嘘つきは恋人のはじまり。
愛しい人
「…わたしと別れてください」
下げた頭を上げて真っ直ぐにロバートの目を見つめた。
喉の奥が熱いのに口の中はひどく乾く。何を言われるのか怖くて心臓が激しく波打った。
ロバートは差し出された自宅の鍵を見て懐かしそうにそれを手に取った。
二年ほど前に玲を引き止めるために与えた自宅の鍵だ。あの時は勢いだったけどきっと間違いじゃなかったのだろう。玲は迷いながらも自分の手をとってくれた。
そしてその未来がこれからも続くと信じて疑わなかった。
「理由を聞いてもいいかい?」
真っ直ぐに自分を見つめる目を見て、ロバートは説得を諦めた。
玲はこう見えて頑固なところがある。些細なこと、たとえば食事のメニューだったりその日の予定だったりは特にこだわりがないようで合わせてくれることが多い。
それでも時々何かを決めた時はこんな風に力を宿した目をロバートに向けた。
一度目はロバートの店でアルバイトをしたい、と言い出した時だ。ロバート自身、玲が自分の店で働くことに前向きではなかった。
言葉も辿々しく、会話にもならない。そのことを正直に話せば玲は客として入り浸り、常連たちから可愛がられた。東洋人というあまりこの辺では見かけない人種だから物珍しさもあったのだろう。実際にそれを揶揄する奴らもいた。悪い奴ではないが時々言葉がストレートすぎるところがある。ロバートは適当に聞き流したが、玲に聞かせたくはない内容だった。
二度目は日本に一時的に戻ると決めた時だ。恩人のために何か役に立ちたいと、とても強い意志が見えた。PCに向かってあれこれと考えて資料を作る姿も見ていた。
ロバートはデスク作業が得意ではないのでよくわからない。おまけに資料は日本語だったのでほとんど理解はできなかった。それでも玲が少しだけ生き生きと仕事をしている姿を見れば行かせてやりたい、と思うのが普通だろう。
ただし、「必ず戻ってくること」と玲には十分に言い聞かせた。
きっと心のどこかで「日本に戻りたい」と言われる気がして怖かったのだ。
「…好きな人がいるの」
仕事だろうか、それとも家族だろうか。ロバートは玲が自分と別れを決めた原因を予想していたが、予想は大きく外れた。
「彼のそばにいたい」
化粧気のない顔が今日は綺麗にメイクが施されていた。
日本で会った時も少し化粧をしているな、と思ったけど、今日はしっかりと施されていた。日本には独特の化粧文化があるのはなんとなく知っている。
玲がまさかこんな風に見違えるとは思わなかった。
でもそれも、もしかするとその男が関係するのだろうか。
ロバートはそんなことを考えて苛立ちを感じた。
「ごめんなさい。理由は他にもあるわ。でも一番の理由は彼だった」
目を潤ませてそれでも泣くまいと玲は奥歯を噛み締めた。
今泣くのは卑怯な気がした。それでもこんな言葉をロバートに伝えるの悲しくて胸が苦しい。
「…大切にしてくれてありがとう。とても感謝してる」
ロバートは何も言えなかった。いや、言葉が出なかった。
玲はもう何もかも決めている。そういう物言いだった。
玲はボロボロの自分を気にかけ居場所をくれたロバートには感謝しかなかった。縋るように手を取った。確かにはじめは逃げだったと思う。だけど日に日に惹かれていつか愛情になった。決して燃えるような激しい恋ではなかった。穏やかで小さな温かな火がずっと灯されているような、そんな感覚だった。それが心地よいと思ってた。本音を隠してでもその場所にしがみつきたかった。でもそうじゃない。そうじゃないと教えてくれた人がいた。だからこそこれ以上、ロバートに失礼なことはできない。
言いたいことを言えたら少しだけ胸のつっかえが取れた気がした。
「…まだ時間はある?」
「え?うん」
「だったら、好きなもの作るから食べていきなよ。彼らもレイに会いたがってる」
ロバートはこれから仕入れをして店の準備をする。準備をしているときっとアルバイトの人たちがくるだろう。邪魔にならないか心配をする玲にロバートは今夜は客としてくればいいという。玲はその言葉に甘えて一度ホテルに戻り、改めて訪ねようと店を後にした。常連たちと過ごす最後の夜だ。玲は最後まで楽しもうと決めた。
「あまりお客さん来なかったね」
「仕方ないさ。そういう日もある」
