嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

最後のキス

 玲は土砂降りの雨の中未玖の家に向かっていた。会場から二駅と偶然にも近かったこともあるが、何よりこういう時は未玖の顔を見て安心したい。
 一方未玖は食事を終えテレビを見ていた。突然玲から連絡が入り今から来るという。
 やってきた玲はびしょ濡れで、目を真っ赤にして「こんばんは」と力無く笑った。

 「お風呂沸かしたから入って」
 「ありがとう」
 「服もタオルも置いとくね」

 未玖は何も聞かずに玲を風呂に入れるとすぐに玲の携帯を確認した。案の定、数分置きに九条から着信が入っている。安堵したと同時に沸々と怒りが沸いた。どんな理由があろうと親友が泣いているのだ。未玖は次に九条から着信があれば遠慮なく出てやろうと携帯を睨みつけた。

 お風呂から出てきた玲は心配そうにする未玖を見てポロリと涙をこぼした。そして利根川に言われたこと、当時の真相を洗いざらいすべて吐き出した。未玖はただ黙って耳を傾けた。そして最後は声を荒げて「自業自得じゃない」と怒った。
 成績が下がったのも玲に抜かされたのも玲が頑張ったからであり、何も玲は悪くない。おまけに澤木に気に入られて虐めたら余計に庇われて腹が立ったということだ。
 そんな子どもみたいな理由で傷つけられた玲は溜まったものじゃない。

 「会社が解体したことがすごくショックで。みんなに申し訳なくて」

 泣きながら罪悪感を吐露する玲がとても不憫だった。親の権力を盾にされれば誰だって見てみぬふりをするだろう。皆が皆勇敢に立ち向かえるわけではない。当時の状況を考えるといつ自分に矛先が向くか分からない状況だった。自分を守るだけで精一杯なのに、立ち向かえという方が無理がある。玲はそんな理由で解雇された同僚達に非常に申し訳なさを感じた。
 
 「でも、残るか残らないか聞かれて残らないと決めたのは彼らにも罪悪感があったからでしょう。そんなこと玲が気にする必要ないよ」
 「それでも、わたしのせいで澤木さんの結婚も」
 「ちゃんと結婚したじゃない。過去のことをたられば言ってもキリがないでしょう」

 突然いろんな情報が一気に入ってきたせいで情報処理がうまくできなかった。
 副社長が裏切っていたこと、セキュリティをハックされていたこと、利根川が澤木に好意を持っていたこと、その八つ当たりに自分が虐められたこと。これ以上はパンクしそうだった。

 それなのに玲を唯一表立って味方してくれた澤木の結婚が白紙になったと聞かされた。「自分のせいだ」と思うのは当然だろう。たとえ白紙という表現が大袈裟だとしても、この件がきっかけでひとつの関係が終わりかけたのは事実。玲が責任を感じてしまうのも無理はなかった。
 
 「…ロバートから電話があったの。日本にお店を出すかもしれないって」

 未玖にしてみればこれこそ大きな事件だった。なんの因果か、また玲が弱っている時に玲を攫おうとする。少しずつではあるが、本来の明るさを取り戻りつつあるのに、こんな時にどうしてそんな話を、と未玖は唇を噛んだ。

 「…わたし、やっぱり彼と」
 「玲」
 
 未玖は玲の言葉を遮った。玲が何を言い出すか分からなかった。「彼と生きる」なのに「彼と別れる」なのか当てはまりそうな言葉はたくさんある。でも今の玲はすべて悪い方に考えてしまう。
 そのループから抜け出さないといけない。

 「ちゃんと九条さんと話した?」

 玲は敢えて避けていた名前を出されて思わず肩を跳ねさせた。さっきからずっと携帯が気になって仕方なかった。でも見る勇気が出なかった。

 「心配してる。ちゃんと話さなきゃ」
 「…うん、わかってる」
 「じゃあ、さっさと帰って」
 「え?」

 まさか今すぐに帰れと言われると思っていなかった。今夜は未玖の自宅に泊まらせてもらおうと思っていた。
 それなのに、未玖は腰を上げるとすぐに玄関に向かう扉を開けた。まるで「さあ早く帰れ」と玲を追い出すように。
 玲はそんな未玖の態度に少しだけ悲しくなった。

