乙女ゲームの当て馬悪役令嬢は、王太子殿下の幸せを願います!
第70話 ザイフリート宮中伯の失墜
時間の流れがやけに遅く感じられ、けれども避ける事も目をつぶる事すら出来ないまま、自分に向かって振り下ろされるザイフリートの拳を只眺めていた。
それはゆっくりと近付いて、わたくしの顔に直撃する―――その寸前で、消えた。
消えた。
ザイフリートの右腕が―――右腕だけが。
衣服の袖はそのままに跡形もなく消え去った拳の残滓を伝える風、それだけを顔に浴び、次いで、片腕を失いバランスを崩したザイフリートの巨体が殴りかかろうとした勢いのままに倒れ込んで来る。
あわや押し潰される寸前、わたくしの体は強い力で後ろに引き寄せられ、ザイフリートはそのまま足元に崩れ落ちた。
全てが一瞬の出来事だった。
「ぐ……!」
呆然と見下ろすわたくしの足元で、唸りながも残った左腕を石畳に付いて起き上がろうとするザイフリートの、その左腕もまた幻の様に掻き消える。
支えを失った体はなす術もなく、再び倒れ伏した。
まただ、また消えた。
何が何だか分からないまま、わたくしは地面を這いずる様にもがくザイフリートを只見ている事しか出来ない。
一体、これは………
これはまさか―――わたくし?
わたくしが、やったの?
絶体絶命のピンチに、わたくしの隠されていた能力が目覚めて―――!
「リーゼ」
直ぐ耳元で聞こえた声にハッと我に返ったわたくしは、今更ながら、自分が誰かに抱き留められている事に気付いた。
耳に低く響く、わたくしの名を呼ぶ声。
居る筈ない。
彼が居るのは旧聖堂からはずっと離れた王宮聖堂で、こんな所に居る筈がないのに。
信じられない思いでのろのろと振り返る。
見上げた先に、深く澄んだ藍色の瞳があった。
「クラウス様………」
わたくしの体を支える様にしてそこに居たのは、紛れもなくクラウス様その人で。
クラウス様は、わたくしの体をくるっと回して自分と向き合わせると、ぽかんと惚けたままのわたくしの顔を瞬ぎもせずに見つめた。
「怪我は」
「あ、ありません……」
「そうか」
回らない頭でやっとの事で答えるわたくしの頬に張り付いた髪を、筋張った手が優しくよけて整える。
間近に見上げるクラウス様の白い肌は薄らと上気して、走った後みたいに息も少し乱れていて、呟く様に「良かった」と息を吐いたクラウス様の表情がふわりと和らいで……それは少し泣きそうにも見えた。
わたくしがクラウス様に見惚れている間に、回廊の角からは次々と王宮の兵士が現れて、静かだった旧聖堂裏は俄に騒がしくなっていた。
「少し下がっていろ」
クラウス様は遅れてやって来た自らの護衛に「リーゼを頼む」と言い置いて、未だうつ伏せに倒れたままのザイフリートに向き直った。
配置換えがあったのだろうか、いつも居るクラウス様の近衛騎士の片方が別の人に変わっている。
「アロイジウス・フォン・ザイフリート」
兵士達に囲まれ、魔力を封じる拘束具を着せられているザイフリートが顔を上げるのも待たず、クラウス様が話し始めた。
未だ、夢を見ているのではないだろうか。
いえ、先刻のは夢ではないわね。回想?走馬灯?
ふわふわとした心地のまま、わたくしは護衛騎士の背中越しに、クラウス様の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
先刻も見た、金糸雀色の金髪。
いえ、だから先刻は見てはいないのよ、思い出があまりに鮮明だったもので、つい見た気になってしまっていたわ。
白地に金糸の刺繍が施された魔術士の様な外套を纏った背中。
あ、あぁぁ、夢にまで見た、クラウス様の精霊祭の衣装。これを現実に拝める日が来るなんて。
正面からも、もっとじっくり見ておくべきだった。ボケっとしている場合ではなかったのよ。ほんの数分前のわたくしにビンタして目を覚まさせてやりたい。
あばば、格好良すぎる……!涎が出そうですわ。
「此度のイドニア王国王太子に対する暗殺の画策、それに伴う宝物庫への侵入、及び国宝の窃盗、加えて「暗部」の不正操作。これら全て王国に対する著しい叛逆行為である」
朗々と通る、クラウス様の低く澄んだ声。
何て事。
暗殺計画も、ザイフリートが『主君の石』と『従者の石』を持っている事も、それを使ってテオバルトを従えていた事も、クラウス様には全てまるっとお見通しだったという事?別に全部が全部ひとりで調査した訳ではないのでしょうけれども、それでも凄い、クラウス様、凄い。あと格好良い。
あら?もしかして、わたくしが何もしなくとも全ては丸く収まっていたのでは…… … … …まぁいいか!
