オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

40 里帰り①

 玲は東京よりもずっと清浄な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。やや暑いが、濃い緑の匂いが心地良い。北鎌倉寄りの住宅街の中に、玲の生まれ育った家はある。
 高校生の頃までは退屈な場所だと思っていたが、大学生になり上京すると、如何に自分の育った場所がのんびりと穏やかで暮らしやすい土地であるかを実感した。離婚して実家に戻らなかったのは仕事が理由だったが、もし当時司書の仕事に倦んでいたとしたら、東京を離れたかもしれない。
 母はおかえり、と言いながら玄関で迎えてくれた。玲は洗面所で手を洗ってから台所に向かい、シンクの前の窓にかかったカーテンが、風に揺れるのを眺める。
 浩司のマンションの窓にも、生成のカフェカーテンがかかっていた。角部屋で男の一人暮らし、しかも北向きの窓なのにと思うと、少し笑えた。初めて彼の部屋に行った時に感じた懐かしさは、確かにこの構図から生まれていたが、やはり我が家の窓から来た感情の動きではない気がした。
「どうしたの、そんなとこで」
 母がダイニングテーブルでぼんやり座る娘に声をかける。
「疲れてる? お父さんがあなたのためにビール獲ってくるってはりきってたから、今夜は唐揚げにしようと思うんだけど」
「うん、揚げ物家でしないから嬉しい」
 父は友人たちとゴルフに行っていた。賞品を狙えるほどゴルフが上手いとは初耳だが、ブービー賞狙いだと母が言うので、玲は笑った。
「……趣味の友達が職場の近所に引っ越して来てね、キッチンにこういう窓があるの……すっごく懐かしくなったんだけど、何かうちの窓じゃない気がして……」
 玲が言うと、母はふうん、と応じた。
「この辺の家は皆似たようなつくりだから、近所のお友達の家じゃないの?」
「私はお姉ちゃんみたいに、おうちに遊びに行くほど親しい友達いなかったよ」
 玲はテーブルに肘をつく。母はコーヒー飲む? と訊いて来ながら、湯を沸かす準備を始めた。
「あ……あなたがお邪魔してたおうち、あるわ」
「へ?」
「お隣りの船村さん」
 玲は母の言葉がぴんと来なかった。お隣りの船村家には2学年上の美里みさとさんと、その更に2年上の慎史しんじさんがいて、小学生の頃は、集団登下校で美里さんにお世話になった。柴犬のハナが玲に懐いていたし、母もおばさんとよく話していたので、知らない家ではない。
「でもお隣りにお邪魔したことなんか……」
 湯の沸く音がしゅんしゅんと台所に響く。母はコーヒーブリュワーにペーパーを入れ、おそらく父が挽いたであろうコーヒーの粉を入れた。
「あなた忘れちゃった? 2回はお世話になってるわよ……1回目はあなたが4年生の夏休みだった」
 母は思い出し笑いをしながら、コーヒーにゆっくり細く湯を注ぐ。良い香りが辺りに満ちた。
 玲はその日、学校のプールに泳ぎに行くのに、鍵を持って出なかった。車で買い物に出かけた両親が、渋滞に巻き込まれ予定より戻るのが遅れ、兄と姉も塾や部活動で家におらず、学校から帰ってきた玲は家の中に入れなくなったのだ。
 玄関の前で途方に暮れていた玲に気づいたのは、ハナの散歩から戻ってきたお隣りのおばさんだった。誰か帰ってくるまで、うちで待ってたらいいわ。おばさんは半べその玲を、そう言って隣家に招いた。
 母に言われてようやく、玲の記憶が少しずつ色を取り戻し始めた。自分の家と同じ間取りなのに、そこは完全な別世界で、爽やかないい匂いがしていた。台所に通されて、うちよりきれいだなあと一番に思った。
 その時たまたまお隣りにお客様が来ていて、シュークリームをご馳走になった。自分たちよりだいぶ年上のお兄さんで、美里さんが従兄だと紹介してくれたように記憶する。
「うわぁ、思い出してきたわ……」
 玲がしみじみと言うので、母はからからと笑った。
「お隣りの台所よ、コーヒーとシュークリームを食べさせてくれたの……あの時コーヒーデビューしたんだった」
「お砂糖と牛乳をたっぷり入れてもらったのよね」
「え、私そんな話もしてたんだ」
 その時玄関からただいま、と女の声がした。3歳上の姉のあいだ。ばたばたと足音が近づき、台所に顔を出した彼女は、妹の顔を見て破顔した。
「おかえりー、しばらくいるんだって?」
「久しぶり、2泊だけだよ……何その荷物」
 藍は大きなトートバッグを持っていた。彼女は高校の同級生と結婚して江ノ電沿線に暮らしており、歯科衛生士をしながら1男1女を育てている。
「今日あんたと語らうためにお泊まりセット持ってきたのよぉ」
「えーっ、家はいいの?」
「うん、2人ともお勉強合宿でいないの、うちの人は何なりとしとくからって」
 相変わらず優しい旦那さんだなと玲は思った。姉夫婦は派手に喧嘩もするが仲良しで、彼らや両親を見ていた玲は、孝彦と自分は夫婦として何か欠けていると早々に悟ってしまったのだった。
 玲がコーヒーカップを手にすると、母は藍のコーヒーも用意し始める。
「あなた隣の船村さんに玲がお世話になったこと、知ってるわよね?」
 母の問いかけに、藍はうん、とあっさり答えた。
「船村さんは八王子で元気にしてるの?」
「ええ、慎史さんも美里さんも独立して、2人になったからハナちゃん以来の犬を飼ってるって」
 母がおばさん……船村さんの奥さんと今も繋がっていることを、玲は初めて知った。年賀状をずっとやり取りしていて、お互いメールアドレスを教え合ったのだという。
「東京で会えばいいのに」
「そうなるとまた大仰なのよね」
「あ、わかるそれ」
 母と娘2人はのんびりと語らう。玲はこのところひりひりしていた胸の内が、柔らかいものに包み込まれるのを感じた。
「今夜は息子以外皆久しぶりに集まるって、船村さんにメールしとこうかな」
 母は居間に置いていたスマートフォンを取りに行く。玲はふと、お隣りの従兄さんの動向が気になった。大きな手でシュークリームを皿に乗せ、遠慮してぐずぐずする玲に、食べなよ、と明るく言ってくれた。学校の男子たちや兄には無い落ち着いた雰囲気に、子ども心にどきどきしたことを、玲はようやく思い出す。
「ねえ、夏休みに船村さん家に遊びに来てた、すらっとしたお兄さんって知らない?」
 玲が珍しく男性に興味を示したからか、姉が目を見開いた。母は思い出しながら話す。
「覚えてるわ、礼儀正しい男の子だったわ、親戚の子でしょ? あの頃高校生だったんじゃない?」
「そっか、高校生になっても親戚の家に来るとか、仲良しだったんだね」
「何、気になるなら船村さんに訊こうか?」
 あ、いいわ、と玲は咄嗟とっさに答えた。姉がふふっと笑う。
「私も覚えてる、うちのお兄ちゃんなんかと違って大人っぽかったな」
「玲が小学生で藍とお兄ちゃんが中学生だったから、高校生は大人に見えるでしょうね」
 母は楽しげにキーパッドの上で人差し指を動かし始める。玲は姉がコーヒーを飲み干すのを待ち、かつて一緒に使った2階の部屋に連れ立って向かった。何処かの温泉旅館より、ここは玲にとってはずっとくつろげる場所だった。来て良かったと思った。

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