夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

4

 
 翌朝、朝食も兼ねて洗い上げた食器を持って食堂へ行けば、陶山が居た。

 ――また!

「やあ、おはよう、菜胡ちゃん」
 背筋がゾワッとした。こんなにもちゃん付けされて寒気を覚えたのは初めてだった。
「昨日言い忘れたことがあってさ」
「なんでしょう? おばちゃん、おはようございます、昨日はありがとうございました、ごちそうさまでした。トレイここでいいですか」
 近づいてくる陶山を見もせず、厨房の中に声をかける。「あいよー」と奥から声が聞こえ、代わりに朝ごはんのトレイを手にして窓際の席に運び座れば、陶山が後をついてきて隣に腰掛けた。座りざま、菜胡にしか聞こえない大きさの声で不気味なことを言う。
「君と棚原の関係がバレたら棚原はクビだよ。実家の病院を継ぐ話も消えるかもしれない。不祥事だからね……不倫の代償は大きいよ?」
「何が言いたいんですか、私に何をさせたいんです」
「僕の彼女になってよ」
「…………」

 ――彼女になれば黙っててやる、という事か。
 
「あれ、無言? ひどいなあ。これでも棚原が来るより前から君を見てきたのに。ねえ、棚原から僕に乗り換えようよ、満足させてあげられるけど」
「乗り換えるもなにも……」
「じゃあ棚原に直接交渉する。菜胡ちゃんを僕にくれって。浅川がいるんだから菜胡ちゃんはもらったっていいだろう?」
 浅川が、と聞いて鼓動が速まる。なぜそれを知っているのだろう。やはり浅川が陶山に入れ知恵をしたのだろうか。菜胡の頭の中で思考が巡る。
「わたっ私は、物じゃありません!」
 言い返してきた菜胡の向こうにある窓の外を一瞬見た陶山は、ニッと笑った。手を伸ばして、菜胡のそれに重ねてきた。患者でもなければ好意を抱いてるわけでもない男性から触れられる事の不快は途轍もなく、嘘くさい笑みを浮かべる陶山がただただ気持ち悪かった。すぐさま手を引っ込めた。
「不倫してるわりには意外とウブな反応だな、可愛いね、そそられる。棚原もそこに惚れたのかな」
 他に食堂を利用する人が居ないのをいいことに、陶山は強気に振る舞う。
「だから、そうじゃないっ」
 話の通じなさ、人の話を聞かないところは浅川にも似ていて不愉快な人だ。内科外来の担当でなくて本当によかった。
「ちょっと、陶山先生! 菜胡ちゃんに手出さないでよ!!」
 対応に困っていたら、厨房のおばちゃんがやってきて菜胡の隣に立ち、陶山を遮ってくれた。
「なんでよ、いいじゃん、独身同士の交流だよ? 野暮なことしないでよ」
「菜胡ちゃんはダメよ。アタシの娘同然なんだ、許さないよ! 今度ちょっかい出したらあんたの味噌汁にワサビをたっぷり入れてやるから!」
 おばちゃんの圧に負けた陶山は、肩を竦めて食堂を出て行った。
「おばちゃんありがとう……」
 陶山に触られた手を布巾で拭きながら、ホッとして息を吸い込んだ。
「あの先生、棚原先生のこと勝手にライバル視してんのよ。あんたのことを奪えば悔しがると思ってんのさ。もしまた何かされたらここにおいでね、棚原先生からも頼まれてるんだ、誰でもいいから声かけな」

 ――え、え、どういうこと、棚原先生から頼まれてる? 何を?

 それからは、おばちゃんが牽制してくれたおかげか陶山が絡んでくることはなかった。内科外来へ行かなければ姿を見ることもない。だが、棚原への対抗心からならまた菜胡に絡んでくる恐れはある。気を張りつつ診療の支度をしていると、九時少し前。樫井と棚原が外来にやってきた。大原と話をする樫井の声に紛れ、カーテンで遮られたこちら側では、棚原が菜胡に聞いてきた。
「陶山に何かされた?」
 小声で言われ、えっ、と驚いて、頭を振る。
「今朝、菜胡の隣に陶山が座っているのを見たから……」
 あの場面を見られていた。最悪、気色悪いったらなかった。
「手を少し、触られただけです」
 胸の前で両手を組んだ。その手を棚原が優しく解いて、陶山に触られた感触を打ち消すかのように握ってきた。触れようとしなかったのに、なんで……。
「他は?」
 ないです、と意味をこめて頭を横に振る。
 その時、時刻は九時。別に今でなくてもいいが、と逡巡して、でも言うなら今だ。外来診療が始まろうとするその刹那、棚原の耳に近づいた。
「今週の土曜は外来に来ますか、話がしたいです」
 それだけ言うと患者を呼び始め、外来診療が始まった。

 ――うまく言えたかな。

 積まれたカルテの一番上から患者を呼び込む。診察室の椅子に座らせ、外科処置が必要な人には寝てもらい、器具を準備する。レントゲン写真を撮る必要のある人にはレントゲン室までの道案内をし、待っている患者に話しかけられ、そうしていつもの診察が淡々と進んだ。
 身体を動かしながら、ふと立ち止まれば頭の中は土曜の事でいっぱいになる。
 今度の土曜日、棚原に気持ちを告げる。面倒くさいとフラれてもいい。フラれてもこれまで通りに外来はこなすし、土曜の逃げ場は開けておくし、もし気まずくなって働き難いなら辞めてもいい。陶山が言ったように、自分と関わることで棚原のこれからがどうにかなってしまうくらいなら身を退く。そして地元に帰る。二度と棚原には会わない。――考えたくないが、それくらいの覚悟で挑もうと、菜胡は決めた。

