着くと、僕はそこへ倒れ込む。
 保健室の先生も生徒総会へ参加していて、偶然にも鍵が開いていたのは地獄に一筋の蜘蛛の糸のように思えた。
 目が開けられない。新鮮な酸素が吸えない。苦しい。

 女生徒が、急いで乱暴にバタン! と戸棚を開けているであろう音が聞こえた。

 もしかすると、僕はこのまま死んでしまうんじゃないだろうか、そんな考えが浮かんだ時、古紙の匂いがした。
 僅かに残った視界で確認できたのは、自分の口元と鼻を覆う、茶色い紙袋のようなものだ。
 ペーパーバックだ。

 身体の左側をベッドに横たえている僕のだらりと降ろされた右腕に、女生徒の長く柔らかい髪が当たる。
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて、ゆっくり息を吐いて」
 ベッドが軋む音がしたかと思ったら、女生徒がベッドに膝から上がり、僕の正面に正座して僕の背中を、左手で撫でてくれた。
 僕は目を閉じて、身を任せる。

 呼吸が落ち着いて紙袋を取った瞬間、甘めな花の香りが広がった。
 嗅いだことのあるシャンプーの匂いだ、と思って目を開くと、そこには制服に身を包んだ映子さん僕の胸の辺りに膝まずき、僕の顔を覗き込んでいた。

「え、なんで? 夢? なんで映子さんがここに?」
 ようやく酸素が巡った頭の中が混乱した。

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