夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

第四章 全部欲しい 1

 
 土曜、久しぶりに外来へ行った。菜胡から「話がある」と言われたからだ。そうでなければまだ行く勇気が出なかったかもしれない。話の目的は関係を精算したいだったら、と内心はハラハラしていたが、菜胡から出てきた言葉は違った。

『もうハグしてくれないんですか』
『先生が離れてから、背中が寂しかった』

 誰かのセフレだと勘違いされていたし、妻帯者だと思われていたのは自分のミスだった。丁寧に説明して納得してもらった上で、久しぶりに菜胡を腕の中に抱きしめた。

 そして浅川の部屋にいた事で菜胡を傷つけ泣かせてしまった。ダミーの指輪が菜胡の気持ちを抑えていたことを知り激しく後悔した。『もうハグしてくれないのか』と言われた時は鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。ハグはもちろんしたかった。離れたくない。だけど菜胡を怖がらせることなく受け入れてもらえるにはどうアプローチしたらいいんだ……やった事がないからまるでわからず、抱きしめていた腕を離した。

 二度と菜胡を泣かせないと思いながら、好きだとは言われたわけではないがこれはもう告白されたのと同義だろう……。棚原は医局で一人ほくそ笑んだ。
「気味悪いですよ」
 顔をあげたら薄ら笑いを浮かべる陶山が居た。ここへ来てから何かと棚原に突っかかってくる内科医長だ。若いのに医長なんてすごいと思うのに、この人をバカにしたような態度が気に入らなかった。
「棚原先生にお願いがあるんですよ」
 それに食堂で菜胡に絡んでいた。手を触られたと聞いたが……。
 憂いは消えたはずだった。
「菜胡ちゃんを僕にください」
「は? 何言って」
「だってあなたには浅川が居るでしょう、奥様も居て、それで菜胡ちゃんもだなんて。僕の方が先に好きになったのに。菜胡ちゃんは特にウブな子だ、悲しませたくない。僕なら彼女を幸せにしてあげられる。決して泣かせたりはしない」
「俺はあいつの保護者じゃないし、それに何よりあいつはモノじゃないから断ります。そして浅川とは全く関係がありません、指一本触れたことも無いのに不愉快です」
 陶山はそれでも落ち着いていて、目を細めてふっと嗤った。
「知ってるんですよ、あなた方が濃い関係だって」
「ばかばかしい」
 陶山の机の電話が鳴った。ふん、と鼻を鳴らして棚原を睨め付け、受話器を取り二言三言話して医局を出て行った。菜胡をくれ、という話は一旦は終わりだろう。内心胸を撫で下ろした。

 *  *  *
 
 陶山の内科外来は整形外科外来に向かう手前にある。患者数が多いから午後の診療もある。だから他の外来と行き来する暇はない。整形外科のナースが、自分達のついでに、と内科の分の資材をたまに持ってきてくれる事があり、いつ来るかわからないそのタイミングが楽しみだった。
 そこで話しかけるより他にタイミングはないのに、いきなり話しかけても話題もないし困らせてしまう。だから遠くから見ているだけでよかったのに――。

 今年になって棚原がやってきた。いい男だと思った。背が高く、人当たりも柔らかい。コイツはモテる、と思ったら、整形外科医だとわかって落胆した。
 土曜の午後、菜胡が来る頻度が落ちた。来てもすぐに帰ってしまう。明らかに棚原が来た事が関係していると陶山は思った。

 ――あいつが束縛しているのか?

 焦った。もしそうなら解き放ってやらなければ。そんなある日、外来が終わって病棟へ上がる時、菜胡を久しぶりに見た。何となく色気が増していた。女の子を花開かせるのは好きな男だという。……まさか。

 何とかして菜胡に接近したかった。棚原よりも先に親しくなればと思うのに、科が違うから毎日顔を合わせる棚原に比べたら分が悪い。病棟で菜胡と顔を合わせる機会も皆無だからだ。

 整形外科は土曜の午後診療がない上、お局ナースの大原は十四時で帰る。これは毎週帰り際に内科へ顔を出していくから知っていた。そして自ずと土曜の午後は彼女が一人になることも知った。
 トイレと称して、一人でいるだろう菜胡のもとへ向かった。一人で心細いだろうから、何かあったら頼って欲しいと伝えたくて向かった。だが陶山の目前を棚原が颯爽と通り過ぎた。奴は大股に歩いて堂々と整形外科外来へ入り、扉を閉め……鍵をかけた。
 情けないと思ったが、人のいないことを確認して、扉に耳を当てて中の様子を窺った。ボソボソと聞こえるから会話しているのはわかるが、話の内容まではわからない。ずっとそうしているわけにもいかずその場を後にしたが、翌週も棚原はやってきた。診察室から出てきた棚原は数歩で引き返して診察室に駆け込んだ。この時は扉が開いていたから声が聞こえた。咄嗟に長椅子と長椅子の間に身を隠して耳をすませた。
『忘れ物ですか?』
『うん、キスするの忘れてた』
『もう……』
そういう事か。

  *  *  *
 
「何なんだ、あいつは」

 ――菜胡はモノじゃないし、だいたい手放すワケないだろうが!

