嘘つきは恋人のはじまり。

花澤凛咲

突然の提案

 仕事の話で盛り上がる中、「そういえば」と九条が話題を変えた。
 
「どうして突然海外に?」

 玲は本当に突然だな、と思いつつもあらかじめ準備していた答えを返した。この手の質問はよく訊かれるのだ。すでにテンプレ化している。
 
 「次の仕事を始めるまでに一度旅してみたかったんです」

  誰にでもある回答だ。そう言えば大抵の人は「退職後じゃないと海外はいけないよね」と理解をしてくれる。

 だけど九条は違った。
 どこか探るような目で玲の言葉を聞いていた。玲は非常に怖くなった。何も知らないはずなのにまるで全て知っているような目だ。玲は警戒した。

 「家族思いのきみが本当に国際結婚、ましてやあちらに住むことができるのか?」

 ドキリとした。それと同時に小さな罪悪感も沸く。
 
 日本には一時帰国のはずだった。でも家族の顔を見ると、久しぶりに友人たちに会うと、やはり心が揺れる。
 慣れ親しんだ味も、どこか懐かしい空気もすべてが心を解してくれているようだった。
 十分な言葉がなくとも意思疎通できるだけの環境がこれほど有難いと思ったことはなかった。
 誰にも会いたくなくて、話もしたくなかったあの当時は言葉が通じないことにあれほど安堵したのに。
 
 仕事面ではただのアルバイトではない。言葉が通じなくて客を困らせることもない。
 責任のある仕事だ。でもその分やりがいもある。自分を必要としてくれる人がいる。そしてそのことが玲の承認欲求を満たしていた。
 悔しいけれどそれを満たす一人が今玲に質問を投げかけている男だ。人にプロポーズしたりふざけているとしか思えないけれど、九条の誘いを受けてよかったと思ってるのは間違いない。
 
 玲は突然の核心を突く指摘に言葉を失くした。先ほどまで生き生きと仕事について語っていた彼女はなかった。酷く動揺しとても不安気で、それでも自分を守ろうと必死に何かを目に宿していた。そんな玲を見て九条はもう一歩踏み込んだ。

「サイオンジミオがきみだという裏付けを取りたくて申し訳ないけど調べさせてもらった。双子の弟と妹がいて、地元では仲のいい家族と評判だった。彼らは、きみが外国に居ることを反対している。ただ姉思いなだけかもしれないが、家族思いのきみがそこを振り切ってでも、あちらに戻りたい程にあの男に惚れているのか」
 
 玲は膝の上に置いた手を思わず丸めて握りしめた。その手を諌めるように九条の手が包みこむ。

 「あくまで調査であって、人の心は、本心は本人にしかわからない。もし本当は家族のことを疎ましく思っているなら」
「いえ、家族のことは、別に」
 「うん」
 「……嫌ってません」
 「…そう」
 
 むしろ、数年ぶりに会った両親は記憶の中の彼らよりも歳を重ねていて後悔の方が大きかった。後からこっそり妹と弟伝いによほど自分のことで心配かけたことを知って胸が痛んだ。
 
 こんなにも細かっただろうか。
 こんなにも皺が多かっただろうか。

 昔追いかけいていた父の背中が酷く小さくて、とても寂しそうだった。弟は玲をチクリと責めるように父が痩せたのは玲のせいだ、と言った。
 
 「こういうことは言いたくないけど、国際結婚は非常にリスクが伴う。文化の違い、言語の違いはその人の性格に合う合わないがあるし、何より家族の死に目に会えない覚悟が必要になる。それはわかってる?」

 考えないようにしていた現実を突きつけられて玲は唇を噛み締めた。国際結婚は年々増加しているが、離婚率も上昇している。だが、離婚するかどうかは誰と結婚してもつきまとう問題だ。ロバートに限った話ではない。

 ただ、距離の問題というのは非常に大きい。日本とオーストラリアは約8000kmも離れている。赤道を超えているせいで季節も反対だ。交通費を考えても気軽に来れる場所じゃない。年に一度会えれば良いところが、数年に一度になるのは目に見えていた。
 そんな時、たとえば離婚だとか慰謝料だとかの話になった時に、味方のいない国で玲はどうすればいいのだろう。
 誰を頼りに誰を信じればいいのだろう。
 先のことなんて分からない。物事に百パーセントはない。
 
 「玲」

 闇に堕ちていきそうな思考を止められて玲は顔を上げる。玲の手を包んでいた九条の手はいつの間にか指と指が絡まっていて、まるで恋人同士のようにしっかりと握りしめられていた。

「選択肢はふたつ。ひとつは家族を捨てて惚れた男をとる。ふたつ目は俺を選ぶ」
 
 真っ直ぐに自分を見つめる眼差しに玲の瞳が大きく揺れた。「冗談」と言えるほど気やすい空気じゃない。「なーんて」とおどけてくれれば玲の心は掬われたかもしれない。
 だけど九条は玲に逃げ場を与えるつもりはなかった。

