嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

嘘つきは恋人のはじまり

 玲はホテルに戻るとその足で逃げるように空港に向かった。本当はもう一日観光しようかと思っていたが、これ以上ここに居て、ロバートと揉めたくない。
 今は渋々引いてくれたが、きっと納得はしていないだろう。残念ながら自分は納得するまで根気強く付き合ってあげられるようなお人好しではない。
 できればしばらく会いたくないし、合わせる顔がなかった。

 朝の空港は早朝にもかかわらず人が多かった。
 オーストラリアではクリスマスを家族と過ごす風習があるせいか、嬉しそうに誰かを迎えたりしている風景を見ると少しだけ羨ましく思う。
 こういう時になぜか梓の顔を思い出して玲は小さく頭を振った。

 (馬鹿だなあ、もう)

 ロバートに告げた内容に嘘はなかった。だけど、玲は梓とは付き合うつもりはない。
 もし自分のせいで迷惑をかけたら、と思うと怖くて仕方なかった。
 それで嫌われでもしたら一生立ち直れる気がしない。

 信じてしまいそうだから怖い。
 梓は平気で心の奥に踏み込んでくる。それも気づけば自分から「どうぞ」と心を開いてしまいそうなのだ。玲は梓の前では制御ができなくて恐ろしかった。

 (何気に人タラシだから)

 普段クールでアンドロイドのように胡散臭い笑顔を貼り付けているくせに、玲に見せる顔はとても人間臭かった。拗ねるし甘えるし怒るし笑うし全然アンドロイドっぽくない。 
艶っぽい笑みも子どもっぽい無邪気な顔もベッドの中で見せる溶けてしまいそうな甘い顔も、玲は梓の傍に居れば居るほど惹かれていく自分を止めることで精一杯で。
 なんでもないふりをしてやり過ごした。それはロバートに対する罪悪感と宙ぶらりんな関係で甘んじていた梓に申し訳なさでどう接すればいいのかわからなかったということもある。
 ロバートと別れられないくせに図々しくなれなかった。かといって電話で別れようというのはロバートに申し訳なかった。
 たくさん考えた。自問自答してその度に雁字搦めになった。
 息もできないぐらい、頭がパンクしそうになるぐらい、もうすべてを投げ出したくなるほど考えて考えて、玲はどちらも選ばない、という選択を選んだ。
 ただ、問題があるとすればそれをまだ梓に伝えていないことだ。玲はロバートよりも梓を納得させることの方が難しいと理解している。

 (どうすればいいのだろう)

 もう嫌いになった、といえばいいのだろうか。
 そんな嘘を自分につけるだろうか。
 考えただけで泣きそうになるのはきっと、「嫌い」だと告げたバーチャルの梓がひどく泣きそうな顔をしたせいだ。

 (出逢わなければよかった)

 玲はチケットカウンターで空席の確認をした。実家にそのまま帰ろうか。それとも一度東京に戻ろうか悩ましいところだった。今帰ればシュクレのクリスマスイベントを少し覗けるかもしれない。とはいえ、現場を見に行ってもきっと邪魔になるな、と思い至る。一応シュクレでも業務は終えた。あとは簡単な結果報告を待つだけだ。
 つまり東京に戻ってもやることがないかもしれない。玲はそれならば地元神戸に帰ろうと関空着のチケットを購入した。
 本当ならロバートに別れを告げた勢いで伝えればよかったが、あいにく玲にもうエネルギーは残っていない。このまま東京に戻ってもきっと言いたいことの半分も言えないままうやむやにされそうだ。。
 別れを切り出すエネルギーは想像以上でひどく疲れて疲弊している。
 おまけに睡眠不足。帰りの飛行機でゆっくり寝ようと考えているとこんな朝早くに未玖から連絡が入った。

