夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

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 火曜は大事をとって棚原が仕事を休ませて、水曜にようやく出勤できた。

 棚原としては、このまま退職させたい気持ちだった。あんな事が起きる前に、自分以外の男と話させたくないし、菜胡に男が近づくのも嫌だ。だが菜胡は働きたがった。患者さんとのやり取りが好きで、外来の仕事が好きで誇りを持っていた。

 それでも寮へ帰るのだけは怖がった。ちょうど病院は寮の閉鎖を決めたため、早急に部屋を探さなければならず、見つかるまでは自分の部屋に来るよう勧めた。これには菜胡も頷いて、さっそく荷物の運び出しなどを仕事の合間に行った。

 昼の休憩を利用して、持ち出す荷物を棚原の車に積み込んだ。着替えや小物類だけで、ベッドは寮に造り付けだったのと、タンスは元から置いてあったものだから、菜胡が入寮に際して持ち込んだ家具は無かった。だから昼休憩を使っての片付けは一週間もあれば終わった。

 棚原には当直がある。不定期で、平日に順番が回ってくる時もあったが、菜胡を一時的に引き取っている間は、当直は土曜のみにしてくれた。
 菜胡としては棚原が当直の時は鉄道を使って行き来するから、と主張したものの、自分が何がなんでも送迎すると言って聞かなかったため、樫井が調整してくれた。土曜、菜胡を家まで届けてまた病院へ戻ってくる。片道20分程度の行き来だが、日曜の昼間に帰宅すれば問題無いだろうとの配慮だった。

 こうして棚原の仕事が終わるのを食堂で待ってから共に帰る暮らしになって数日。
「前も言ったが、ここに一緒に住まないか? 部屋も空いてるから菜胡の部屋にしたらいい」
「そう言って下さるのは嬉しいですけど……あの、新しい部屋の候補のリストを持ってきたんです」
「ん、見せて」
 こくりと頷く。
「私はどこか抜けてるから、紫苑さんが見て、安心できる所がいいかなって」
 かばんから紙を取り出して、棚原に渡す。

 菜胡のリストアップした物件は、いずれもオートロックの物件だった。鍵付きポスト・宅配ボックスがあり、風呂トイレは別、キッチンは二口コンロを置ける広さがある。寝室の広さはまちまちだったが、その中でも一番広めの物件に注目した。
「ここなんか良さげ。書店の近くかな? セミダブルが置けるかは行ってみないとわからないけど。あと周辺の治安がどうかも見たいなあ」
「セミダブルってベッドですよね、シングルで良くないですか?」
「二人で使うには狭いじゃん」
 シレッと答えた。あまりにも自然に、ごく当たり前な顔で言うもんだから、逆に菜胡の方が照れた。
「それに寝返りを打って菜胡が落ちたら困る」
 寝相の悪さは自覚していなかった。だが思えば、目を覚ますといつも棚原の腕の中にいた。壁側にいて守られていた。
「本当は一緒に住みたい。でも俺が当直の時の行動が狭まるという菜胡の懸念は尤もだから、俺も菜胡の部屋に住む」
「え、ちょ?」
「住むって言ったら語弊があるか。平日は菜胡の部屋に帰る。金曜からは俺の部屋に帰ろう? だめ?」
 ふわっと抱きしめられる。
「だっだめじゃ、ないですけど――いいんですか?」
「金曜は俺が休みだから、掃除とか買い出しとか、あと手紙なんかも来てるかもしれないし帰る。それで夕方迎えにくる。もう菜胡との事は院内で知らない人は居ないし、誰にも気兼ねする事なく、菜胡を抱きしめちゃう!」
 嬉しそうにぎゅうぎゅう抱きしめてくる。その流れで、次の休みに内覧に行く事を決めた。