そんな日に限って客の出入りは芳しくなかった。いつもなら午前四時ぐらいまで営業する店を一時で閉める。玲はふぁ、とあくびをしながらロバートとよく歩いた帰り道を肩を並べて歩いた。
「綺麗だね」
空を見上げれば満点の星だった。初めてこの星空を見た時は玲もとても感動した。
神戸の六甲山に登った時もとても綺麗な空が見えた。だけどそれとはまた違う。吸い込まれそうな夜空に玲は目を細めて見つめる。
そんな玲を眺めながらロバートは離れていきそうな玲の手をそっと掴んだ。
「そんなに驚かなくても」
「え、ごめん。でも急だったから」
玲は玲でロバートが急に手を繋いで来るとは思わなかった。
基本的にあまり自分からそういうことをするタイプじゃない。
家の中ではまだスキンシップもあったが根本的に積極的なタイプじゃない。
外国人なら皆情熱的だと思っていた玲は恋人が例外だと知って少し安心したことを思い出した。年がら年中好きだの愛してるだの言われると背中が痒くて仕方がない。
玲にはちょっと遠慮したいタイプだったから安心したのだ。
玲は苦笑いをしながら少しだけ距離を取った。ロバートは傷ついた顔をする。
でももう、別れた人だ。玲はロバートに申し訳なさを感じながらも勘違いされるようなことは避けようと思った。
「ここで」
いつもなら自宅まで真っ直ぐ向かう道を今夜はいつもより先分かれる。
途中で歩みを止めた玲にロバートは驚きながら躊躇いがちに訊ねた。
「…きみの家でもあるのにどうして」
「そんなことできないよ」
ロバートはこの時初めて玲が今日パースに来たわけではないことを知った。
「どうして早く言わなかった」
「観光していたの」
「それなら僕が」
一緒に行ったのに、と言いかけてロバートは口をつぐんだ。
確かに出逢った当初は一緒にいろんな場所を巡った。
だけど一緒に住むようになり、当たり前のように仕事を優先させた。
玲はどこか寂しそうに一人で出かけて行ったことも知っている。
「どこに行ったんだい?」と聞くとどこどこのカフェや本屋さんなどロバートにはあまり興味のない場所だったので一度もついていかなかなかった。
食事は自分の行きたい場所に行き、玲はいつもついてくるだけだ。
量が多いし全て食べられないから、といつもロバートが頼む皿から摘んで食べていた。
でも一人の時はどうやって食べていたのだろう。
今更ながらにロバートは玲のことを何も知らないのだと思い知った。
「おやすみなさい」
玲は黙り込んだロバートに一言声をかけてホテルに戻った。
予想外に空振りだったが、毎日くるおじさんには会えた。もう思い残すことはないかな、とホテルの部屋を見渡してしばらく窓から街を眺めて少し眠り、最後に見ておきたかった海から見える朝日を見に海岸に向かった。
「…どうして」
「ここにくると思って」
海に行けばロバートが待っていた。まだ朝の五時前だ。
いつもなら寝ている時間なのに、今回の旅はいつもならが通じないことばかりで玲は苦笑する。
「好きだったじゃないか、ここの景色」
「うん」
「だったら、ずっとこの街に居ればいいのに」
え、と思った時は玲はロバートに抱きしめられていた。
梓より体格もよく、背も高い彼に抱きしめられると玲は身動きが取れない。
「もし、きみが間違いを犯したとしても僕はそれを許すよ。だからこのまま此処に居ればいいじゃないか」
納得がいかないとロバートは憤慨した。決して別れることに理解を示した訳ではなかったようだ。それなら昨日言って欲しかったのに。玲は心の奥で少しだけ落ち込んだ。
「ロブ」
「僕はきみを離したくない」
「ロブ、聞いて」
「好きなんだ。どうしてわかってくれない」
張り裂けそうな思いに玲は胸を痛める。自分にはこんな風に思ってもらえる資格はないのに。どうしてロバートも梓も、と玲には到底理解できなかった。
「好きだと言ってくれて嬉しかった。でももうわたしは昔のようにあなたを好きになれない」
非情になるのはどうしたらいいのだろう。
玲は別れを切り出すのがこんなにも難しいのかと思い知った。
「日本が好き。仕事が好き。もっと頑張りたいと思った。そう思わせてくれたのは彼に出逢ったからなの。だから」
玲はがっちりした肩を押し返す。泣きそうな顔したロバートに「さようなら」と告げた。