 「……未玖」
 「九条さんずっと玲を待ってる。ちゃんと彼の気持ちも考えてあげて」

 わかってる。だけど、わかっていてもすぐには整理できなかった。
 もう少し時間が欲しい。
 でも未玖はそれすらも許してくれないようだ。

 「わたしは一番に頼ってくれて嬉しかったけどね」
 「え?」
 「でも」

 未玖が玄関の扉を開けると、扉の前には梓が立っていた。玲を見つけると安堵したように肩を落とし未玖に頭を下げる。

 「申し訳なかった」
 「本当に。ちゃんとしてください」
 「違うの。悪いのはわたしで」

 梓の表情がとても憔悴していた。会場から離れてたった三時間ほどだった。
 それなのに梓をこんなにも悲しませている。
 玲は梓と顔を合わせて初めて自分はとんでもなく迷惑をかけたんだと落ち込んだ。

 「玲もちゃんと話合って」
 「…はい」
 「服はいつでもいいから」

 未玖はそれだけ言うと「じゃあね」と玲を玄関の外へ追いやった。玲は閉まりかけた扉に「ありがとう」と声をかける。扉の隙間から笑顔で手を振る未玖に玲は小さく笑みを返した。


 梓は濡れた靴を裸足で履く玲を抱きかかえて未玖の自宅からタクシーで玲の自宅へ向かった。
 タクシーの中ではずっと無言だった。ただ玲がどこにも行かないように手をしっかり繋がれた。ちゃんと話をしないとと思うのに体が竦む。梓の雰囲気がとても怖くて玲はどうしてもいいか分からなかった。

 「…あっず」

 玄関の鍵をかける前に梓に強く抱きしめられた。縋るようにキツく抱き締められる腕の中で、胸がギュッと締め付けられる。

 「ごめんなさい」

 ちゃんと話をしなきゃ、と思うのに説明もなにも出てこない。
 ただ、ただ謝罪だった。
 勝手に会場から居なくなって迷惑をかけたのだ。当然と言えば当然だった。
 
 「守れなくてごめん。嫌な思いさせてごめん」

 それなのに梓から返ってきたのも謝罪だった。
 嫌な思いをさせたのは梓ではなく利根川だ。
 それにもう十分守ってもらっている。
 こんなふうに抱きしめられるだけで玲は泣きたくなるほど安心した。

 「まず、初めに言いたいのは玲以外に人生で一度も結婚を考えた女性はいない。この五年仕事ばかりしていたし、時間があれば玲のことを探していた。利根川が言った婚約云々は嘘。ただ、接待が実は見合いで『結婚してくれないと死んでやる』って言われたことはある」

 狭いシングルベッドの中で梓は玲を抱きしめながら散々な出来事を振り返った。ちなみに狂言女はしばらく梓に付き纏い、警察から厳重注意を受けた。さすがに父親はやばいと思ったらしく、後日粛々と謝罪をされて以後娘の姿は見ていない。

 「彼女のこともこちらから正式に訴えを出している。トイレで馬鹿みたいに大声で話していた女たちは利根川に金で雇われたと言っていた。そんな暇な仕事あるんだと驚いたよ」
 
 玲もそれには驚いた。だけどもっと驚いたのは玲が居なくなった数時間の間に梓が全ての監視カメラを確認し何が起きていたのか把握していたことだった。詰られた言葉もすべて消去されないように録音録画してバックアップも録ったという。
 
 「…ごめんね」
 「どうして玲が謝る」
 「…大事な人のパーティーだったのに」

 玲は梓の顔を潰していないか心配だった。玲は自分がいなくなった後の会場での様子は分からない。分からないが、もし里中氏に迷惑をかけてしまったらと思うと自分の行動がいかに浅はかだったかと思う。