 *  *  *

 二週間ほどした日曜、菜胡は棚原と共に寮を訪れた。部屋が決まり、最終的に必要なものの運び出しを行うためだ。クローゼットや棚は造り付けなため大きな家具を買う必要もない。家電だけはもともと中古を使っていたから買い換えなければならず、それらの手配を済ませての、小物の運び出しだった。
 三階に着くと、菜胡は棚原の腕を掴む手に力が入った。
「す、すみません、もう居ないって分かってるのに」
 棚原は眉を顰めた。菜胡の心をここまで傷つけた奴らを到底赦す事はできない。だがもう彼らは社会的制裁を受けた。だからもう二度と会う事はない。部屋の扉の前で、菜胡を抱きしめた。背をなで、身体の緊張を解してやってから口付けた。
「菜胡、愛してる」

 ――負の記憶は、俺が上書きしてやる。ここで愛し合った思い出で菜胡を染め替える。
 
「紫苑さ、んっ、こんな……誰かに、聞かれ……んっ」
 誰も居ない寮の、そのまた誰も来ない廊下の突き当たり。そこは二人きりの空間で、棚原の熱が菜胡の口内を蹂躙した。唇の端から漏れ出る熱っぽい吐息は部屋でのそれよりも背徳感に塗れていて、気分は昂まり互いを貪り続けた。

 明るいうちに新居へ戻るはずが、キスだけでは我慢できなくなり、引越すつもりで荷物の散らばる室内で性急に求め合った。気がつくと空は茜色に染まり始めていて、急いで小物をまとめる。
「もう、紫苑さんのばか! 予定では新居の片付けをしてご飯食べ行こうって」
 非難してくるが、それはささやかな抵抗に見えて、ただただ菜胡が可愛い。怒っているはずなのにちっとも怖くない。
「……菜胡が可愛いんだもん。でも良かったでしょ、俺は良かった……」
「ばっばか!……良かった、けど……知らないっ」
 顔を赤くして、ポカポカと棚原を叩く。

 *  *  *
 
 新居は、待ち合わせに使っている書店の近くに決めた。歩いて数分のところの単身者向けのマンションで、四階建の三階、東に向いてる部屋を選んだ。今度はエレベーターもある。
 はじめに目をつけて内覧したのは、同じ建物の別の部屋だった。南西に窓のある明るい部屋で最上階だった。間取りは広めで1LDKで、見晴らしも良い。他の部屋よりも広いベランダもあってそこに決めても良かったが、最上階はとにかく暑いからダメだと棚原が譲らなかった。加えて、西に窓があるのもその暑さを助長するだけだからと、不動産屋に掛け合った。
 不動産屋としては、家賃の高い最上階をしきりに勧めてきたが、棚原のしつこさに、それなら、と見せてくれた東向きの部屋が気に入った。
 
 三階は2LDKで、ベッドを置く部屋もある。窓は東と北にあり涼しげな風が入ってくる。日当たりはあまり望めないが、暑いよりは良いと菜胡も納得した。オートロックで、カメラ付きのインターホンが付いている。コンシェルジュは居ないが大家がすぐ近くに住んでいる。ゴミ出しは二十四時間可能で、バス、トイレ、キッチンはリフォーム済みのとても清潔な状態に、二人とも納得の決定だった。
 
 その場で庶務課に連絡を取り、棚原を保証人にして賃貸契約を済ませた。電気ガス水道各社に開通の連絡をする。部屋中を掃除して、あらゆる場所のサイズを測り家具家電を買いに出た。セミダブルベッドを一台、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、置くだけのWi-Fiルーターを購入したが、配達と設置は週明けになると言われた。
「なら、金曜にしてもらおうか、俺が立ち会って受け取るよ?」

