オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

34 恐怖の正体③

 玲は動揺を悟られないように、下腹に力を入れて言葉を出す。
「……どうして私を尾行つけるの?」
「ああ……話がしたくて、転職してないと思って五反田に来たんだ……何処に住んでるのかも気になってたし」
 孝彦は唇を歪めた。こんな卑屈な笑い方をする男だっただろうか。
「やり直さないか? あの女、めちゃくちゃ金使い荒くってさ、別れたんだ……俺が悪かったよ、玲」
 玲は元夫の言葉にあ然となり、意味を理解するのに時間がかかった。おまえは1人でも生きていけるだろう、彼女には俺が必要だ、慰謝料は払うから別れてくれ。そう一方的に言ったのは誰だ。勝手に女のもとに出て行った挙句に。
 玲の胸に満ちたのは、孝彦への同情のようなものが1割で、残りの9割は純粋な怒りだった。
「……真っ平ごめんだわ、冗談なら全然面白くないけど?」
 孝彦は元妻からこんな蓮っ葉な言い方をされたことが無かったせいか、心底驚いたように口をぽかんと開けた。玲の口から言葉がほとばしる。
「私があなたに未練があるとでも思った? どこまで私を馬鹿にしてんのよ、ふざけるな」
 自分でも信じられないくらい、強い言葉が出た。だいたい、話をするだけのために、こんな恐怖を強いてくることが許せなかった。
「……もうあなたと話すことはないし……元気でね、さよなら」
 本当は孝彦を殴りたいくらいだったが、歯を食いしばって耐え、店の中に戻ろうとした。その時、左の二の腕を掴まれた。全身がびくりとなって、玲は反射的に左腕を思いきり振る。
「離してよ!」
「待てよ、ちゃんと話し合おう」
「話すことなんか無いっ、警察に電話するわよ!」
 玲はかっとなって半ば怒鳴った。本当にこの男は、私を馬鹿にして軽んじている。今もそのことにさえ気づいていないのだ。腹立たし過ぎて胃の中身が逆流しそうだった。
 その時、何かが2人の間に割って入り、玲の左腕に絡みついていたものが引き剥がされた。
「離しなさい、彼女は嫌がってる」
 小山内は玲の前に立ち、孝彦の視線を遮るような位置取りをした。玲は胸を撫で下ろし、安堵のあまり腰が砕けそうになる。孝彦は逆上して、声を荒げた。
「おまえ何なんだよ、関係無いだろ! 俺と玲の問題だ」
「あなたと玲さんの関係は3年前に終わったんでしょう? 彼女が拒否してる以上はあなたにそんなことを言う権利は無い」
 小山内はきっぱりと言い放った。太ってしまった孝彦が怒りで顎と頬の肉を震わせる様子は、惨めなくらい醜かった。元夫は悔し紛れに暴言を吐き始める。
「おまえこいつがどんだけつまらないか知らねぇだろ! 女らしく甘える可愛げもない」
 道行く人がちらちらとこちらを見ていた。羞恥と悔しさのあまり、玲はきつく唇を噛む。小山内は玲の肩を軽く抱き、冷ややかに言った。
「話にならない、戻ろう」
「待てよ! 親切で言ってやってんだぞ、セックスだって最低だ、このまぐろ女」
 孝彦の罵詈雑言に頭がくらくらした。何故小山内の前で、こんな目に遭わなくてはいけない? 玲は叫びそうになったが、先に小山内の笑い声が辺りに響いた。彼は可笑しくてたまらないと言わんばかりの口調になった。
「それはあんたが下手くそだったからだろ?」
「はぁっ?」
「玲さんは俺の前ではいつだって、昼間も夜も」
 そこで小山内は言葉を切り、玲の目を2秒見つめてから抱き寄せた。玲は驚きのあまり、彼の腕の中で全身を硬直させる。
「……可愛らしくて最高だ、あんたには宝の持ち腐れだったんだよ」
 玲は半ば抱えられながら、小山内と店の中に入った。呆然とこちらを見ていた孝彦の叫びが、引き戸が閉まる直前に聞こえた。
「馬鹿野郎っ! 覚えてろっ!」
 相変わらず賑やかな店内は、店の前で起こっていたことに全く気づかず、2人を迎えた。板前がお帰りなさいと声をかけてくる。
「肉じゃがとアスパラベーコン出しますね」
「よろしくお願いします」
 小山内は何事も無かったように、少し残っていたビールを飲み干した。玲のジョッキも取り上げて、同じものを2つ、と店員に声をかける。
「これでまだつきまとって来るようならすぐに警察に行きましょう」
「……はい」
「難しいと思うけど気にしないで……あの人はすさんでる、まともに受け取らないほうがいい」
 玲は冷えたビールを一気に喉に流し込んだ。食道まで冷たくなる。気を緩めると涙が出そうになるので、奥歯をずっと食いしばっていた。小山内は言葉少なになった玲に余計なことを言わず、たまに板前と言葉を交わしながら、のんびりと飲み食いを続けている。
 本当に帰れなくなるかもしれないと思いながら、ほたての貝柱のバター焼きをアテにして冷酒を口にした。日本酒を飲むのは久しぶりだったが、ほんのりと鼻に抜ける微かな甘さが癖になりそうである。
 しばらくすると、極度に瞼が重くなり、頭の中に靄がかかってきた。悪い気分ではない。
「玲さん、もうお酒はやめておこう」
 小山内の声が少し遠い。知らない間に出てきた、海苔を巻いたおにぎりが目に入る。米の白さがやけに美味しそうで、玲は手掴みにしてかぶりつく。中には鮭のほぐし身が入っていた。
 一瞬にして視界が滲んだ。涙と鼻水が一緒に出てくる。
「……おいじい」
「玲さん?」
「こんだどあだじ、いっぱいづぐっだ……」
 結婚して2年間は、孝彦と自分の弁当をほぼ毎日作った。鮭や昆布の入ったおにぎりを、彼は喜んでくれた。それは玲が高校を卒業するまで、母がよく弁当箱に入れてくれたものでもあった。
 玲は泣きながら柔らかいご飯粒を頬張った。小山内が新しいお手拭きを右から差し出しながら、言った。
「俺にも鮭のおにぎり作ってくれる?」
 玲は冷たいお手拭きで瞼を押さえながら、頷いた。おにぎりでいいなら、いつでも握ろう。さりげなく小山内に壁になってもらいながら、玲はカウンターの隅で声を殺して泣き続けた。
 孝彦との生活に未練など無い。ただ、過ぎ去った日々が愛おしかった……自分の選択の過ちがこれだけ悔やまれるにもかかわらず。

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