オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

46 絵師の過去①

 浩司はシャツにネクタイの姿で、改札から出てきた。彼に気づいた玲の心臓が、とくんと小さく弾んだ。顔が見たかったにもかかわらず落ち着かなくなり、今すぐ彼に見つからないよう改札に入り、消え失せてしまいたい気分になる。
「玲さん」
 とっとと見つかってしまい、玲は自分でもわかるくらいぎこちない笑顔になった。対して浩司は、変わらず犬っぽい人懐っこさを見せている。
 近づいてくる浩司を見て、この人可愛いんだよな、と玲は思う。年上らしい頼り甲斐のある部分とのギャップが、そう思わせるのだろうか。とにかく玲は、これまで交際してきた男性には感じなかったものを、この男に対して抱くことが多い。これも姉と話していて、気づいたことのひとつだった。
「元気でしたか」
「はい、実家で歓迎してもらいました」
 良かったですね、と浩司は玲に笑いかける。
「あの、今日はお酒は……」
 玲が遠慮がちに言うと、浩司もそうですね、と応じた。向かったのは、夜も定食を出してくれる食堂で、ビールを飲む客もいるが、玲たちは頼まなかった。
「あ、これを……少しですけど」
 オーダーが済むと、すぐに玲は言わずと知れた鎌倉の銘菓、鳩サブレーの黄色い箱を出す。浩司はありがとう、と言ってぱっと明るい笑顔になり、鞄を開けてごそごそと紙袋を出した。
「箱根のお土産です」
 玲も嬉しくなり、ありがとうございます、と頭を下げた。紙袋には、黒たまごと書かれている。玲はその字を二度見した。
「えっ、これってすぐ食べないといけないですよね?」
「あっ、リアルたまごじゃないですよ、あれみたいなお菓子です」
 玲は紙袋から箱を出して笑ってしまう。確かに、黄身餡の入った饅頭のようだった。
「これは日持ちします」
「可愛らしいですね」
「うちの旅館でもよく出るお菓子ベスト3に入ります」
 うちの旅館? 玲は黒たまごの箱から、浩司の顔に視線を移す。彼は眼鏡の奥の目を細めた。
「俺の実家、小さな旅館なんですよ……姉が婿取りして継いでます」
「じゃあ本当はヒロさんが跡取りだったんですか?」
 まあ一応、と浩司は笑った。
「別に親からは継げと言われたことはないんですけど、昔から周りは結構いろいろ……美大に行きたいなんて、将来何をするつもりなんだとか……」
 玲は目の前の男性が、様々な枷に緩く縛られていることを知る。美大を出たけれど結局はサラリーマンとして勤務し、結婚に失敗もしていることで、実家に帰るのは肩身が狭いらしい。
 彼の気持ちは玲にもよくわかる。家の者が何も言わなくても、近所で噂になるからだ。小森さんの下の娘さん、たった4年で離婚したらしいよ。そんな言葉を自分が聞くのは構わないが、両親の耳には入れたくない。
「だから高校時代は長期休暇に入ったら、なるべく家にいないようにしてました……美術教室が終わったらずっとバイトして、旅館に駆り出されるピーク以外は、気安い親戚の家に泊まりに行って」
 浩司は鳩サブレーの箱を見つめて、懐かしそうに言う。
「鎌倉にも親戚がいて……あ、俺のマンションの台所っぽいキッキンがあったとこです、箱根に帰る時によくこれを持たせてくれました」
 玲は浩司の優しい表情に見惚れる。従兄弟と言っていただろうか、その家に楽しい思い出が沢山あることが伝わってきた。
 とんかつ定食が浩司の前に、アジフライ定食が玲の前に並ぶ。いただきます、と手を合わせると、浩司がくすっと笑った。
「魚のほうが好き?」
「牛肉があんまりなんです……別れた夫に肉を食べさせなかったのも気持ちが離れる原因のひとつでした」
 孝彦の話を単なるネタで出したつもりだったが、浩司は不愉快な顔をした。
「あなたがずっと作ってたんでしょう? 台所に立たない男に文句を言う権利なんか無い」
 えっ、マジで怒ってる、まずい。玲はごまかし笑いをつくる。
「私のほうが帰るのが早かったからいいんです、まあその時に、肉が食べたいって言ってくれたら良かったのに、とは思ったけど」
「食いたけりゃ自分が作ればいいんだ」
 玲はキャベツにドレッシングをかける浩司を見ながら、孝彦がこの間の事件を経て、完全に浩司の中で悪者に位置づけられたことに気づく。
「……ごめんなさい、つまらない話をして」
 謝るしかなかった。ストーカー紛いの行動や自分に対する暴言は許し難いが、孝彦と上手くいかなくなったのは、彼だけの責任ではない。だから浩司に元夫の全てを否定されると、少し複雑な気分になるのだった。
 浩司は箸を手にしたまま、あ、こちらこそごめんなさい、と小さく言った。
「悪いけど、俺あの人いろいろ許せなくて」
 自分のために浩司が怒っているという事実は、玲の顔を熱くする。楽しくない記憶の燃えかすを、彼の汲むきれいな水で洗い流して欲しい……心の片隅で考えた。
「……玲さん、先月はほんとに申し訳ないことをした」
 浩司はとんかつに手をつけずに、言った。
「無かったことにしたらいいなんて、ひどいことを言ったと思う、あれは決していい加減な気持ちでしたんじゃなく」
 どきどきしながら、玲は浩司の言葉を聞いていた。嬉しくて照れくさい。
「あれはあれで小説の良いネタに……」
 言いかけた玲は、そんなごまかしをする場面ではないと自分を戒める。そう、確認しなくてはいけない。

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