下げた頭を上げて真っ直ぐにロバートの目を見つめた。
喉の奥が熱いのに口の中はひどく乾く。何を言われるのか怖くて心臓が激しく波打った。
ロバートは差し出された自宅の鍵を見て懐かしそうにそれを手に取った。
二年ほど前に玲を引き止めるために与えた自宅の鍵だ。あの時は勢いだったけどきっと間違いじゃなかったのだろう。玲は迷いながらも自分の手をとってくれた。
そしてその未来がこれからも続くと信じて疑わなかった。
「理由を聞いてもいいかい?」
真っ直ぐに自分を見つめる目を見て、ロバートは説得を諦めた。
玲はこう見えて頑固なところがある。些細なこと、たとえば食事のメニューだったりその日の予定だったりは特にこだわりがないようで合わせてくれることが多い。
それでも時々何かを決めた時はこんな風に力を宿した目をロバートに向けた。
一度目はロバートの店でアルバイトをしたい、と言い出した時だ。ロバート自身、玲が自分の店で働くことに前向きではなかった。
言葉も辿々しく、会話にもならない。そのことを正直に話せば玲は客として入り浸り、常連たちから可愛がられた。東洋人というあまりこの辺では見かけない人種だから物珍しさもあったのだろう。実際にそれを揶揄する奴らもいた。悪い奴ではないが時々言葉がストレートすぎるところがある。ロバートは適当に聞き流したが、玲に聞かせたくはない内容だった。
二度目は日本に一時的に戻ると決めた時だ。恩人のために何か役に立ちたいと、とても強い意志が見えた。PCに向かってあれこれと考えて資料を作る姿も見ていた。
ロバートはデスク作業が得意ではないのでよくわからない。おまけに資料は日本語だったのでほとんど理解はできなかった。それでも玲が少しだけ生き生きと仕事をしている姿を見れば行かせてやりたい、と思うのが普通だろう。
ただし、「必ず戻ってくること」と玲には十分に言い聞かせた。
きっと心のどこかで「日本に戻りたい」と言われる気がして怖かったのだ。
「…好きな人がいるの」
仕事だろうか、それとも家族だろうか。ロバートは玲が自分と別れを決めた原因を予想していたが、予想は大きく外れた。
「彼のそばにいたい」
化粧気のない顔が今日は綺麗にメイクが施されていた。
日本で会った時も少し化粧をしているな、と思ったけど、今日はしっかりと施されていた。日本には独特の化粧文化があるのはなんとなく知っている。
玲がまさかこんな風に見違えるとは思わなかった。
でもそれも、もしかするとその男が関係するのだろうか。
ロバートはそんなことを考えて苛立ちを感じた。
「ごめんなさい。理由は他にもあるわ。でも一番の理由は彼だった」
目を潤ませてそれでも泣くまいと玲は奥歯を噛み締めた。
今泣くのは卑怯な気がした。それでもこんな言葉をロバートに伝えるの悲しくて胸が苦しい。
「…大切にしてくれてありがとう。とても感謝してる」
ロバートは何も言えなかった。いや、言葉が出なかった。
玲はもう何もかも決めている。そういう物言いだった。
玲はボロボロの自分を気にかけ居場所をくれたロバートには感謝しかなかった。縋るように手を取った。確かにはじめは逃げだったと思う。だけど日に日に惹かれていつか愛情になった。決して燃えるような激しい恋ではなかった。穏やかで小さな温かな火がずっと灯されているような、そんな感覚だった。それが心地よいと思ってた。本音を隠してでもその場所にしがみつきたかった。でもそうじゃない。そうじゃないと教えてくれた人がいた。だからこそこれ以上、ロバートに失礼なことはできない。
言いたいことを言えたら少しだけ胸のつっかえが取れた気がした。
「…まだ時間はある?」
「え?うん」
「だったら、好きなもの作るから食べていきなよ。彼らもレイに会いたがってる」
ロバートはこれから仕入れをして店の準備をする。準備をしているときっとアルバイトの人たちがくるだろう。邪魔にならないか心配をする玲にロバートは今夜は客としてくればいいという。玲はその言葉に甘えて一度ホテルに戻り、改めて訪ねようと店を後にした。常連たちと過ごす最後の夜だ。玲は最後まで楽しもうと決めた。
「あまりお客さん来なかったね」
「仕方ないさ。そういう日もある」
そんな日に限って客の出入りは芳しくなかった。いつもなら午前四時ぐらいまで営業する店を一時で閉める。玲はふぁ、とあくびをしながらロバートとよく歩いた帰り道を肩を並べて歩いた。