 「す、捨てるって。人聞きが悪い言い方しないでください。国際結婚でも今は携帯があれば毎日家族には会えます!」
「たしかにね」
「それに、たとえ彼と別れたとしても、選択肢は二つじゃなくて三つです。男性は他にも」
「それはさせない」
 
 氷のように冷たい声に玲はギョッとした。握りしめられた手を恐る恐る解こうと足掻く。だが、ガッチリと握りしめられていたため、ビクともしなかった。

「わ、わたしの何がそんなに良いんですか?」
「聞きたい?」

 パッと表情を変えた九条の目は先ほどの何かを射殺すような恐ろしい眼差しはない。
 今は嬉しそうに目尻を下げている。ある意味玲には恐ろしく見えた。

「あ、やっぱり良いです」

その表情の変化だけで玲は聞いてはいけないと咄嗟に悟る。

「残念。聞いてほしいぐらいなのに」
「結構です」
「遠慮するな」
「遠慮します」
「惚れたくないから?」

 またこの男は核心をつく。玲はなんとなく、気づきたくなかったことを言われて手を無理矢理離そうとした。

「俺は約束通り、薔薇の花束を持ってプロポーズまでした。それは玲が望んだから」

 また痛いところを突かれて咄嗟に手の力が緩む。それと同時に梓の手が玲の手をひっぱり、体制が崩れて梓の方に倒れ込んだ。横並びのソファー席。少し深めに沈むソファーはバランスが取りにくい。九条にしっかり抱き止められた玲は倒れ込んだ身体を立て直そうと九条の身体を突き放そうとした。

 「俺なら玲の願いを聞いてやれる。過去の傷も全て受け入れる」

 だが、突き放せなかった。ひとつは抱きしめられたということもある。だけど九条の言葉は暗に玲の過去を知っているとも受け取れた。
 確かに調べた、と言っていた。九条の知る情報が正しいものか間違っているものかも分からない。だから玲はとても怖かった。人間関係が破綻した理由、苛められた理由は全て玲にとって身に覚えのない事ばかりだったから。

「玲は何も悪くない。堂々としていればいい」

 だけど九条の言葉は玲の予想に反して優しくて力強かった。

「逃げるな、とは言わない。けど逃げる先は俺であってほしい。外に逃げられると何もできない。叩けないのは何よりも悔しい」
「もう、いいんです。それは」
「こちらから手を出すつもりはないよ。だけど何か合った時に俺に相談して。どんな小さなことでもいい。俺は玲を裏切らない」

 宥めるような静かな声だった。だけどとても強くて優しくて頑なに閉ざしていた心にどこか風が吹き抜けた気がした。玲は倒れ込んだ身体をようやく立て直す。
 恐る恐る九条の目を見れば、彼は優しく目を細めた。

「付き合おう」
「…は?」
「今から恋人同士で」

 理解不能だった。どうしてこの話からここに繋がったのか始めから順を追って説明してほしかった。

「俺は約束を守った。そして玲は俺を嫌いにはなれない」

 確かに、と玲は思わず呟いてしまった。

「だったら好きになればいい。そしたら万事が解決」
「…解決、します?」
「うん?堂々と玲の傍に居られるし何かあっても守れる」
「わたしのメリットは?」
「いつでも家族に会えるだろ?キャリアも諦めなくていい。シュクレにいたけりゃそれでいいけど、もっと幅は広がる。小さな飲食店の店員をしたいならシュクレでもどこでもできる場所はある。こっちでも。アイツじゃなきゃダメな理由がなければあちらに居る理由はないだろう」

 鼻先が触れるほどの距離で正論を言われた。
 確かにロバートと付き合っていなければ日本に居ただろう。だけど、だからと言って九条と付き合う理由はない。
 
「それは日本に住む男性なら誰でも」
「玲。きみの過去を知ってそれをきちんと信じてくれる男性だという保証はあるか?もし仮に当時の話を他所から吹聞いて、それでもきみはちゃんと諦めずに信じてもらえるように向き合えるか?」
 
 玲は肯定できなかった。あの時のことに関しては全て諦めている。というか話をしたくないし「信じてほしい」という気力は無くなるだろう。言ってもどうせ、という意識はなかなか消えるものではなかった。

「…九条さんは」
「大体のことは知ってる。調べたこともあるけど、山崎さんからも聞いた。俺はその話を疑うことはない」
「…っ」
「罪悪感なんて要らない。玲は利用すればいい。自分を好きだという男に甘やかされて転がさればいい」
「ひ、人聞きが悪い…!」
「じゃあ、とっととあちらと別れてくれ。俺は諦めるつもりはないから」
 
玲は耳元で囁くように告げられた言葉に身体中の血液が勢いよく流れていくのを感じた。心臓がとても煩くて恥ずかしい。何がタチが悪いって冗談でも嘘でもない。全く否定する余地のない言葉が玲を責めるように包み込んだ。

「玲は俺に愛される覚悟だけしておけ」
 
こちり、とおでこがぶつかると九条はしっかりと玲の目を見て告げる。逸らせないほどの力強い視線に玲はただ圧倒されるばかりだ。
 

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