 医局を出て階段を降りたら、上の階の踊り場から話し声が聞こえ足を止めた。
「だから私が棚原先生を引き止めますから、その間に外来へ――」
「でもそれじゃ――」

 ――浅川と陶山の声? 何の相談だ、なんだなんだ

 棚原は嫌な予感がした。急いだ。整形外科外来へ、大股で急いだ。外来は灯りがついていて扉は開いていた。

 ――菜胡はいるな?

 駆け込んですぐ後ろ手に扉を閉めて鍵を掛けた。すぐさま診察室の灯りを消して、机に向かって書き物をしていた菜胡を抱えて、いつも休憩に使う奥の診察机の、カーテンの向こう側に隠れた。

「えっ?! なっ、どう」
「シッ!」
 棚原の腕のなかでひどく動揺している菜胡の口に人差し指を当てる。
「どうしたんですか、何があったんですか」
 小声で聞いてきた菜胡の口を軽く抑えて、入り口を睨んだ。
「多分だが、浅川と陶山が良く無いことを企んでる。たまたま奴らの話を聞いて急いでここに来た。そのうちあいつらはここに来る」
「ええ、そんな」
 棚原に背中側から抱きすくめられた状態で二人はしばらくカーテンに隠れていたが、やがて扉をガタガタと開けようとする音が聞こえ、菜胡が身体を強ばらせた。
『鍵が掛かってる。灯りもついてないな……病棟にも医局にも居なかったのに一体どこに』
『棚原先生の車はあるから院内にはいるはずですよねぇ、もう少しここで張ってますぅ?』
 扉の向こうに来ているのは浅川と陶山だ。菜胡は腕のなかで身を捩って棚原の顔を見た。
「大丈夫、俺がいる、大丈夫だから」
 こくりと頷いて、棚原の腕にしがみついたまま息を潜ませる。

 どれくらい経っただろうか、扉をガタガタと鳴らす人の気配はもうしない。カチコチと秒を刻む音と外を通る車の音、合わさった胸部でトクトクと響く鼓動以外は何も聞こえてこなかった。扉の向こうは静かで、もう二人は居ない可能性が高い。だが不用心に出て行く事はできない。

 同じ体勢のまま、息を殺して密接していたせいでじっとりと汗ばんできた。それは互いの匂いを強めるエッセンスにしかならず、二人の間に匂い立つものに気がついた時はもう互いを見つめる目には熱が宿っていて、どちらからともなく唇が重なった。
「はあー……菜胡……好き……落ち着く」
 自分の肩に顎を乗せて気を抜く棚原の襟足から白衣の襟元辺りが、ちょうど菜胡の目の前にある。
「何の匂いなんでしょう。先生からもしますよ」
「え、そうなの? どんな?」
 バッと身体を離して菜胡を見てくる。
「なんていうか、しっとりしてて優しくて、まるい感じのとっても安心する匂いです、嗅ぐと胸がキュンってなってなるの……好き、なんです、その匂、い……」
 尻すぼみになって言い終えれば、棚原が顔を片手で覆って上を向いていた。
「ねえ、菜胡……それは」
「は、すす、すみません、気持ち悪いですよね忘れてください」
 腕の中から抜け出た菜胡が診察室の隅に逃げる。

 ――ひー! なに言ってんの!

 奥の机から、お茶セットや荷物を置く棚の前にしゃがんで膝を抱えた。今しがた、己が発した言葉の意味を反芻して顔が熱くなる。

 ――好きって言ってるようなもんじゃない……それならちゃんと好きって言った方がよかった……匂いが好きだなんて変態って思われ……!
 
「菜胡こっち向いて」
 腕の中から逃げた菜胡の背後にいるであろう棚原から優しい声が降る。
「や、恥ずかしいから……無理です」
 しゃがんで顔を伏せたままの菜胡と同じく、棚原もしゃがんで呼びかける。
「恥ずかしくなんかない……ちゃんと、顔見て聞かせて?」
 どんな顔して振り向けばいいのかわからない。うう、と小さく唸りながら顔をあげる。
「菜胡が好きなのは、俺の匂いだけ?」
 ふるふると頭を振る。そうしてすぐ、背中に棚原の体温を感じた。脚を広げた棚原が密着していて、腕は菜胡の目の前の壁にあった。棚原に捕まったのだ。その状態で話しかけられると、より声が近くて腰がくすぐったい。
「せっ先生だって、好きなのは私の匂いなんでしょ……」
「俺は、菜胡の全部が好きだよ」
「……っ」
 既に菜胡の身体は棚原の腕の中だ。振り返り、壁に背中を預けて棚原を見た。熱の籠った目で菜胡を見つめていた。
「私も……好き、先生が好き、だいす――」
 最後まで言わせてもらえなかった。菜胡の背後の壁に手をついた棚原の顔がゆっくりと近づいて、そっと重なった。熱くて、優しい口づけが数度繰り返された。
「菜胡」
「せんせっ……んっ」
 一旦離れて名を囁いてからは、壁にあったその手で菜胡をかき抱いた。うるむ瞳で棚原に縋る菜胡が愛しくてたまらない。何度好きだと告げても口づけをしても足りない。思いは溢れるばかりで、もっと触れたいし抱き潰したい。菜胡の心と身体に、俺がどれだけ愛しているかを刻みつけたい。菜胡を腕に閉じ込めておきたい。