「綺麗だね」
空を見上げれば満点の星だった。初めてこの星空を見た時は玲もとても感動した。
神戸の六甲山に登った時もとても綺麗な空が見えた。だけどそれとはまた違う。吸い込まれそうな夜空に玲は目を細めて見つめる。
そんな玲を眺めながらロバートは離れていきそうな玲の手をそっと掴んだ。
「そんなに驚かなくても」
「え、ごめん。でも急だったから」
玲は玲でロバートが急に手を繋いで来るとは思わなかった。
基本的にあまり自分からそういうことをするタイプじゃない。
家の中ではまだスキンシップもあったが根本的に積極的なタイプじゃない。
外国人なら皆情熱的だと思っていた玲は恋人が例外だと知って少し安心したことを思い出した。年がら年中好きだの愛してるだの言われると背中が痒くて仕方がない。
玲にはちょっと遠慮したいタイプだったから安心したのだ。
玲は苦笑いをしながら少しだけ距離を取った。ロバートは傷ついた顔をする。
でももう、別れた人だ。玲はロバートに申し訳なさを感じながらも勘違いされるようなことは避けようと思った。
「ここで」
いつもなら自宅まで真っ直ぐ向かう道を今夜はいつもより先分かれる。
途中で歩みを止めた玲にロバートは驚きながら躊躇いがちに訊ねた。
「…きみの家でもあるのにどうして」
「そんなことできないよ」
ロバートはこの時初めて玲が今日パースに来たわけではないことを知った。
「どうして早く言わなかった」
「観光していたの」
「それなら僕が」
一緒に行ったのに、と言いかけてロバートは口をつぐんだ。
確かに出逢った当初は一緒にいろんな場所を巡った。
だけど一緒に住むようになり、当たり前のように仕事を優先させた。
玲はどこか寂しそうに一人で出かけて行ったことも知っている。
「どこに行ったんだい?」と聞くとどこどこのカフェや本屋さんなどロバートにはあまり興味のない場所だったので一度もついていかなかなかった。
食事は自分の行きたい場所に行き、玲はいつもついてくるだけだ。
量が多いし全て食べられないから、といつもロバートが頼む皿から摘んで食べていた。
でも一人の時はどうやって食べていたのだろう。
今更ながらにロバートは玲のことを何も知らないのだと思い知った。
「おやすみなさい」
玲は黙り込んだロバートに一言声をかけてホテルに戻った。
予想外に空振りだったが、毎日くるおじさんには会えた。もう思い残すことはないかな、とホテルの部屋を見渡してしばらく窓から街を眺めて少し眠り、最後に見ておきたかった海から見える朝日を見に海岸に向かった。
「…どうして」
「ここにくると思って」
海に行けばロバートが待っていた。まだ朝の五時前だ。
いつもなら寝ている時間なのに、今回の旅はいつもならが通じないことばかりで玲は苦笑する。
「好きだったじゃないか、ここの景色」
「うん」
「だったら、ずっとこの街に居ればいいのに」
え、と思った時は玲はロバートに抱きしめられていた。
梓より体格もよく、背も高い彼に抱きしめられると玲は身動きが取れない。
「もし、きみが間違いを犯したとしても僕はそれを許すよ。だからこのまま此処に居ればいいじゃないか」
納得がいかないとロバートは憤慨した。決して別れることに理解を示した訳ではなかったようだ。それなら昨日言って欲しかったのに。玲は心の奥で少しだけ落ち込んだ。
「ロブ」
「僕はきみを離したくない」
「ロブ、聞いて」
「好きなんだ。どうしてわかってくれない」
張り裂けそうな思いに玲は胸を痛める。自分にはこんな風に思ってもらえる資格はないのに。どうしてロバートも梓も、と玲には到底理解できなかった。
「好きだと言ってくれて嬉しかった。でももうわたしは昔のようにあなたを好きになれない」
非情になるのはどうしたらいいのだろう。
玲は別れを切り出すのがこんなにも難しいのかと思い知った。
「日本が好き。仕事が好き。もっと頑張りたいと思った。そう思わせてくれたのは彼に出逢ったからなの。だから」
玲はがっちりした肩を押し返す。泣きそうな顔したロバートに「さようなら」と告げた。
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