オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

33 恐怖の正体②

「今日何かあったんですか? 荷物が多いみたいですけど」
 小山内に指摘されて、玲はいや、その、と口籠る。彼は笑い混じりに言った。
「まさかうちに泊まるための着替えとか」
「……あ、はい、そうです」
 玲の微かな返事に、は? と小山内は声を裏返した。ビールがジョッキでやって来て、玲は今日のおすすめのお造り盛り合わせを頼む。
「家に戻るのが怖かったらって、昨夜言ってくれたから……」
「ということは、今夜来てくださるつもり?」
「いえ、問題が片づけば行きません」
 何だ、がっかりした、と笑いながら、小山内はジョッキをぶつけて来た。玲は気恥ずかしくなりつつも、いろいろ彼に話したいことがあるので、ビールを喉に流し込みながら頭の中を整理する。
「表紙、ありがとうございました……明日の夜に第1話の投稿予約をしています、伯爵がアデルをバックハグしてる絵も進めてください」
「ありがとうございます……期限は?」
「20日くらいまででいけますか? あらためてマーケットから依頼します」
 了解です、と小山内は楽しげに表情を緩めた。
「お日柄の良い日に連載開始にしたんですね」
「お日柄?」
「明日は大安で一粒万倍日です……知り合いで新月の日に絵を初出しする人もいます、気にしてなかったですか?」
 眼鏡の奥の目が優しく細められる。根拠も無く、小山内が自分に幸運をもたらしてくれるように思えた。投稿に験担げんかつぎなど考えたことも無かったのに、たまたまそんな日に当たるなんて。
「はい、でも何だか嬉しいです……ああ、この間描き捨てなんて言葉を使ってごめんなさい、失礼なことを言いました」
 刺身の盛り合わせは、随分豪華だった。醤油の小皿を受け取りながら、玲は非常事態下にもかかわらず、楽しいと思う。
「そんなことを気にしてらしたんですか?」
「はい、どんな状況でつくったとしても、捨ててしまっていい作品なんか無いと思って」
 小山内は箸の先でわさびを醤油に溶き、それは微妙です、と言った。彼にうながされて、まぐろを小皿に取る。
かされたら殴り描きにもなりますよ……美大生はプロとしてやって行くために、速く沢山描くよう言われます……まあ必然的に出来もひどくなる」
「……小説もきっとそうなると思います、でも作家の思い入れは等しくあるかと」
 そう思いたいですね、と小山内はやや寂しげに言った。
「玲さんには一作一作を納得いくよう丁寧に生み出して欲しい」
 しばらく黙って、刺身をつまみにビールを味わった。小山内は幾つか料理を頼んでから、言った。
「昨夜はすぐに行けなくて悪かったです、まだ会社にいたので」
「本当にすみません、ご心配かけました……めちゃくちゃ怖くなって」
 当然です、と小山内は慈悲深く言う。
「もしなかなか片づかなければ、本当にうちにいらしてもいいんですよ……俺だって心配だ、部屋で1人で怯えてる玲さんを想像するだけで辛い」
 嬉しい言葉なのに、やめて欲しいとちらっと思う。こんなことで、なし崩しに寄りかかりたくない。しかし言いたいことは、言葉にできなかった。
「ちょっと様子を見てきます、店の前にもし居たら問い詰めて、場合によっては警察に連絡します」
 小山内が立ち上がろうとするので、玲は彼を押しとどめた。……いっそそれなら。
「私が行きます、あいつの目的は私ですから……確認できたらすぐ電話します」
「駄目だ、危険です」
「前の道は人通りもあります、まさかいきなり刺したりはしないでしょう」
 玲はスマートフォンを握りしめて立ち上がった。小山内は困ったように息をつき、カウンターの中にいる板前に声をかけた。
「すみません、少し外しますが戻ります」
「わかりました、戻られてからお料理出しますね」
「お願いします」
 小山内は玲を守るように寄り添い、店の入り口に向かった。そして玲に言う。
「先に出て酔い醒ましする振りをしながら目を配りますから、あなたは電話をかける振りをしてください……俺が外に出てからゆっくり10数えて、お芝居開始」
 玲は黙って頷き、小山内を見送った。混雑して皆が酔っている店内に、2人の奇妙な行動を気にする者はいない。
 9、10。玲は手動のやや重い引き戸を開ける。外気は冷たく、小山内の姿は無かった。物陰に隠れているのだろうか。
 玲は画面をタップする振りをして、そのままスマートフォンを耳に当てる。もしもし、どうしたのと、母に話す演技をした。
「……うん、ゴールデンウィークに帰るね……」
 玲は緊張を解かずに、周囲に目を配りながら話す。そして遂に、こちらに視線を送っている人物の姿を捕らえたのだった。
 話を終える振りをして、スマートフォンを下ろす。玲は自分の心臓の音を意識しながら、電柱の陰にいる男を見据えた。緊張感が高まったが、小山内が見守ってくれていると思うと、恐怖や怯えはさほど感じない。
 あちらが先に動いた。男は明かりの元に姿を現し、硬い靴音を響かせながら近づいて来る。小山内が説明した通りの姿。大丈夫、これ以上距離を詰めてきたら、店の中に逃げ込めばいい。そう考え男を睨みつけていると、彼は3メートル先から話しかけてきた。
「玲、元気そうだな」
 えっ? 玲は一瞬、呼吸を止める。馴染んでいた声だった。
「……孝彦さん?」
 3年前に別れた夫だった。近づいてくる彼の姿を、玲はまじまじと確認する。髪が伸び、かなり太った。背は高くないが、以前はもっとすっきりして、女受けする容姿だったのに。

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