嘘つきは恋人のはじまり。
嘘と本音の境界線
「それは男が悪い」
話を聞き終えた九条は呆れながら断言した。だが玲は「自分が言い出せないのが悪い」と否定する。
「いや、分かるだろ。感じてるか感じてないかって」
玲はあまり経験がない。おまけに男性でもないのでその辺のことはよく分からない。そういうものなのか、と九条に聞けば「そういうものだ」と言われた。
「玲の性格を考えれば言い出せないことぐらい分かるだろう。それを分からないというのは玲のことを本質的に知ろうとしない、あるいは分かってて解決しようとしない怠け者だ。玲が大人しく好きなようにさせてくれるならいいって思ってる証拠。第一、普段の生活で求められないことに対して何も思わないのかそいつは」
若干苛立たちげに持論を展開する九条を玲はポカンと見上げていた。恋人のことをよく知らないはずなのに、どうしてか彼の性格上思い当たる節を見つけて「当たってる」と感心しまった。
主観だが、ロバートは悪い人ではない。むしろとてもいい人だ。優しいし、とても大切にしてくれる。
ただ、興味のあることとないことの差は大きく、面倒くさいことは嫌いだ。都合が悪くなると誤魔化して逃げようとするところもある。
ただ、玲も日本から逃げてきた身だ。それにあの日以降、人と向き合うことが怖くなった。適当にやり過ごして表面上だけなんとなく関係を作っていればいいと思っている。だから多分自分たちは似たもの同士なんだろう。
完璧な人間なんていないのだ。必ず綻びがあってそれを許せられる関係を作っていければいいと思っていた。
「向き合おうとして逃げられて関係構築すらできない。誰にも言えなくて抱え込んで泣くことになるのが目に見えてる」
だけどそれに異議を唱えたのは九条だった。九条の推測を聞いて玲は言葉に詰まる。
「例えば一時的な付き合いや一定期間だけの関係なら別にそれで構わないと思う。けれど、将来を見据えた関係ならやめたほうがいい。人間の根っこの部分はそう簡単には変わらない」
玲は何も反論できなかった。九条の言うことは一理あると思ってしまった。冷静になればロバートとの将来はあまりにも障害物が多い。果たして彼は何かあった時に玲の味方になってくれるだろうか。協力的になってくれるだろうか。それも含めて話し合いをしないといけない。この時点で不可能な気がした。
「それで」
玲は九条のアドバイスを聞いて色々と考えていた。だが考えていたのは九条も同じだった。ただし、今回の原因についての解決策だ。
「この先ずっと苦手意識を持ったままでいいと?できないままでいいと思っているのか?」
なにを、と明言を避けた九条だが玲も馬鹿ではない。九条の言いたいことは理解できた。
じっとりと自分を見つめる瞳を玲は見つめ返す。どこか隠しきれない獰猛さを孕んだ目に玲は慄いた。
「どうなんだ?」
「っ、それは」
「それは?」
なんと返事をすればいいのか言葉に迷った。いや、何を言ってもゴールは同じになってしまうんじゃないかと嫌な予感がして仕方がない。
「…今すぐどうにかしたいことではないので」
玲は逃げ道を探した。とりあえずこの腕から逃げないといけない。処女ではないが自分の貞操が危ない。なぜかさっきからずっと警鐘が鳴り響いている。
「…濡れないわけではないんだろう?」
「…はい」
真剣に訊ねられて玲は恥ずかしくなった。恥ずかしくて視線が俯いてしまう。世の中の恋人たちは普通にこういうセクシャルな会話をするものなのだろうか。玲は今度未玖に聞いてみようと思った。
「しよう」
九条はそう言いながら既にTシャツを脱ぎ始めてしまった。玲は今自分が何を言われたのか理解できず、ただ驚いたまま九条を見上げる。
ここで逃げればいいのに、と冷静になる自分と、九条から目が離せない自分がいる。だがまだ残っている常識が玲を奮い立たせた。
「…い、や、です」
恥ずかしいぐらい声が震えた。か細くて消え入りそうな声が静かな寝室に響く。九条はそんな玲を見下ろしながらどこか馬鹿にするように言い捨てた。
「解決したいんだろう?それとも、一生逃げるのか?」
「解決は、…したい、です、けど」
玲はこの先を躊躇った。ここで九条に抱かれるのは違う気がする。いや、違う。
「けど、なに?」
玲はこの場からなんとか逃げ切る方法を探した。解決はしたい。でも今じゃない。
そんな理性が働く一方で「抱かれてみたい」と思ってしまった。
そんな自分がひどくはしたなくて、恋人を裏切るようで最悪だと恥じた。
「全部俺のせいにすればいい」
玲が答えを出す前に九条が痺れを切らした。有無を言わせないように唇が塞がれる。
何度も重なり離れてを繰り返す。九条の舌が玲の唇をペロリと舐めた。
「開けて」
言われた通り玲は少しだけ唇を開けた。九条は玲を窺いながら食んだり舐めたりしながら様子を見る。舌先を少しだけ差し出せば玲はびっくりして舌を引っ込めた。
それが可愛くて思わず笑えば、玲は恥ずかしそうに目を逸らした。
「玲」
こっち見ろ、と言葉でなく視線で九条は言う。
玲は恥ずかしくて時折目を逸らしながらもゆっくりと口蓋を舐め、舌をすり合わせていく九条の瞳を見つめ続ける。ゆったりとした舌の動きが気持ちいい。首筋や頭も撫でられて玲はすっかりとキスだけで溶けてしまいそうだった。
「抱くよ」
