【短編】【完結】もっとも苦手な彼と一夜を共にしたならば

霧内杳

1

「君とは結婚できない、別れよう」

呼びだされてきたカフェ、彼の第一声がそれだった。
彼がなにを言っているのか、まったく理解できない。
つい一週間ほど前、ご両親に挨拶へ行って、一緒に婚約指環を買った。
なのに、この期におよんで〝結婚できない〟なんて。

「……子供が、できたんだ」

言いにくそうに彼が言い、目を逸らす。
子供ができたって、私は妊娠していない。
じゃあ、誰が?
と、少し考えたところで、ひとりの人物を思い出した。

「……別れて、なかったんだ」

頭の芯がこれ以上ないほど冷える。
前に彼が浮気していた、彼の会社の人。
黙っていればいいのに彼女は、得意げに彼は自分と寝たのだと報告してきた。
慌てた彼は一時の気の迷いだったと謝罪してきて、私も許したのだ。
けれど、私は裏切られていたんだ。

「ごめん!
君との結婚が決まって、今度こそ別れようとしたんだ。
でも、子供ができたって……!」

勢いよく彼が頭を下げる。
だから、私に許せ、って?
そんなの、虫がよすぎる。
でも。

「……わかった」

「許してくれるのか!?」

期待を込めた顔で彼が顔を上げる。
しかし思いっきりその目を睨みつけた。

「二度も裏切られて許せるわけないでしょ?」

「そ、そうだよな」

おどおどと彼が、小さく肩を丸める。
それを、無感情に見ていた。

「でも、生まれてくる子供に罪はない。
私は子供のために身を引くの。
あの女のためでも、ましてやあなたのためでもない。
それだけは勘違いしないでね」

彼は黙って俯いている。
かまわずに私は立ち上がった。

「さようなら」

伝票を手に取り、彼に背を向ける。

咲希さき……!」

彼の縋るような声が聞こえたが、無視して足を踏み出す。
これ以上、彼の言い訳なんて聞きたくない。

「……バカ」

彼が好きだったから、その言葉を信じていた。
結婚しようと言ってくれたときは嬉しかった。
なのに、この仕打ちはない。

「おっと……!」

前も見ずに勢いよく歩いていたせいで、誰かの胸に飛び込むようにぶつかってしまった。

「す、すみません……!」

慌てて離れ、頭を下げる。

「……森谷もりや?」

しかしよく知った声が頭上から降ってきて、思わず相手を見上げていた。

神園かみぞの……さん?」

メタル眼鏡の奥から驚いたように私を見ているのは、同期の神園さんだった。

「泣いてる……のか?」

「えっ、あっ」

急いで目尻を拭い、誤魔化そうと努力をする。
一番見られたくない相手に見られた。
背も高くて顔もいいせいか、軽い彼が私は苦手だった。

「なんでもない、です」

顔を見られたくなくて地面に視線を落とし、足早にその場を離れようとした、が。

「待てよ!」

腕を取られ、引き留められた。

「は、離して!」

「泣いてる女、ひとりになんかできないだろ」

引き剥がそうとするが、離れない。
だんだんと今の気持ちと同じように虚しくなってきて、そのうち止まっていた。

「とりあえず、どっか入ろう」

おとなしく手を引かれて歩く。
もう、嫌になっちゃったな。
神園さんなら、好きでもない私を抱いてくれるかな。
それで――全部、忘れたい。

「どこがいいか」

「……ホテル」

私の口から出た言葉を聞いて、彼が足を止める。

「……本気?」

彼の声は少し、驚いているように聞こえた。
それに、黙って頷く。

「……わかった」

次はなぜか、怒っているように聞こえたのは気のせいだろうか。
再び、彼が足を進める。
望みどおり、神園さんは私をホテルに連れてきてくれた。

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