 翌週から新居での生活が始まった。自宅マンションに比べたら狭いのに、一緒に居たい棚原は入り浸った。当直の後や土日は自宅へ帰るが、それ以外は菜胡の部屋に寝泊まりをしていた。
 同棲する話は何度か出たものの、やはり棚原が当直の時は行動が制限されてしまう。通勤が棚原ありきなのは無理が出る。甘えているようで自身も嫌だったから、棚原のマンションへ共に帰るのは週末の金曜からにした。土曜は揃って出勤し、揃って帰る。月曜の朝、少し早めに菜胡の家に来てそこから歩いて出勤した。そんなリズムが定着した。
 この頃になると院内でも二人の仲を知らない者はいなくなり、だが特に冷やかされることもなく見守ってくれていた。
 
*  *  *
 
 仕事終わりに菜胡を連れてマンションへ帰ってきた棚原。腕の中に菜胡を抱きしめ、まったりしていた時、ふと思い出した。
「あ、そうだ。おばちゃんからもらったんだけどさ」
「なんですか?」
 サイドボードから封筒を取ってきて、中を菜胡に見せる。横浜にある有名なホテルの、ディナー付きペア宿泊券だった。
「わあ、なに、ペア宿泊券?」
「去年もらったんだけど、いつ誘おうか悩んでて一年が経っちゃった。期限が今年の夏なんだ、あと二ヶ月ある。行かないか? 遠出のデートはしたことがないだろう、どうかな」

 食堂のおばちゃんとは棚原が大学病院に居た頃から見知っていて、元患者の家族だった。樫井に連れられて食堂へ入ったら、厨房の奥から顔を出したおばちゃんから声を掛けられて気がついた。そのおばちゃんが、翌週の昼の注文に来た棚原に声を掛けた。渡したいものがあると、ポケットから封筒を取り出した。
「これあげるわ。商店街のくじで当たったんだけど遠くて行けないから、菜胡ちゃんとどうかしらって思って」
 封筒の中は、横浜のシティホテルで使える、『ディナー付きスイートルームのペア宿泊券』だった。
「ええ、いいの? 息子さんとかにあげたほうが喜ばれるんじゃない」
「いいのよ! おしゃれなところは気後れしちゃってだめ。遠くて行けないし、行けてもおしゃれな街だと魂吸い取られちゃうわ、先生達に楽しんでもらいたいの」
 魂は吸い取られはしないが、と笑いつつ、ありがたく受け取った。
 元患者の家族という縁から、棚原も気を許して菜胡の事を話した事があり、それ以来こうして見守ってくれるようになった。少し気恥ずかしいが心強い味方だ。
 
「行きたい!」
「遠くて自分は行けないからって。泊まって夜景でも見てさ。日曜は葉山あたりに足伸ばして美味しいもの食べよう」
「横浜湘南のデートだ、嬉しい!」
 神奈川にいる雅代と遊ぶ時はいつも都内で、菜胡が横浜に出向くことはなかったから、横浜に行くのはほぼ初めてに近い。テレビや雑誌で目にする、華やかな港町を思い浮かべ喜ぶ菜胡の様子に、棚原も嬉しくなった。
「じゃあ決まりだな。いつにしようか、次の土曜は俺が当直だからその次でいい? 土曜の夜に泊まって、日曜をめいっぱい遊びたいよね。予約は入れておくね」
「湘南でドライカレーが食べたいです、人気のお店があるの。それと葉山にプリン屋さんがあってね、古くから続いてるんだって、そこのカフェもいいし、砂浜も歩きた……」
 棚原の方を見たら、視線があった。
「しゃべりすぎちゃった? へへ」
「いいや? 菜胡の声を聞いてた。楽しそうに話す顔を見てた。菜胡の……谷間もチラチラ見えるからそれも見てた」
「……もーっ!」
 ポカポカと棚原の胸を叩く腕は難無く捕らえられ、唇が塞がれた。
「紫苑さんのえっち」
 語尾は、棚原の胸に顔を埋めたからよく聞こえなかった。
「嫌い?」
「大好き」
 重なる唇は互いの熱を分け合うかのように蕩けあって、夜は更けた。

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