玲はぼんやりした思考のまま小さく頷いた。
玲の初体験は高校一年生の時、当時付き合っていた二つ上の先輩だった。卒業を目前に控えた彼の自宅でテスト勉強をしていた。初めは真面目にしていたけれど、なんとなくそんな雰囲気になって流された。お互い初めて同志で、玲は気持ちいいとか何も分からなかった。
ただ、身体を繋げることが目的で怖くてずっと目を閉じていた。破瓜の痛みよりも腹部に残る異物感の方が印象的だった。
その彼とはその後半年ほどで別れた。大学時代はいつの間にかいつも一緒にいる同級生の男を好きになり、気づいた時には彼は他の女性を選んでいた。社会人になり仕事に邁進し、人間関係で悩み恋愛どころじゃなくなった。退職し、逃げるように訪れた土地でロバートに告白された。旅行中、一人旅の玲を気にして何かと世話を焼いてくれた人だった。悪い人ではない。優しくて食いしん坊で、辿々しい英語で話す玲の言葉を一生懸命聴いて、話を理解してくれた。玲は嬉しかった。誰にも言えなかったことを聞いてくれたことが。心から心配し、しっかりと耳を傾けてくれる人がいたことがとても嬉しかった。
♡♡♡♡♡
(九条さんの彼女になる人はきっととても大切にされるんだろうな)
玲はまだ行為の名残の残る腹部を撫でながらぼんやりとそんなことを考えた。行為中、彼はひたすら優しくて甘かった。ずっと丁寧に玲に寄り添い、労わり、玲が感じれば「可愛い」と喜んだ。
全身隈なく愛撫され、とろとろに解かれた。内臓が口から出てきそうなほど緊張していた身体はいつの間にか力を抜き、すべて九条に委ねてしまっていた。
「…起きた?」
布団に顔を埋めていると扉が開き九条が入ってきた。手にはペットボトルの水を持っている。それは昨日玲が買ってきたものだ。
そういえば、風邪ひいていたんだっけ。
玲は九条の体調が今更ながら大丈夫なのかと心配した。
「玲を抱いたら治った」
九条は水を飲みながら笑った。「抱いたら」という言葉につい先程までの行為を思いだして顔が急激に熱くなる。
「水飲む?」
「…いただきます」
「敬語」
「…それは」
さっきベッドの中で散々「梓」と呼ばされた。「ですます禁止」と言われ、言えば肌に赤い花が散らされた。すっかり白くなった肌なのに、今は見下ろしただけでいくつも赤い痕がついている。
「いいけどまたつける」
にこにこと笑う九条に玲はもう抵抗する気力もなかった。
初めて達した身体はだるくてだるくて仕方がない。おまけに一回だけでもなく何度も星が散った。セックスって体力いるんだな、と変なところで感心した。
「玲」
「わか、った」
「じゃあ名前呼んでみて」
「えぇ」
「呼んでくれないと水あげない」
意地悪い顔が笑う。玲はもう若干やけになりながら呼んだ。
「梓」
「もう一回」
「梓、」
九条は約束通り水をくれた。しかし、突然の口移し。水はこぼれた。
「こほっ、ちょっ、こほっ」
当然のことながら玲は咽せた。九条は楽しそうに笑う。
「もっとほしい?」
「じ、自分で飲みます」
「また敬語」
ちゅう、と鎖骨の下を吸われる。皮膚が薄い場所らしくちょっと吸っただけでしっかりと赤い痕がついた。「また増えた」と項垂れているとじっと見つめられていることに気づいた。
玲は居心地が悪くて視線を逸らした。
「正直に教えて。苦痛だった?」
九条は玲の頬や唇を親指の腹で撫でながら優しい目で訊ねた。それは本当に大丈夫だったか、と労わる気持ちを感じた。
「…分からない。けど」
「けど?」
「時間が過ぎてほしい、と思う余裕はなかった」
本当にぐちゃぐちゃだった。自分ではない甘い声が勝手に漏れるし、どこを触られても勝手に身体が反応してしまった。キスされているうちにいつの間にか挿入されて、細道に大きなトラックが通っているような圧迫感に息ができなかった。訳も分からないうちに揺さぶられて、何度も繰り返されるエクスタシーの波。気がつけば終わっていたのだ。
その間ずっと九条は手を握ったり頬を撫でたりと玲を気遣ってくれていた。
「本当に気持ちよかったらそんなものだ」
「………」
「まあ相性もあるし仕方ない部分もあるけど」
九条は屈んでいた背中を伸ばすと布団の中に潜り込んできた。
玲を当然のように抱き寄せて腕の中に閉じ込める。
ロバートとの行為の後はこんな風にくっついたりしただろうか。
緊張して演じるのに疲れて寝てしまうこともあったけど、九条のような気遣いはなかった、ように思う。多分だけど。
「今、アイツのこと考えてた?」
玲は正直に頷いた。そしてそれが九条の気分を害していることも理解しているので素直に謝った。
「ごめんなさい。ただ、その、こんな風に丁寧に扱われたことあったかな、と」
九条の肩を持つわけではない。恋人を貶すつもりはない。
ただ玲は楽しかった思い出たちが突然色褪せて見えてきたことに悲しくなった。
「…言っただろう?愛する覚悟をしろって」
九条は僅かに憐れむような視線を向けながらも言葉はとても甘かった。
「こんなもんじゃないから、俺は」
「…それは、その、ちょっと」
怖いです、と引き腰になった玲に九条が笑う。だけど九条は抱きしめていた玲を仰向けに転がすと「怖くないから」と組み敷いたのだった。
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