夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
2
週が明けて、この病院での仕事がはじまった。一通り説明を受けた。大原というベテランは中学生の息子がいると言う。元気で気の強そうな彼女と、菜胡の二人が担当だった。
この病院は古くて、やってくる患者も高齢者が多く、彼らの多くは一人暮らしなのだという。そのせいか患者との距離が近く、まるで近所に住む者同志のようなやり取りが待合室でなされている。大学病院ではあり得なく、まるで実家のクリニックを思い出されてたちまち気に入った。
診察の途中、何度か彼女に驚かされた。のんびりとしていそうなのにわりと患者をよく見ている。呼び出しの為に廊下に顔を出せば話しかけられることが多く、だが丁寧に対応をしている様子は好感が持てた。彼らから慕われている様子を見ると不思議と和む。何かを頼んだり聞いたりすれば気持ちよく返答があり、時々独り言を言っているのも可愛らしく思った。彼女の周りの空気があたたかく和やかで、ずっと外来に居たいとすら思った。
棚原がここへきてひと月ほどが経った。あの日、初めて嗅いだ菜胡の匂いを確かめたくて、診察初日に抱きしめた。やはり同じ匂いがして、やっぱりどこかホッとするし落ち着く。するとキスもしたくなり、顔を近づければ『勘違いするからやめろ』と言ってくる。これまでの女だったら、まだこちらがその気じゃないのに顔を近づけて来ていたというのに、彼女は手で棚原を遮った。
菜胡とのキスは気持ちがいいのも不思議だった。キスが気持ちがいいなんて感じたことは無かったから、そういう意味でも初日から菜胡の事が気になっていた。
見た目は普通の女の子なのだ。背は低いほうかもしれない。抱きしめれば頭頂部が棚原の顎にくる。痩せてもいないが肥満というわけでもない。髪は顎のラインで切り揃えられていて、仕事の時は髪が乱れないようまとめているのも好感度が高い。化粧っ気はないが、頬は陶器のようにすべすべして手触りがよかった。コロコロと変わる表情は見ていて飽きなく、狭い診察室の中をよく動いている。何より、棚原に媚びて来ないのが一番よかった。興味が無い感じが清々しい。
それでも一度抱き寄せればその小さな身体を預けてきて、キスを拒む事もなく受け容れてくれる。時折見せる反応はとても初心で、潤んだ目の彼女からたち上る色香に溺れたくなる。
菜胡が強く拒絶しないのをいい事に、隙を見て彼女を抱き寄せその匂いを嗅いだ。ハグだけならいいと両腕を広げてくれる時もある。抱きしめればふわっと匂うし、匂いを嗅げばキスもしたくなる。初めて女性の身体を知った頃のように、物陰で、診療後の薄暗い診察室で、こっそりと菜胡を腕の中に閉じ込めた。樫井や大原の目を盗んで、指を絡ませるように手を繋いだ。
* * *
木曜は樫井が休みだから棚原が一人で外来と病棟を診る。入院患者は多くないため、外来診療後は診察室で休憩をさせてもらっていた。
「先生コーヒーどうぞ、お疲れさまでした」
「ありがとう、樫井先生はこれをずっとやってたんですよね、大変だったなあ」
背もたれに寄りかかりながら、座る大原に言った。
「棚原先生が来てくださって良かったわ。あの先生が手を抜くのがうまいワケわかるでしょ? 製薬会社の人と打ち合わせっていう理由でたまに外出するでしょう、アレだって息抜きなのよ、打ち合わせなんかしちゃいないのよ」
大原はカラカラと笑い声を上げた。だいぶ気さくに話せるようになってきたな、と思う。大原は無駄に棚原に媚びてこない。冗談で色男よ、と口にする事はあっても、しつこくないし裏表のない女性だから話しやすい。
「樫井先生のゆるさは、"いい加減"じゃなくて、"良い加減"なんですかね、なるほど」
「そうね、先生上手いこと言うわね!」
それからはのんびり過ごした。菜胡が淹れてくれた甘いコーヒーを飲みながら本に目を落とす。大原と菜胡の会話は心地がよかった。この後の段取りを話し合い、かと思えば、料理の話もする。
そして女性とこれだけの時間、同じ空間に居ても苦ではない事に気がついて、本から顔を上げて彼女たちを見ていた時、大原が外科外来からヘルプに呼ばれた。
「大原さんイキイキしてたね」
ヘルプ頼む、と連絡が来て、大原は「行くわ!」の一言で出て行ってしまった。
「大原さんは、外来の前は手術室にいたんですよ、だから外科で縫合の処置があるとああしてサポートを頼まれるんです」
「あー、手術室ね、なるほど」
菜胡が、自分のような行動の遅い者は向かない、とポソッと言ったのを聞き逃さなかった。
「いいんじゃない、それぞれ向いてる場所ってあるじゃない。菜胡ちゃんはお年寄りの話をよく聞いてるし、患者さんの観察もよくやってる。大原さんももちろんベテランさんだからさ、そういう経験が成せる技みたいなのあると思うけど、菜胡ちゃんのそれは経験じゃない感じがする、人柄が穏やかだからだな。そこに経験値が加わったら最強じゃん」