しかし、こんな展開『エバラバ』にはなかった。
いえ、シナリオにはなくとも、実は裏ではこんな出来事が?
分からない、分からないけれど、悪い方へ話が転がる感じではないので黙って聞いていようとわたくしは思った。
「イドニア王国王太子」って自分の事をまるで他人事の様に、クラウス様はいつもと変わらぬ調子で淡々と続ける。
「フォンシュルツェブルクの〈魔術〉により復元された国宝の器、王太子暗殺の計図を記した書状、これらはザイフリート公爵家の屋敷より押収された物であり、元近衛騎士の証言も含め、既に正式な証拠として大司教の承認を得ている」
フォンシュルツェブルクの〈魔術〉―――それは、王室の人間にのみ使用する事を許された〈魔術〉。
恐らく、かつてわたくしが破壊した隣国からの贈答品や、アリスの燃やされた教本を復元した〈魔術〉と同じもの。
王室の人間以外ではごく限られた者しか知る事すら許されない機密事項なので詳細は分からないけれど、物質を復元する事が出来る〈光〉の〈魔術〉なのだろう。
………では、先程ザイフリートの腕が消失したのは?
わたくしの内に秘めた不思議な能力が目覚めたのかと思ったが、どうやら違う。
状況を鑑みるにクラウス様の〈魔術〉で間違いないだろう。
「復元」とはまた違う別の〈魔術〉なのだろうか。
「これは容疑ではなく、確定だ。爵位剥奪の上、死罪に処す」
まるで天気の話でもしているかの様に極刑を言い渡すクラウス様に、ザイフリートは―――いや、爵位を失った今この瞬間から、彼は只のアロイジウスになった―――兵士達に拘束されながら今ようやっと顔を上げ、苦悶とも憂懼ともとれぬ表情を浮かべた後―――やがて何も言わず、がっくりと項垂れた。
それはゆっくりと近付いて、わたくしの顔に直撃する―――その寸前で、消えた。
消えた。
ザイフリートの右腕が―――右腕だけが。
衣服の袖はそのままに跡形もなく消え去った拳の残滓を伝える風、それだけを顔に浴び、次いで、片腕を失いバランスを崩したザイフリートの巨体が殴りかかろうとした勢いのままに倒れ込んで来る。
あわや押し潰される寸前、わたくしの体は強い力で後ろに引き寄せられ、ザイフリートはそのまま足元に崩れ落ちた。
全てが一瞬の出来事だった。
「ぐ……!」
呆然と見下ろすわたくしの足元で、唸りながも残った左腕を石畳に付いて起き上がろうとするザイフリートの、その左腕もまた幻の様に掻き消える。
支えを失った体はなす術もなく、再び倒れ伏した。
まただ、また消えた。
何が何だか分からないまま、わたくしは地面を這いずる様にもがくザイフリートを只見ている事しか出来ない。
一体、これは………
これはまさか―――わたくし?
わたくしが、やったの?
絶体絶命のピンチに、わたくしの隠されていた能力が目覚めて―――!