 「もしも」
 「玲、落ち着いて聞いて」

 未玖の声が震えていた。どうしたの、と言葉は次の言葉に打ち消された。

 「九条さんが、昨夜事故に遭ったって」

 心臓が止まるかと思った。背中から嫌な汗がじわりと流れる。
 眠気なんてどこかにとんで行ってしまった。玲は震える手をぎゅっと握りしめて未玖に容態を訊ねた。

 「わからない。ただ香月さんから連絡がきて、それで」

 もしかすることもあるかもしれないから、玲にも伝えてほしい、って

 玲はペタンとその場に座り込んだ。腰から力が抜けて立ち上がれない。

 「い、や・・・」

 梓の笑顔が壊れていく。玲はイヤイヤと首を横に振りながら子どものように泣きじゃくった。

 「…レイ!!」

 周囲が遠巻きに見て、職員が駆けつけようとしていた時、ロバートが駆けつけて玲を抱え上げた。

 「どうした?何があった」

 玲はロバート顔を見てまたぶわっと涙を流した。泣きながら事故が起きたことを説明する。パニックになる玲をロバートはなんとか宥めすかした。

 「まず、チケットの変更をしてくる。東京行きの早く着くものでいいかい?」

 玲は涙を拭いながら頷いた。ロバートは玲を椅子に座らせるとカウンターに向かう。
 しばらくするとロバートは戻ってきた。キャンセルが出た東京行きの便があったと説明してくれた。とはいえども、到着は明日の朝になる。それまでになんとか持ち堪えてくれるだろうか、と玲は不安で仕方なかった。

 「…大丈夫。きっと彼はきみを待ってる」
 「…うん。あの、どうして」

 玲は涙をこぼしながらロバートに訊ねた。ロバートは気まずそうに目を逸らす。

 「…きみとの最後があれだとさすがに格好つかない。だからせめて最後にちゃんと別れを言いたかった」
 
 本音はもう一度縋ったらもしかすると自分に靡いてくれるのではないかと思っていた。玲は優しい。そして押しに弱い。泣き落としまでできる技術はないが、何度も諦めずにいえばもしかすると、と淡い気持ちがあったのは確かだった。
 だけどこんな風に取り乱す玲を見てロバートは自分の気持ちをぶつけることはしなかった。誰だって大切な人が事故に遭ったと聞かされれば混乱するだろう。
 ロバートは玲が落ち着いた頃を見計らいその場に跪いた。はらはら流れる涙に手を伸ばしかけて、それは自分の役目じゃないと遠慮した。

 「…きみが好きだった。控えめに笑うきみをずっと隠しておきたかった。できればずっとそばにおいておきたかった。ただもうあんな風に笑って欲しくなかったから」

 ロバートが初めて玲を見つけたとき、今にも消えてしまいそうなほど危うかった。実際に本当に海に身を投げてしまうのではないかと思うぐらいには儚くて脆さを感じた。
 東洋人特有のあどけなさが余計に痛ましく見えた。ロバートは監視するつもりで玲に付き纏った。本人はパースを案内してくれる気のいい人ぐらいにしか思っていたなかったことが幸いだった。後から友人に「変質者だと勘違いされても仕方ない」と怒られた。
 そんな放っておけない気持ちがいつの間にか恋情に変わり、愛情に変化した。鍵を渡したのは勢いだったけど日本に帰せばまた玲が傷つくと思ったのは確かだった。だからこそ自分が守らないとと思った。玲は少し悩んで受け入れてくれた。従順で控えめでこちらの女性とは違う姿勢もまた新鮮だった。

 「ありがとう、と言うのは僕の方だ。きっと知らないうちにきみを傷つけていたかもしれない。僕はあまりその、デリカシーがないから。繊細なきみにはもしかするととても野蛮に見えたかもしれない」

 こちらの女性は言いたいことは遠慮なくズケズケ言ってきた。だけど玲はきっとどこかで我慢していたこともあるだろう。あまり反論してくることもなく大きな喧嘩をしたことがなかった。だからきっと自分に驕っていた部分もあったはずだ。ロバートは今更ながらに反省した。

 玲はロバートの言葉を否定しなかった。野蛮に見えたことはないが色々と合わなかった部分はあった。文化も国も人種も違うのだから難しいことの方が多いのは当たり前だ。
 でもそれを今ここで言うつもりはなかった。ただじっとロバートの言葉に耳を傾けた。

 「…どうかしあわせに」
 「…ロブも。ありがとう。来てくれて」
 
 玲はぎゅっと携帯を握りしめたままロバートに礼を告げた。
 最後は無理矢理笑ってみせたが梓を失うかもしれない不安と恐怖でうまく笑えたかどうか自信はなかった。


 *****

 搭乗中は一秒一秒がとても長く感じた。焦っても仕方ないのはわかっているが、こんなにも時間がかかるのかと落ち着かなくて仕方なかった。携帯はいつでも出られるように握りしめていた。それでも未玖も仕事中なんだろう。「なにか分かれば連絡する」と言ったっきり音沙汰なしだった。
 梓に直接連絡を入れてみようか、と悩んだけれど今度こそ「お亡くなりになりました」と言われたら一生泣き暮らす自信があった。飛行機で啜り泣く玲を隣に座った乗客が訝しんでいたのも玲は最後まで気づくことはなかった。
 うとうとして、目が覚めて、まだこれっぽっちしか進んでいないことに落ち込んだ。
 トランジットの四時間はひどく長くて、別の便に乗り換えられないかと交渉までしてみた。どれだけ自分が頑張ってもできることは限られていて空の上はとてももどかしい。食事も喉を通らず、空腹も感じることなく、ただ時間がのろのろと過ぎていった。

