オフラインで打ち合わせ 〜真面目な神絵師との適切な距離感〜

穂祥 舞

32 恐怖の正体①

 昨夜のことを頭の中から追い出すのは難しかったが、玲は比較的落ち着いて仕事に臨むことができた。小山内には感謝の言葉しかない。
 小山内は昼休みに、彼の会社の女子社員が、ストーカー行為を受けた事件について教えてくれた。女子社員が営業で担当した取引先は、商談に近所の喫茶店を使っていた。彼女につきまとったのは、その店の男性アルバイトだった。
「女性は心当たりの無いことで理不尽な目に遭うことがあるのだとその時わかりました。あってはならないことだと考えます。」
 小山内がストーカー案件の扱いに慣れているらしいことも、玲の安心感を増した。そして、別れた夫――孝彦たかひこのように言わないのだなとふと思い当たる。
 それ確かなの。気にし過ぎなんじゃないか。みんなそんなこと言わないよ。
 彼からやや軽んじられていると、交際していた頃から薄々感じていた。だが、つき合って欲しいと彼のほうから熱心に言ってきたという、瑣末さまつな事実にいつまでも縋りついていた。だからそんなモラハラ風味の言葉を投げられても、彼は自分を好きなのだと思おうとしたのだ。

 午後から理枝を筆頭とする正職の司書たちでミーティングをして、オリエンテーションで発生する余り時間に何を話すかを考えた。宮坂の「推し本」という提案をベースにして、やる気になっている若い派遣司書たちに、テーマを決めてもらえばどうかという話が出た。新入生に図書館を使おうと思ってもらえそうな、テーマに沿った話題を各自が提供する。受け持つ15人の新入生のうちの数人にでも、何か刺されば上等だ。
 珍しく有意義な話し合いをしたのに、最後はいつも通り、横柄な教員に関する愚痴になってしまった。その中で、中田教授につきまとわれている平井が、社会学部の芳川よしかわという専任講師の前ではやけににこやかだという話が出た。理枝は平井がその若いイケメン講師にアプローチしているのではないかと冗談を言ったが、普通の女子なら中田のような冴えないセクハラ中年より、将来有望かもしれないイケメンと仲良くしたいだろうと玲は思った。

 18時過ぎに職場を出た玲は頭の中を切り替え、今日も駅前のファストなカフェに入る。奥まっているけれど店の外がよく見える場所に席を取った。怪しい人物はいないか、見張れないかと思ったのだった。
 ソイラテをオーダーして15分ほど経った時、小山内からDMが来た。この店にいることは、既に伝えている。
「こんばんは。今店の前に、中をずっとうかがっているサラリーマン風の男がいます。待ち合わせをしているにしては、態度が不自然に思えます。」
 玲は心臓を掴まれたように思えた。喉が詰まるのに耐えながら、目だけ動かして大きな窓を見てみるが、外が暗くなったせいもあり、小山内の言う男の姿は見えない。
「今から店に入ります。」
 メッセージが来てすぐに、店の自動ドアが開いた。背の高いスーツ姿の男性が、きょろきょろしている。玲は首を伸ばして、顔の横で手を振った。彼はすぐに気づいてくれた。
「お待たせしました、まだあいつだと決まった訳じゃないですけど、とにかく家まで送ります」
 小山内は言いながら、窓から玲の姿を隠すように、斜め前に座った。玲はすみません、とやや俯いたが、彼が自分のために来てくれたことが嬉しくて、涙が出そうになった。お互い忙しくて全然オフラインで会えなかったのに、こんなことで顔を合わせる運びになろうとは。玲は朝から考えていたことを口にする。
「今から食事にしませんか?」
 目だけで小山内を見ると、彼は驚きの表情になっていた。玲は続ける。
「外にいる人がついてくるかどうか、ここからその店まで歩いて、試してみたらどうかなと」
「……まあいいでしょう……じゃあ親しげに振る舞ってください、男がいたら諦めるパターンもあるようですから」
 2人して席を立つ。店の外から見て、入り口右手の電柱の陰に、その男は立っていたという。わからないはずだ、玲の座っていた席からは、ほぼ死角だった。玲はひとつ深呼吸した。
「前を通ってやりましょう、その先に美味しいお刺身を出してくれる店があるんです……金曜だから入れなかったらごめんなさい」
 小山内は微笑して軽く頷く。玲はコーヒーカップを返却口に置き、これまでより彼に近づき、並んだ。右の聴力が弱い小山内と歩く時は、彼の左に立つことがもう決まりごとになっている。自動ドアをくぐった途端、視界の左側に人が走ったのが見えた。
「今逃げた……そちらを見ないで」
 小山内は芝居を兼ねているのか、玲の右耳に唇を近づけて小声で話した。玲の心臓は、恐怖と照れの両方のせいでばくばく鳴った。
「身長は玲さんより少し高いくらいかな、小太り……髪は長い目、30代半ばから後半って感じです」
 やはり心当たりが無い。玲は黙って頷き、そして耳に届いた音にぎくりとする。あの硬い靴音が、周囲の喧騒を潜り抜けて玲に迫ってくるようだった。
「ついて来てます、靴音が昨日と同じです」
「靴音? そんなのよく聴き分けられますね、尊敬します」
 小山内は玲の言葉に心底驚いたようだった。彼を見上げると、わずかに後方に視線をやってから、また顔を寄せて来る。
「ええ、来てますね……」
「あ、あの、お店あそこです」
 親しげな芝居にどぎまぎしつつ、玲は紺色の暖簾を出している店を指差した。小山内はあ、と言った。
「良さげな店だとずっと思ってたんですよ、こんな状況で何ですけどちゃんと食べましょう」
 そう言ってくれる小山内の存在が有り難い。家に戻っても、独りでは昨夜同様、あまり食べる気になれなかっただろう。
 カウンター席がまだ空いていた。並んで座り、店員が出してくれた籠に2つの鞄を入れた。

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