*  *  *
「じゃあね、菜胡お先〜あとよろしく」
 大原を見送った土曜の十四時。棚原が来るまでにやれる事はやっておくため、いつもよりスピードアップして動いた。そのせいで十五時過ぎには診察室から出かける用事は全て終え、あとは診察室の中で補充したり整頓するだけでいい。もしかしたらいつもの土曜もこれくらい必死に動けば、大原のように少し早く帰れるのではないか? そんな事を考えながら淡々と身体を動かしていると棚原がやってきて、扉の鍵をかけた。

「ごめん、遅くなった」
「い、いえ、大丈夫です」
 棚原を目の前にすると緊張感が増した。もう今さら逃げるつもりはないけれど、退路を断たれたからには覚悟を決めないといけない。
 いつも使う奥の診察机の椅子に座った棚原は菜胡の方を向いた。
「で、話って、どした?」
 怒っているわけではないが、自分の話を聞きに来てくれた事に、ごくり、と唾を飲み込む。緊張で口の中が乾いていて飲み下せるほどの唾はないけれど。

 ――えっと……何を言いたかったんだっけ

 緊張で考えていた事全てが吹き飛び、ついて出たのは全く違う言葉だった。
「もう……私のことは、ハグしてくれないんですか? 私の匂いには、もう、飽きちゃいましたか」

 ――なに、言って……

 感情が昂ぶって、最後は涙声になっていた。ギッと椅子が鳴り、棚原が身を乗り出した。
「……触れても、いいの?」
 こくんと頷く。椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、菜胡の前に立った棚原は、躊躇いがちにその手を頬にそっと当てた。
「先生が、離れてから、ずっと、背中が寂しっ……」
 菜胡、と囁いた棚原の腕の力が増す。久しぶりに背中に回された手がうれしい。久しぶりに嗅ぐ棚原の匂いに安心する。耳元で聞こえる声も、何もかもがうれしくて、欲しかったものだ。
「しょっ、処女だから、めんどくさいでしょうけど、わたしっ」
「泣かないで、菜胡……飽きたりなんかしてない、めんどくさくなんかない。弱い俺が悪いんだ」
 頬を両手で包まれ、瞼に口づけされた。頬にある手で涙は拭われる。
「浅川さんがいても、奥様がいても、たまには、ハグして欲し……」
「ん? 奥さんは居ないよ」
 被せ気味に返しながら、菜胡を抱き上げて椅子に座った。膝の上の菜胡の腰を抱える。久しぶりのこの体勢に、安心感が拡がった。棚原の匂いが好きだ。力強い腕が好きだ。――存在が、好きなのだ。

 結婚指輪がある事は初めから知っていて、それでも好きになってしまった。だから、たまにはハグだけでもいいから、と思った。こんな事は図々しくていけないのだけど、それでもと懇願しようとして、「奥さんは居ない」の一言に少々頭が混乱した。
「え、だっ……て、指輪」
 すん、と鼻をすする菜胡。自身の頬に当たる棚原の左手を両手で握った。薬指に、確かに指輪がはめられている。それでも居ない、と言うのだろうか。
「あー、これは俺の落ち度だ、はじめに言うべきだった。この指輪は女避けのつもりでつけていて、結婚はしていないんだよ、泣かせてごめん。見た目だけで近寄る女が多かったからウンザリしてダミーではめたんだ。確かに減った。けど、浅川みたいなバカには通用しなかった」
 菜胡の頬に口付ける。
「じゃあ浅川さんの部屋から出て来たのは?」
「……あの日は、医局の机にあいつの携帯番号が書かれた紙が置いてあったから返しに行ったんだ。二度と関わらないでくれと言いに行った。菜胡があそこに住んでいるって知らなかったから驚いた。あいつには指一本触れてないよ、だから扉も開けたまま話した。菜胡に誤解されたら嫌だと思って行ったのに、その場に居合わせてたなんて……ごめん」
 菜胡が握っていた左手はいつしか菜胡の頬を包んでいた。
「けど、金曜日楽しかったって言ってた……」
「なんで急に金曜だなんて言ったのかわからない。院外で会ったことはないし会うつもりは微塵も無い」
 菜胡はありったけの力を込めて抱きつく。胸もお腹も棚原とは隙間がないくらいに甘えた。
「もしかして――妬いてくれたの?」
 浅川とは何の関係もなかった。あれは浅川の虚言で、指一本触れていないと。それに、既婚でもなかった。指輪はただのカモフラージュだったのだ。
「そしたらどうして」
「菜胡から離れたのは、その……初めてなら、もっと丁寧に距離を縮めるんだったって反省したから。あのまま俺の気持ちだけで押してたら怖がらせてた。それだけはしたくなかった。泣かせたくなかったのに……逆に不安にさせてたね、ごめんね」
 こくんと頷く菜胡。
「俺は今、正真正銘、恋人もいないし誰かのセフレでもない。結婚だって一度もした事はない。だから」
 菜胡に口付けて、鼻の先が付くくらいの距離で囁くように続けた。
「近いうちに家に来て、恋人も妻も居ない事、その目で確かめて。それで、俺に……」
 ささやきは吐息へと変わった。触れ合えなかった分を取り戻すかのようにかき抱いた。絡み合う熱は混じり続けた。
「ん……っ」
 家に行くという事は、そういう意味だ。初めては棚原がいい……菜胡は初めてそう思い始めていた。
 

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