【完結】偽りの花婿は花嫁に真の愛を誓う

霧内杳

最終章 私は一生、あなたのもの3

「奥様、大丈夫ですか」

帰ってきた私の顔を見て、橋本さんが心配してくれた。

「あっ、昼間っからワインなんか飲んで、少し酔ったみたいで。
ちょっと横になってきますね」

適当に笑って、寝室に引っ込む。
ベッドにごろりと寝転び、受け取ってしまった小切手を両手で上げて見た。

「……これがあれば、どこへでも行ける」

契約反故の七百万の返済も、違約金も払える。
きっと、結婚してすぐの私なら、飛びついていただろう。

――でも、いまは。

「……はぁーっ」

ため息をついて起き上がり、ウォークインクローゼットへ行く。
和箪笥を開け、着物の間にそれを挟み込んだ。

「とりあえず、仲直りしないことには話すらできない……」

はぁーっとまた、ため息が落ちていく。
理由さえ聞かせてくれれば、仕事も諦められるかもしれない。
でも、御津川氏はそれすら、教えてくれないから。

やる気が出ずにベッドに寝転び、ぼーっと携帯でまんがを読む。
お金を気にせずに課金して、続きを読み続けた。
前ならこんなこと、できなかったけど。

「……李亜」

御津川氏の声が聞こえ、瞼を開ける。
どうも、いつのまにか眠っていたようだ。

「様子がおかしい、と橋本さんが……」

起き上がった私の隣に彼が腰を下ろしてくる。
窓の外はまだ明るく、いつも彼が帰ってくる時間よりもかなり早い。

「昼間から飲んで、ちょっと酔っ払ったみたいで。
もう、平気です」

笑って答えながらも、彼に甘えていいのかわからなかった。
今朝はまだ、朝食を残すほど怒っていた。

「なら、いい」

私に触れることなく、彼が立ち上がる。
やはりまだ怒っているのだと、気持ちがずん、と重くなる。

「話がある」

彼に促され、リビングへ移動した。
話ってなんなんだろう。
もしかしてもう、純さんは彼に一緒にフランスへ行くように命じたんだろうか。

「これを全部覚えろ」

「……はい?」

どさどさと、贈答用の菓子折りが入る程度の大きさの紙袋が三つほど、目の前に積み重ねられる。
中にはびっしりと、書類が詰まっていた。
予想外の展開に、首がつい傾く。

「全部……ですか?」

「そうだ。
できないのか?」

はっ、と彼か軽く、吐き捨てる。
それで俄然、――やる気に、火がついた。

「できないのかって?
誰に向かって言ってるんですか?
これくらい、軽いに決まってるじゃないですか!」

売り言葉に買い言葉、ぎっ、と思いっきり、レンズ越しに彼の瞳を睨みつける。

「なら、やれ。
期限は一週間だ」

「一週間!?」

さすがに、たじろいだ。
が、これでできないなんて言うのは私のプライドが許さない。

「わかりましたよ、やればいいんでしょ、やれば!」

紙袋を掴み、立ち上がる。

「終わるまでは食事の支度をしなくていい。
ケータリングで済ませるから」

リビングを出ていこうとしていた私の背に、彼の声が追ってきた。

「わかりました!
助かります!」

噛みつくように言って、私はさっさと自分の部屋に引っ込んだ。

「これ全部、覚えろってね……」

出してみた書類はMITSUGAWAの細かい業務内容から財務関係まである。

「なにがしたいんですかね、あの人は……」

文句を言いながらも、書類を捲っていく。
なんか、こういうのは懐かしい。
FoSで働いていた頃、こういうことはちょいちょいあった。
資料を山積みにされて、三日でこれを読んで有効な営業案レポートを作れ、とか。
あの鬼畜な夏原課長に鍛えられた私を、舐めないでもらいたい。

「やってやろうじゃないの!」

御津川氏の挑戦にやる気になった私は、……純さんのことを忘れていた。



「……はっ!
寝てた……」

顔を洗って目を覚まそうと、部屋を出る。
彼と約束した期日はもう明日、時間は無駄にしたくない。

「お腹も空いたし、なんか食べよう……」

顔を洗ったあとは、キッチンへと向かった。
この一週間、まともに御津川氏と顔をあわせていない。
帰ってきても声をかけてくれないし、食事のときも呼んでくれない。
そんなに私の顔を見たくないのかと落ち込みもしたが、なら、なにがなんでもこれはやり遂げて彼を見返してやろうとさらに没頭した。

キッチンにはラップをかけて、おにぎりと豚汁が置いてあった。
レンジで豚汁を温め、おにぎりにかぶりつく。

「大葉の焼きおにぎり、美味しい」

あれからまともに食事はしていないが、キッチンへ行けばいつも、簡単に食べられるものが準備してあった。
これは、御津川氏の指示なんだろうか。

「ごちそうさまでした、と」

食器を下げるだけして、また自分の部屋に戻る。
でも、御津川氏の書斎から灯りが漏れているのに気づいた。

「こんな時間に……?」

時刻はすでに、三時を過ぎている。
寝落ちしているだけならいいが、もし倒れていたら? などと心配になり、ドアに手をかけたら、中から声が聞こえてきた。

……よかった、生きてる。

なんて変な安心の仕方をし、離れようとしたものの。

「純」

聞こえてきた単語で、足が止まる。
いけないことだと思いながらも、そっと聞き耳を立てた。

「……愛してる……フランス……李亜……代わり……」

抑えた声は聞き取りづらく、かろうじてそれだけがわかった。
音を立てないようにその場を離れ、今度こそ自分の部屋に戻る。

「御津川さんは純さんと、フランスに行く気なんだ……」

きっとあれは、「純を愛してる。一緒に、フランスへ行く」だ。
そのあとはまさか、「李亜を代わりにして」?
そんな莫迦な、とは思うけれど、この大量の資料はそれを完全に否定させない。

「なに、やってるんだろ、私……」

ぐるぐると暗い渦の中へ、足下から引きずり込まれていく。
私はただ単に、彼が自由になるための身代わりだった。
純さんはただの友達なんて嘘。
御津川氏も純さんが好きだから、彼女の手を振り払ったりしなかった。
ありえない、わかっているのに暗闇に捕らわれた私の心は、それを許さない。

「莫迦、みたい……」

それでもパラ、パラ、と書類を捲り続ける。
もう、暗記を続けるのはただの意地になっていた。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品