 「…さむ、」

 日本に着いてまず気づいたことは、オーストラリアは真夏で玲は今肩を曝け出したワンピース一枚にサンダルだということだった。チケット買い、すぐに未玖から連絡があった。荷物はロバートが代理で預けてくれた。
 だから日本は今真冬で、いくら室内といえども夏物のワンピース一枚で素足はさすがに寒い。そんな玲を見かねた職員から毛布を渡されてありがたく肩に羽織らせてもらう。
 その姿のまま、荷物をピックアップすると、コートを着る時間も惜しくて、毛布を返し、ペタペタとサンダルでタクシー乗り場に向かった。

 「…玲!」
 
 いそいそと足早に歩く自分を誰かが呼んだ気がした。でも玲はなりふり構っていられなかった。足を止める時間も勿体無い。玲は空耳だと決めつけてスーツケースをコロコロと転がした。

 「玲!」

 だけどその声はとても近くて耳馴染みが良い。それにずっと探していた声だ。
 いつも優しく抱きしめてくれた人だ。いつも傍にいてこうして強く抱きしめてくれた。

 「う、そ。あれ?死んで、ない?」

 腕の中は確かに温かかった。室内の暖かさではない。ちゃんと血の通っている温かさだ。玲は確かめるように梓の頬に触れる。その手のひらに頬を擦り寄せるように梓が顔を傾けた。

 「生きてるよ」
 「…ほん、と、に?」

 ぐぅ、と込み上げる涙は安堵と安心でせめぎ合い、喉の奥からこぼれ落ちた声はこれ以上ないほどか細くて切なかった。

 「…よ、かっ、」

 玲は小さなこどもが泣きじゃくるように梓に縋りついて泣いた。
 梓の無事を喜び、そして安堵した。生きている。ただそれだけで嬉しくて、ひたすら「よかった」と泣きびしる玲を見て逆に梓が居た堪れなくなった。


 「…本当に大丈夫なの?」

 空港からまっすぐ梓の自宅に戻った玲は何度も何度も梓に確認した。運転していいのか、タクシーの方がいいのではないか。寝てなくていいのか、病院には行ったのか、どこを怪我したのか。その度に梓は「大丈夫」と玲を宥めたが玲の不安は拭えなかった。
 自宅に着き、まずは落ち着くようにと温かいお茶を飲ませた。見ているだけで寒くなる服は脱がせて暖かい格好に着替えさせた。

 「…なに?」
 「…動いてる、と思って」

 普通に喋れることが奇跡なんじゃないかと思った。しっかりと目が合う。声も聞こえる。嬉しいのにまだどこか信じられない気持ちだった。
 
 そして梓はここにきてようやく懺悔した。

 「ごめん。事故ったのは嘘。玲が確実に東京に戻ってくるにはそれがいいと塚原さんに言われて」

 え。と玲が数秒固まったのは仕方ないと思う。

 「え?…全部嘘?」
 「うん」
 「本当にどこもなにもないの?」

 事の真相を聞いた玲は紅茶のカップを落としそうになった。慌てて持ち直し、静かにテーブルの上に置く。どう言うことかちゃんと説明を聞いた。
 つまり梓の話を要約すれば。

 「わたしがいつ日本に帰ってくるかわからないし、帰ってきたとしても東京には帰ってこないかもしれないから梓が事故ったことにして東京に確実に帰ってくるように仕向けたってこと?」
 「…そうなるな」
 「…なんて酷い」

 彼らのやり方に愕然とした。頭が痛かった。結果的に梓はなんともなかったのでよかったが手放しで喜べるかと言われれば複雑だ。本当に心配したのだ。

 「塚原さんが悪いんじゃない。俺が結果的にそれに乗ったから」

 それでも未玖がウキウキしながら協力している姿を想像するのは容易かった。

 「もう一度玲に会いたかった。会って伝えたかった。玲の答えを待とうと思ったけど…無理だった。ずっと後悔してたんだ。何度も答えを聞き出したくなって、その度にブレーキを踏んだことを。何がなんでも吐き出させて聞き出せばよかったと」