ポカンと口を開けていた菜胡が徐々に俯いてきた。頬も耳も赤い。褒められ慣れていないのだろうか。
「あ、ありがとうございます……」
「実際、患者さん達から好かれてるじゃない」
「そうですか? みなさん一人暮らしだったりして、遠くに住むお孫さんに会えてないから孫のように思ってくださってるんだと思います、大原さんの娘だと思ってる方もいたんですよ」
あはは、と笑ってしまう。
「うちの孫の嫁に〜って口説かれたりしないの?」
「何度かありましたよ」
無いだろうと冗談で言ったのに、本当にあったとは。棚原はドキッとした。
「でも大原さんが、うちの娘はどこにもやりませんよ! って言ってくれて、あの時は待合室中、大笑いでした」
さて、と立ち上がった菜胡は自分のカップを洗い場に持って行った。その背中を追う。
「もし本気で患者さんのお孫さんが口説いてきたらどうするの」
シンクの淵に手を置いて菜胡を囲えば、背の低い菜胡はすっぽりと棚原の胸の前に隠れてしまう。そしてやはり近くに立つと匂いが際立つ。この匂いを他の人も感じているんだろうか。口説いてきた孫がもし感じたら? それに菜胡が応えてしまったら……。いや、それよりももっと肝心なところで、菜胡に恋人がいたら。
「そんな事ありませんよ、皆さん社交辞令ですから」
振り返った菜胡の目を見る。
「こんな事してきたらどうするの……」
菜胡の腰に手を回して引き寄せる。
「こっこんなこと、棚原先生しかしてきませんっ、近い近い、先生、近いです――」
「だって、近づかないと……キスできないじゃん」
「んっ……」
自分以外の男が菜胡の魅力に気づいてしまったら、もしそいつに菜胡が惹かれてしまったら……? まだ起きてもいない事を勝手に妄想し、嫉妬し、不安を抱いてしまった。誰かのものになる前に自分を意識させたい。忘れられないようにしたい。菜胡にもっとこっちを向いてもらいたい。恋人が居ても構わないから……。
女性を口説いたことはこれまで無かった。言い寄られるばかりだったから口説く必要が無かったのだ。だが今初めて、菜胡を口説き落としたい思いだった。菜胡を抱いて抱いて腕の中に閉じ込めておきたい。キスで蕩けた菜胡の表情を誰にも見せたくない。
棚原の胸に手を当てていた菜胡から、フッと力が抜けたように感じて唇を解放し、崩れ落ちないようしっかり抱きしめる。
「いやだ……菜胡、やだ」
「――先生?」
――いやだ。菜胡は、俺の、俺の……
カチコチと鳴る時計の音がやけに大きく聞こえてくる。しばらく抱きしめていれば、その音を邪魔しない、柔らかい声が棚原の耳に届いた。
「先生……大丈夫ですか? あの、私の考え違いだったらすみません」
棚原の背に周る手で背中を優しく叩く。まるで幼い子を宥めるかのような叩き方、声のトーンに、目を閉じて聞き入る。
「私ね、彼氏が居た事はありますけど、まともなお付き合いはした事がないんです。だから、先生からされる全てが初めてで、そういう意味では、いま一番先生が私に近いんです。いくら患者さんからお孫さんをって言われたって、毎日、先生の匂いに包まれて、抱きしめられてる私には、先生の存在が一番大きいんですよ。こんな事、誰ともしたことありませんから」
――誰ともしたことが無い……。
「菜胡、キスしたい」
返事の言葉は要らなかった。わずかに顎を上げた彼女が目を閉じたのだから。ゆっくりと顔を下げ、菜胡の唇と重なる。そっと触れ、離れる。薄く目を開ければ、菜胡も同じタイミングで目を開けたため目が合う。額に、まぶたに、頬に口づけて、唇。初めてキスをした時のような高揚感があり、震えていたかもしれない。
棚原は自覚した。
菜胡に恋をしている。
しかもかなり厄介な事に、ほぼ初恋なのかもしれない。自分から好きになったのはおそらく初めてで、こんなにも愛おしくて仕方がないと思える存在に出会ったのも初めてだからだ。
女は長いこと"苦手"の部類だった。いつだって自分のステータスにしか興味を持たれず、棚原紫苑という個人への興味は二の次だった。そんな女共を近づかせないために"偽の結婚指輪"をはめた。だが菜胡は、そうじゃなかった。棚原のステータスは"整形外科医"しか知らない。はじめこそ強引に唇を奪ったが、それ以降は嫌がる事もなく、目を潤ませ、縋りつきながらも応えてくれる様子が健気で愛らしく、棚原の心の中に、自然に溶け込んできた。
菜胡がいる外来では彼女を目で追い、耳で感じた。菜胡に会えない週末はつまらないし時間が過ぎるのが遅い。刻が止まっているんじゃないか、などと本気で考えたりもする。菜胡が纏う温かく和やかな空気が心地良かった。菜胡の匂いは精神安定剤にもなって、抱きしめると落ち着くし安心する。口づけを交わせば交わすほど胸が苦しくなって愛しさが増す。
菜胡の事が好きだ。
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