「リーゼ」
直ぐ耳元で聞こえた声にハッと我に返ったわたくしは、今更ながら、自分が誰かに抱き留められている事に気付いた。
耳に低く響く、わたくしの名を呼ぶ声。
居る筈ない。
彼が居るのは旧聖堂からはずっと離れた王宮聖堂で、こんな所に居る筈がないのに。
信じられない思いでのろのろと振り返る。
見上げた先に、深く澄んだ藍色の瞳があった。
「クラウス様………」
わたくしの体を支える様にしてそこに居たのは、紛れもなくクラウス様その人で。
クラウス様は、わたくしの体をくるっと回して自分と向き合わせると、ぽかんと惚けたままのわたくしの顔を瞬ぎもせずに見つめた。
「怪我は」
「あ、ありません……」
「そうか」
回らない頭でやっとの事で答えるわたくしの頬に張り付いた髪を、筋張った手が優しくよけて整える。
間近に見上げるクラウス様の白い肌は薄らと上気して、走った後みたいに息も少し乱れていて、呟く様に「良かった」と息を吐いたクラウス様の表情がふわりと和らいで……それは少し泣きそうにも見えた。
わたくしがクラウス様に見惚れている間に、回廊の角からは次々と王宮の兵士が現れて、静かだった旧聖堂裏は俄に騒がしくなっていた。
「少し下がっていろ」
クラウス様は遅れてやって来た自らの護衛に「リーゼを頼む」と言い置いて、未だうつ伏せに倒れたままのザイフリートに向き直った。
配置換えがあったのだろうか、いつも居るクラウス様の近衛騎士の片方が別の人に変わっている。
「アロイジウス・フォン・ザイフリート」
兵士達に囲まれ、魔力を封じる拘束具を着せられているザイフリートが顔を上げるのも待たず、クラウス様が話し始めた。
未だ、夢を見ているのではないだろうか。
いえ、先刻のは夢ではないわね。回想?走馬灯?
ふわふわとした心地のまま、わたくしは護衛騎士の背中越しに、クラウス様の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
先刻も見た、金糸雀色の金髪。
いえ、だから先刻は見てはいないのよ、思い出があまりに鮮明だったもので、つい見た気になってしまっていたわ。
白地に金糸の刺繍が施された魔術士の様な外套を纏った背中。
あ、あぁぁ、夢にまで見た、クラウス様の精霊祭の衣装。これを現実に拝める日が来るなんて。
正面からも、もっとじっくり見ておくべきだった。ボケっとしている場合ではなかったのよ。ほんの数分前のわたくしにビンタして目を覚まさせてやりたい。
あばば、格好良すぎる……!涎が出そうですわ。
「此度のイドニア王国王太子に対する暗殺の画策、それに伴う宝物庫への侵入、及び国宝の窃盗、加えて「暗部」の不正操作。これら全て王国に対する著しい叛逆行為である」
朗々と通る、クラウス様の低く澄んだ声。
何て事。
暗殺計画も、ザイフリートが『主君の石』と『従者の石』を持っている事も、それを使ってテオバルトを従えていた事も、クラウス様には全てまるっとお見通しだったという事?別に全部が全部ひとりで調査した訳ではないのでしょうけれども、それでも凄い、クラウス様、凄い。あと格好良い。
あら?もしかして、わたくしが何もしなくとも全ては丸く収まっていたのでは…… … … …まぁいいか!
しかし、こんな展開『エバラバ』にはなかった。
いえ、シナリオにはなくとも、実は裏ではこんな出来事が?
分からない、分からないけれど、悪い方へ話が転がる感じではないので黙って聞いていようとわたくしは思った。
「イドニア王国王太子」って自分の事をまるで他人事の様に、クラウス様はいつもと変わらぬ調子で淡々と続ける。
「フォンシュルツェブルクの〈魔術〉により復元された国宝の器、王太子暗殺の計図を記した書状、これらはザイフリート公爵家の屋敷より押収された物であり、元近衛騎士の証言も含め、既に正式な証拠として大司教の承認を得ている」
フォンシュルツェブルクの〈魔術〉―――それは、王室の人間にのみ使用する事を許された〈魔術〉。
恐らく、かつてわたくしが破壊した隣国からの贈答品や、アリスの燃やされた教本を復元した〈魔術〉と同じもの。
王室の人間以外ではごく限られた者しか知る事すら許されない機密事項なので詳細は分からないけれど、物質を復元する事が出来る〈光〉の〈魔術〉なのだろう。
………では、先程ザイフリートの腕が消失したのは?
わたくしの内に秘めた不思議な能力が目覚めたのかと思ったが、どうやら違う。
状況を鑑みるにクラウス様の〈魔術〉で間違いないだろう。
「復元」とはまた違う別の〈魔術〉なのだろうか。
「これは容疑ではなく、確定だ。爵位剥奪の上、死罪に処す」
まるで天気の話でもしているかの様に極刑を言い渡すクラウス様に、ザイフリートは―――いや、爵位を失った今この瞬間から、彼は只のアロイジウスになった―――兵士達に拘束されながら今ようやっと顔を上げ、苦悶とも憂懼ともとれぬ表情を浮かべた後―――やがて何も言わず、がっくりと項垂れた。
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