 梓がそろりと玲の腰を抱き背中を抱きしめる。懇願するように肩に顔を埋めて長く深い息を吐き出しながら静かに気持ちを吐き出した。

 「好きなんだ。どうしようもないぐらい、好きで。失うことがこんなにも怖いとは思わなかった」
  
 玲はその感情を知っていた。ついたった今まで感じていた気持ちと同じだった。
 もう二度と梓に会えないと思うと怖くて怖くて仕方なかった。悲しくて頭がおかしくなるぐらい取り乱してどうしようもならなかった。

 「そばにいてほしい。俺のそばに、いて。なにも要らないからどこにもいかないでくれ」

 頬を伝い顎から落ちる涙がソファーに落ちては滲みを作った。上品な藍色のソファーが黒く濡れる。次から次へと溢れる雫が黒の範囲を広げた。

 「…わたしも、すき。梓が事故に遭ったと聞いて、ただ怖くて仕方なかった。もう会えないかと思って、ごめんもありがとうも何も言えてないのにって後悔ばかりで」

 玲はしがみ付くように抱きしめている梓の肩に顔を埋めた。深くゆっくりと息を吸い込む。愛おしさで胸がギュッと締め付けられた。

 「好きだから、離れようと思ったの。わたしは疫病神だから。また梓に迷惑かけちゃうかもしれない。それで愛想つかされたら、もうきっと誰も信じられなくて」

 嗚咽しながら泣く玲を梓の手が優しく撫でていく。その優しさに温かさにまた涙が誘われて玲は離れていた二ヶ月の思いを吐き出した。

 「寂しかった」

 寂しくてつまらなかった。食事も美味しくないし部屋はとても空虚で家に帰るのが嫌になるぐらい虚しかった。

 「いるはずないのに、どこかに居そうな気がして。無駄に探して落ち込んで」

 居ないと思ったら寝室にいたり、リビングにいたり洗面所にいたり。
 全然広くない部屋なのに梓は時々存在感を消す時がある。そんなとき玲は梓を探しては声をかけた。

 「自分が悪いのに、梓はわたしの気持ちを尊重してくれただけなのに、勝手に裏切られたような気がしたの。そしたらまた怖くなって。あんなにも玲ってよんでくれたのに、もうよんでくれないことがさびしくて、」

 しゃくり上げながら自分の肩に顔を埋めて泣く玲を梓は無理矢理剥がして目を合わせた。次から次へと溢れる涙の向こう側でどうしようもないほど愛おしい人が泣き叫んでいた。

 「いつも、みたいに、れいって、よんで」
 「…っ、」
 「…そばにいて。なにがあっても、うらぎらない、って、いって」
 「…れい、」
 「すきだから、こわいの。もっとすきになって、また、だれもいなくなったらって」

 梓は玲の心の叫びを受け取るように唇を塞いだ。涙で濡れた唇がしっとりと合わさる。次から次へと溢れる涙を拭いながら、梓は震えながらキスを受け入れる華奢な身体を抱きしめた。縋るように伸びてきた腕が梓を求めるように洋服を掴む。
 それが彼女の本心だと気づいたのは、彼女の中に信じることの怖さと向き合おうとする心が見えたからだろう。
 強いな、と梓は思う。誰だってそう簡単に人を信じられるものじゃない。
 だけど玲は梓を信じようと信じたいと確かな気持ちを伝えてくれた。

 「玲、好きだ」

 どれだけ口付けても渇望は増すばかりだった。離れていた時間を埋めるように二人は夢中でキスを繰り返す。好き、という言葉だけでは足りない。張り裂けそうなほど胸が苦しくて、もどかしくてたまらなかった。

 「あいしてる」
 
 真冬の午前六時は、いくら暖房が入っていても素肌はひんやりと肌寒い。
 その肌を温めるように重ねてキスを繰り返す。
 涙で濡れた頬を拭いながら目を細めれば、ウサギのように真っ赤な目が嬉しそうに細められた。どこか恥ずかしそうに、照れ臭そうに。それでも玲はきちんと言葉で返した。

 「あいしてる、わたしも」
 「…っ、もう一回、言って」
 「…あいしてる、」
 「もういっかい」

 もう!と玲に怒られたのはその後すぐのこと。だけど梓はこの日以上に人生で幸せな日が来ることがないだろうと実感したのだった。
 

 

 

 

 
 

 
  



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