 「玲は何も悪くない。悪くないからこれ以上自分を責めるな」

 玲が会場から飛び出したのはきっと防衛反応だろう。梓はそれも理解した上で玲の髪を優しく撫でる。しばらく撫でていると玲はうとうとと瞼を落とし間もなく完全に閉じてしまった。
 雨の中歩いて、泣いて、感情の振れ幅も大きく非常に疲れたのだろう。
 梓は玲の頬に付いた涙の跡を指でそっと撫でながら、玲を抱え直すと何かから守るように胸の方に抱き寄せて目を閉じた。

 それから数日後、玲はロバートのことを梓に伝えそびれていた。彼が日本に店を出すかもしれないことはあくまで打診であり決定じゃない。出す場所も何もまだ決まっていないのにそれを報告するのも変な話だった。
 それでも玲は伝えないといけないと思った。だが梓の顔を見ては何度も切り出すことに失敗する。それを報告して「玲はどうしたい?」と問われたら何も答えられない。そして案の定、玲は梓に問われることになった。

 「それで玲はどうするつもり?」

 その夜、意を決して玲は梓に打ち明けた。ロバートが日本で店を出すかもしれないこと。そして近々日本に来るかもしれないこと。もちろんまだ打診の状況なので出店云々はどうなるかは分からない。スポンサーと方向性が合わなければロバートが自分のプライドを捻じ曲げても話を受けるとは思えなかった。

 「どうする、つもり?」
 「いずれにせよ、元々十二月末までのつもりだっただろう?」

 カレンダーをみれば間も無く十一月を迎える。予定では日本の生活は残り二ヶ月で終わりだ。初めこそパースに戻るつもりだった玲も日本で暮らすうちにやはり日本がいいと思うようになっていた。食事も衛生面も人も。何より、家族が居て友人がいる。嫌な思い出もあるけれど、今思えばそれはわずか半年程度のことで、それまでは普通の社会人だった。悪いことばかりに目がいきがちだったけどあの当時やってきたことは無駄じゃないと思える。そう思わせてくれたのは紛れもなく梓であり、だけど今ひとつ玲は梓を頼り切っていいものかと足踏みしていた。

 「…正直よく分からない」

 今回の件でよく分かった。自分がいることでもしかするとまた同じことが起こるかもしれない。玲のせいで同僚は解雇されてしまった。それを考えるといつどこで誰に会って恨言を言われるか分からなかった。

 「少し考える時間が欲しい」

 梓が大事にしているものを大切にしたかった。会社に迷惑をかけたくないし、梓本人にも煩わせたくない。玲がそばにいることで迷惑を被る可能性を考えるとそもそも傍にいない方がいいのではないだろうか、と純粋に思う。

 俯いて手のひらをぎゅっと握る玲の手に手を伸ばそうとして梓はためらった。
 玲の気持ちが今不安定になっているのは十分理解している。だからこそ傍にいたいのに玲は距離を取ろうとしているように見えた。

 考える時間とはいつまでのことを指すのだろうか。このまま帰国ギリギリまで考えてとりあえず一旦帰るとか言い出さないだろうかと梓は心配する。だけどそれと同時に、外国に居れば玲はもうあんなにも苦しい思いをしなくていいのではないかとも思う。

 映像で見た玲の表情は青白く目も虚ろでどこかに消えていきそうなほど危うい様子だった。   澤木が血相を変えて梓を探しに来た理由もよく分かった。

 本当は無理矢理丸め込んででも隣に置いておくつもりだった。今ここで玲を無理矢理うなづかせることもできるだろう。それでもそれが玲の幸せになることなのか、と考えると答え切れない。少し前の自分なら「守る」と簡単に言ってのけただろう。
 だけど大切だから、何よりも彼女を守りたいからこそ自分の隣に立つことで傷つけてしまうのならば遠く離れた場所でも安心して暮らせる方がいいのではないかと考えてしまった。

