オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

43 寺の庭

「小山内さんこんにちは、お参りご苦労さまです」
 バケツを濯ぎ柄杓を片づけていると、墨色の法衣を身につけた住職が声をかけてきた。浩司はハンカチで手を拭き、こんにちは、と返した。
 この寺の気の良い住職は、墓参りに訪れる人間にまめに声をかけてくる。70代だろうか、人事を担当する者として、浩司は感心する。彼は檀家の顔だけでなく、個々の事情もしっかりと把握しており、適当な会話をしない。かと言って、生々しい傷には絶妙に触れてこないのだ。歴史ある寺と数多くの墓の守り人としては当たり前なのかもしれないが、おかげで浩司は、決して楽しいとは言えない毎月の務めを続けることができている。
 住職は茶を出すから中に入れと言ってきた。浩司もこの後特に予定が無いので、本堂に上がらせてもらい、淡く微笑む美しいご本尊に手を合わせる。
 出された冷茶は、やや香りに癖があったが、あと口が意外にも爽やかだった。眩し過ぎる日差しを浴びた後には美味だ。自家製のどくだみ茶だという。
 先月はどうしても時間が取れなかったので、自分が都内に引っ越してきてから初めてここに来たということに、浩司は思い至った。住所変更を申し出ると、住職は畳の上に軽く擦れる足音を立てて部屋の隅に行き、書類棚らしき抽斗からA5サイズの紙を出す。
「都内に転勤ですか?」
「はい、新しい営業所ができたので」
 浩司は手渡された厚めの紙に新住所を書き始めたが、住職の唐突な言葉に手を止める。
「じゃあ小山内さんも、そろそろ外の世界に目を向けていい頃合いかもしれませんね」
 浩司はどきりとさせられた。それを悟られたくなくて、茶に口をつける。
「……内に閉じこもっている自覚はありませんが」
「では、自分を縛っていると言い換えましょうか?」
 住職は穏やかな笑みを浮かべている。議論して勝てる相手ではないと思った。
「あなたは手を尽くされた、これ以上ご自分を苦しめることはないと思いますよ」
 浩司はむしろ、この場所に近いところに移動してきたことは、贖罪を続けるためだと解釈していた。だから住職の言葉が意外だった。
「新しい一歩を踏み出したいと思うような出来事や出会いはありませんか? 引っ越しは、その人の人生に強制的に変化をもたらします……それも仏様の御心です」
 浩司の頭の中に一番に浮かんだのは、小森玲の泣き顔だった。にこにこしていると可愛らしくて、あの数々の官能シーンの作者とは思えない彼女が見せた、苦悩と自責が刻まれた表情。
 何故あんなくだらない男を選んだ? 自分の軽率を棚に上げ、往来で別れた妻を愚弄する下衆。知的な彼女があんな奴と結婚生活を送っていたなんて、何か脅されていたのではないかと浩司は真剣に考えた。あの時あの元夫を殴り倒さないために、相当な忍耐が必要だった。
 酔って一人で歩けなくなった玲を自宅に連れ込んだのはともかく、寝呆けた彼女に触れたのは、結果的に失敗だった。
 望めば忘れてやるなんて、大嘘である。自分の愛撫に遠慮がちに応え、腕の中で昇りつめて震えた彼女が、今この時も愛おしい。しかし同時に、あの朝困惑しながら一生懸命言葉を繰り出した彼女を思い出すと、胸が痛み溜め息が溢れ出す。
 最後までしなかったのだから無かったことにしてくれていいなどという言葉を、生真面目な玲にかけるべきではなかった。あの馬鹿男と同様、自分は欲望を優先し彼女を悩ませ、彼女に痛みを与えたのだ。
「小山内さん、大丈夫ですか」
 住職の声に、浩司は我に返る。この人とご本尊の前で、玲と過ごした夜のことを反芻するなど、罰当たりな行為だと思った。
「すみません」
「考えこむことがおありのようですね……小山内さんがもし別の場所に進みたいと感じているなら、そうなさるといいですよ」
 住職が自分のために言ってくれているのは理解できたが、どうも反発が先に来てしまう。それに、連休に入る前に会った義妹の美樹みきから聞かされた話も、彼女は自分のためにと思ってくれたのだろうが、姉を忘れないでくれと言われたようにしか、浩司には受け取れなかった。
「ではもう全てを忘れろと?」
「違いますよ、手を離すんです……これまであなたに起こりあなたが選んだことは決してあなたの中から消えません、それを理解した上で手離す……」
 浩司は住職の言葉を噛み砕こうと、もうひと口どくだみ茶を飲む。
「たとえばそれは、野球の強打者がより良いバッティングのために、フォームを変えるようなことですか?」
 住職は細い目を見開いて、頷く。
「流石上手いことおっしゃる」
 住職のお世辞に浩司は曖昧に笑い返した。
「その選手が苦労して身につけた打撃フォームが基礎にあるからこそ、新しいフォームをより良いものにできます……選手が新しいフォームを体得するのは、書類のデータを上書きするのとは違います」
 それなら少し納得できるような気がする。ふとあの朝玲が、なかったことにするつもりはないと、小さいがはっきりと口にした姿が脳裏をよぎる。彼女もまた、苦悩と自責の沼から、新しい場所に踏み出そうとしているのだ。しかもその伴走者に、自分を選ぼうとしてくれている……。
 浩司は黙って微笑するご本尊を見て、それで良し、と背中をそっと撫でられたような気分になった。玲に気持ちを寄せることに、後ろめたさを感じなくてもいい。
 前の結婚について話せば、自分の傷口に塩を塗るだけでなく、玲をも傷つけることになるかもしれない。それで愛想を尽かされるなら……仕方がない。今はただ、彼女と話がしたい。浩司の左手の中指が、無意識に右手の指輪に触れた。
「……どうして今日こんな話をしてくださるのですか?」
 浩司は住職に尋ねてみる。彼はふっと笑った。
「何となく、ですよ……3月に少しお顔が明るくなられたなと感じたんですけれどね」
 超能力者か? 住職が庭で咲き誇る躑躅つつじに向ける視線を追いながら、浩司は苦笑した。赤とピンクの花が混じって咲く様子は目に鮮やかで、良いものを見たと感じたが、これまでどうして気づかなかったのだろうと不思議になった。
 明日から後ろ倒しで連休を取る。玲とすれ違ってしまうが、東京に戻ったら会いたいとメッセージを送ろうと思った。
 スマートフォンが鞄の中で震えた。浩司は住職に断り、薄い機械を内ポケットから引っぱり出した。画面に光ったメッセージと差出人の名前を見て表情を緩めた自分を、住職が静かに見つめていることに浩司は気づかなかった。

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