オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

36 ゆめかうつつか②

 すいと温もりが逃げた。そして柔らかくて温かい布に肩がくるまれる。玲は今度こそ、はっきりと覚醒した。ああ、朝だ。瞼は重いけれど、頭の中はすっきりしていた。
 とても幸せで、いやらしい夢を見た。玲はほわんとした嬉しさと同時に、情けなさを覚える。小山内のことは、きっと一人の男性として、好きだと思う。もしあんな風に迫られたら、今なら全てを委ねてしまうかもしれない。だからと言って、あの夢……。
 顔じゅうに口づけを浴びせられ、いろんなところを丹念に愛撫された。2回いかされたような気がする。あんな夢を見たのは初めてだった。4年はセックスをしていないので、自覚無く欲求不満になっているのだろうか?
 玲は溜め息をついて、目をしっかり開いた。そしてうあっ、と自分でも驚くような声を上げた。跳ね起きて部屋の中を見回す。ここは何処?
 襖が勢いよく開いた。顔を覗かせたのはラフな姿の小山内だった。
「どうしましたか、ゴキブリでも出た?」
 玲は彼の顔を見て、一瞬ホワイトアウトした。……タクシーで帰ったのではなく、ここに泊まっていた! 玲は自分が持ってきた寝間着代わりのTシャツと綿のパンツを身につけていることを確認して、少しほっとする。しかしどこまでが夢だったのかがはっきりせず、落ち着かなかった。
「いえ、すっかりお世話になってしまったみたいで……ごめんなさい」
「気分悪くないですか? 昨夜まともに歩けなかったから」
 特に気分は悪くはなかった。玲は昨夜もそうしたように、ゆっくりとフローリングに足先を下ろす。
「すみません、みっともないところばかり見せちゃって」
「気にしないで……食べる気があるなら、朝ご飯すぐにできますよ、顔洗って」
 小山内は言いながら襖を開け放す。和室の隅に、玲の2つの鞄が並んでいた。小さなテレビを置いた台やパソコンテーブルに、こまこまとした物が増えて、この間よりも生活感が出ている。
 よく見ると寝室も、それらしくなっていた。鴨居にハンガーがかかり、空っぽだった本棚には、びっしりと本や書類箱が入っていた。
 ふと足許に視線をやると、毛布が畳まれていた。玲はどきっとする。何なんだろ、このデジャブ……。小山内は毛布を見つめる玲に、ややはにかんだような笑いを見せた。
「玲さんが風邪をひくからベッドに来たらいいって言ってくれたから、お言葉に甘えました」
「えっ!」
「あ、タオルは洗面台の横の棚のを使ってください」
 玲は顔から血の気が引くのを感じた。トースターに食パンを入れる小山内の背中に、思わず言葉をかける。
「ヒロさん、私……っ!」
 小山内はゆっくりと振り返る。眼鏡の奥の目は、玲をしっかり見据えていた。そしてその中に、これまで自分に対して向けられていなかった何かを見た気がした。
「あ、あの……私ヒロさんと、昨夜……」
 言葉が出ない。玲は軽くパニックに陥っていた。あのいやらしくて甘ったるいひとときは、やはり夢ではなかった……。
「玲さんが寝呆けていたことにしておきたかったら、それでもいいですよ」
 小山内は笑顔で言ったが、明らかに目尻や耳たぶをほんのり赤く染めていた。玲は思わず俯き、口を手で覆う。……何てことを!
「忘れろと言うなら、忘れます」
 小山内の淡々とした声に、玲は顔を上げる。彼は寂しげな笑いになっていた。
「昨夜玲さんは普通の状態じゃなかった、だから気の迷いだと思って……最後までやった訳でもないし、こんなことであなたが苦しまなくていい」
 玲は彼に何と返せばいいのかわからなかった。違う、無かったことにしたい訳ではない。でも……。
 小山内はトースターのタイマーを回し、やかんをコンロの上に置いた。
「俺、玲さんのこと好きです」
 飾らない言葉が、玲の胸に迫った。嬉しくて、胸の奥がきゅっとなった。しかし戸惑いが喜びを上回ってしまう。
「いつも一生懸命なあなたを、どんな形でもいいから支えたい……でも」
「でも?」
「玲さんは離婚してまだ3年だ、あの人とよりを戻す気は無くても、いろいろ思うところがあるんだと昨夜よくわかりました……弱みにつけこむような真似をしたかもしれません」
 孝彦は過去の人だし、つけこまれたなんて思わない。ただ、昨夜のことが何処か現実味に欠けていて、脳が処理に困っている。
「……ご飯食べましょう、顔を洗って」
 言われてとりあえず洗面所に足を向ける。迷わなかったのが、昨夜ここに来てその場所を使った証拠だった。
 玲は冷たい水で洗顔フォームの泡を洗い流しながら、必死で頭を働かせた。このままでは気まず過ぎる。ああ、何と言えば今の気持ちを上手く伝えることが出来るのだろう? 物語を紡ぐ以上に、難しい。玲は自分が歯痒くなる。
 小さなテーブルには、トーストとゆで卵とスライスしたトマトが並んでいた。言葉少なに朝食をとり、食事が終わるとすぐに片づけを始めた。玲がシンクでスポンジを泡立てると、小山内は布巾を持ち隣に立った。小窓の向こうはよく晴れていた。
「ほんとにごめんなさい、それとありがとう」
 玲が言うと、彼はうん、と曖昧な声を立てた。
「尾行してたのがあの人だとわかったからもう大丈夫です、あの人案外気は弱いから、これ以上何も言ってこないと思います」
「でもしばらく油断しないで」
「はい……あと、昨夜のことは私、無かったことにしようとは思ってないです」
 玲は食器の泡を水に流し、小さな洗いかごに入れる。
「とても嬉しかったんです……ただ今は……男の人と一歩踏み出すのが、まだ少し……怖くて」
 水を止めて手を拭いた玲を、小山内はじっと見つめていた。
「あの人とのことに傷ついてるんですね……昨夜も言ったけれど、あなたは決してつまらない女じゃない、それは俺の言葉を信じて欲しい」
 玲はそう言われた場面を思い出し、赤面を禁じ得ない。小山内はゆっくり続ける。
「あんなことをしておいて何ですが、俺もあなたとこれからどうしたいんだと訊かれたら、まだはっきり答えが出ません」
 小山内は玲にまだ3年だと言ったが、彼だって離婚してまだ5年である。個人差はあるだろうが、傷が癒える年数かどうかは微妙だった。そう理解したものの、彼のその言葉は、やや距離を感じて寂しかった。
 玲は彼を見上げてひとつ深呼吸し、自分にも言い聞かせるように言った。
「ゆっくり歩いてくれますか……私と」
「……身に余る言葉です」
 答えた小山内はやはり寂しそうだった。そして左手の中指の先で、右手に光る金色の指輪に触れるような仕草をした。
 別れた奥さんとの結婚指輪なのだろうかと玲は考える。まだ相手を諦めきれないということなのだろうか……。それにしては、玲に未練を見せる孝彦にずけずけ言っていたが。
 今は深く突っ込まない。きっと小山内が自分から、指輪について話してくれると思うから。玲は和室に置いてある鞄の傍に行き、着替えを出す。あれだけ酔っていて、よく歯磨きをしたり、肌の手入れをしたりしたものだ。鞄の中が乱れているのを見て、玲は苦笑した。

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