 「…分かった」

 玲は梓の答えが予想以上にあっさりしていたことに拍子抜けした。
 そして梓はソファーから腰を上げると「帰る」準備をするという。

 「今日で終わりにしよう、玲。俺たちは一度良く考えた方がいいかもしれない」

 そして予想外の答えに今度は玲が戸惑った。よく考えるのはそうだ。
 だけど終わりにする、というのは関係性を終わらせるということなのか。
 どのみち答えは出さないといけないのは確かだ。玲がロバートを選べば必然的に梓との関係はなくなる。 
 玲はどこか不安に思いながらも梓の言葉に同意した。

 「玲は自分のことだけ考えればいい。誰といたいか、どうしたいか、どうなりたいか、考えること。その先にもし俺がいたら嬉しいけど、無理に選ばなくていい。自分の幸せだけを考えてほしい」

 梓が玲の部屋に住み着いた当初はまだ真夏で蝉の声がよく聞こえた。「蝉がうるさい」と梓に言われて「それなら帰ればいいのに」と文句を漏らしたこともある。
 それなのに今は蝉どころか虫の声が聞こえない。陽が落ちるのも早くなり、薄手のコートが必要になるぐらいには季節が移り変わってしまった。

 「楽しかった。ありがとう」

 玄関まで見送れば梓は穏やかな顔で玲に感謝を告げた。玲は泣きそうになりながら首を横に振る。感謝するのはこちらなのに言葉がなかなか出てこない。

 「泣くな。自分で決めたんだろう?」
 「そ、うだけど」
 「泣かれると連れて帰りたくなる。なんのために帰るのか分からない」

 玲は必死に涙を堪えながら梓を見上げた。梓はそんな玲に苦笑しながらいつものように玲を抱き締める。いつも安心感をくれた。心地よい時間をくれた。
 玲は抱きしめられた腕の中から縋り付くように梓の背中に腕を回す。小さなこどもがしがみつくようにシャツに皺を作った。
 もう二度と会えないわけじゃない。
 それなのに、涙が止まらなかった。

 「玲、ひとつ約束して」

 お互いの身体を離ししてしっかりと目を合わせた。梓は涙でいっぱいになった目を見て誤魔化すように笑う。

 「嘘をつかないで自分のしあわせを見つけること」

 玲は小さく頷いた。きっと梓にはお見通しだったのだろう。
 ロバートと付き合い始めた打算も彼との生活も全てハリボテだということを。
 それでも短所のない人間はいないからと玲はうまく自分を誤魔化して彼と付き合ってきた。

 「もし俺を選んでくれるなら」
 「ひとつじゃない」
 「最後まで聞けよ」

 思わず文句を言えば梓がすかさず突っ込んだ。
 つい昨日まではベッドの中でこんな会話ばかりしていたのにもう懐かしくてたまらなかった。

 「今度こそ俺だけを見て欲しい」
 
 梓は玲の返事を待つことなく唇にキスをした。
 一度だけじゃなかった。何度も繰り返しキスをした。

 これでさよならなわけじゃない。会おうと思えばいつでも会える。
 しかし、お互いがなんとなくしばらく会わない方がいいと感じ取りしばしの別れを惜しむようにキスに没頭した。

 「じゃあ」

 梓は最後に愛おしげに軽くキスをすると振り返ることなく玲の自宅を出て行った。
 来た時と同じようにスーツケースひとつだけ持って、また急に『飯なに?』と言いながら帰ってきそうな気がした。

 それでも梓はその日以降ぱたりと姿を見せなくなった。連絡も途切れた。
 毎日のようにやりとりしていたメッセージはどんどん思い出に変わりゆく。
 玲は分かっていることなのに、毎日が寂しくて仕方がなかった。

 
 


 
 
 
 
 

 
 

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