 菜胡を立ち上がらせ、すぐ近くの診察台に腰掛ける。肩を抱いて寄り掛からせた。
「先生」
 菜胡が口を開いた。
「ん?」
「その、いつ、から……」
「好きだったかってことなら、初日だなあ。箒を俺に突きつけてる菜胡を見て、胸がドクンとなった。この子は……と思った。そしたら転びそうになるから驚いて、腕を引っ張った」
「私も同じでした、カーテンを開けて先生が振り向いた時、何だか動けなかったの。私、あれがファーストキスで」
「そうか、初めてだったな、すまん」
 抱き寄せて頭頂部へ口付ける。
「びっくりしたけど……はしたないと思われるかもしれませんけど、すごく、気持ちが良くて、それにもびっくりしました、次の日も頭から離れなくって」
「同じだ、菜胡と同じ髪型の女性を見るたびにドキッとして、でも匂いが違うからガッカリした。菜胡の匂いと、気持ちの良かったキスが気になって仕方なくて、もう一度確認したかった。好きだったんだと思う。ほぼ一目惚れだな。菜胡は?」
「私は――好きになるつもりはなかったんです。恋愛に良い思い出が無くって、好きにならないって思ってたのに、先生のそばが、腕の中がすごく落ち着いて胸がキュンってなって苦しくて。先生が離れたでしょう、あのあとで気持ちに気がついたんです。でもきっと、私も一目惚れだったんだと思います」
 ふふ、と笑って棚原を見上げれば、棚原も目を細ませて菜胡を見ていた。
「箒を振り上げる姿は勇ましかったしな」
「先生こそ、不審者感がすごかったですよ」
 あの日を思い出して、静かに笑い合った。

 勝手に診察台を物色していた棚原に、掃除用の小さな箒を突きつける菜胡。体格も違えば、手にする武器が小さく心もとない。分が悪いのに、気迫は菜胡の方が上回っていた事を思い出す。
「指輪は? いつ気がついていたの?」
「不審者扱いをした時に」
 箒を突きつけながら、不審者を観察しのだ。背が高い事、タレ目、髪は後頭部は短めで、青みがかかった黒のスーツに青のネクタイ、それから左手に指輪をはめている事を咄嗟に観察していたのだ。
「そっか。長いこと不倫になるって我慢させてたんだな」
「浅川さんの部屋から出てきたのを知って、私にするように抱きしめてキスしてるのかと思ったらすごく嫌で苦しくって、もう不倫でも何でもいいから、たまにハグしてもらいたいって」
 ギュッと目を閉じる菜胡の肩を抱く。
「菜胡だけだよ、自分から好きになったのも、ハグしたいのも、キスが気持ちいいのも……」
 啄むようなキスを何度か繰りした。
「そしたら、あの時泣きそうな顔をしていたのは指輪のせい?」
 腕の中で、こくんと頷く。
「先生には奥様がいるから、私との将来は有り得ない事はわかっていたんですが、言葉にされたらやっぱりそうなんだなって、悲しくなっちゃった」
「そうか。ごめんね。……指輪はもう外すか」
 左手の指輪に手を掛ける。その手を止めるように菜胡が手を重ねてきた。
「そのままで構いません」
「そう?」
「だって外したらフリーだってみんなにバレてしまうでしょ、わた、私、だけの、先生じゃ、無くなっちゃうから」
 もごもごと言い淀みながら、顔を赤らめて、早速、やきもちを妬く。
「家に、この指輪の片割れがあるんだ。菜胡に持っていてもらいたい」
 菜胡の左手薬指を軽くさすりながら、顔を見て言う。
 この指輪はダミーなわけで、拘束力のあるものではない。だけどせめて、ペアリングの感覚で持っていてもらえたら、と軽く期待も込めて提案した。
「私に?」
「うん。菜胡の虫除け対策にもなる」
「チェーンを通して首から下げても?」
「もちろん。ファッションリングをしながらできる仕事じゃないからね、菜胡の邪魔にならない方法で身につけていてもらいたい」
「はい、わかりました。うれしい」
 本物は、いずれ別の機会に必ず――。
 たった今、気持ちが通じ合ったばかりなのだ。関係を深めていったその先に、菜胡との未来があるのだから、焦る事はない。

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