夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

星影くもみ

第二章 初恋 1



 棚原は、地方の都市にある整形外科クリニックの長男として生まれた。中学生に上がる頃、両親は離婚して五歳下の弟は母親に着いて行った。その頃にはもう医師になる夢を抱いており、勉強になると思い父親のそばを選んだ。
 
 大学もあと少しで卒業という頃の事だ。同じ大学の、別の学部に通う女性と交際していた棚原は、彼女との将来を考えはじめていた。出しゃばるでもなく自分に盲目的でもない、芯のある彼女に惹かれ、いずれは彼女と一緒になり父親のクリニックを継ぐつもりでいた。卒業してすぐは無理だが何年かしたら帰る。その時に……と思っていた。

 ある時、彼女と会う約束をして待ち合わせのカフェへ向かった。姿を見つけ声を掛けようとしたら彼女の目の前に友人が座っていて、女性二人で楽しげに交わされる会話が聞こえてきた。楽しそうならもう少し待とうと踵を返した時、聞こえてきた会話に凍りついた。
『大病院の息子でしょ? うまいことやったじゃん』
 友人が切り出したことで、彼女は饒舌だった。
『それがさ、話聞いたら大病院じゃなくて開業医だったの! 地方のしょぼいクリニック! でもイケメンで一緒に歩くには優越感だよね。弟は離婚した母親に着いて行ったって。母親居ないのは点数高くなーい? 気が楽っていうかさ。だからキープ。それよりこの前の合コンで連絡先交換した人、良い感じなの、昨日もさあ――』
『まさか夜通し? やるなあ。これから棚原くんと会うっていうのに』
『あの人わりと鈍いし単純だから大丈夫。実習研修で疲れていてそれどころじゃないもの』
  
 棚原は耳を疑った。怒りも湧いたが、同時に悲しさも覚えた。彼女は、"棚原紫苑"というひとりの人間ではなく、自分を形成している環境にだけ興味があったのだ。まずそこに失望した。選んでもらえたと思っていた。彼女はたおやかで出しゃばらない。かといって盲目的に自分に従っているわけでもなく芯のある女性だと尊敬し、愛し、何度も肌を重ねた。彼女も同じ気持ちなのだと思っていた。
 研修などで忙しく会えない時は確かにあったが、その間にもできうる限り、連絡入れていたつもりだったから、他の男と関係を持っているとは思いもよらなかった。単純で鈍いと侮られていた。想いが通じ合って身体を重ねていたのではなかったのだ。
 実家のクリニックをしょぼいと称したその感覚も信じられない。たしかに規模は小さい。だが父親が長いこと守り続け、地域に根差したクリニックだ。それなりに誇りも持っていて、何も知らない彼女に侮辱される謂れはないはずだ。
 彼女の本性を見抜けなかった自分に対しても情けなさを感じた。
 
 その場で彼女には別れを告げた。何故だと縋ってきたが、触れられるのも嫌になって手を振り払った。他の男と関係を持った女なのだと思ったら吐き気がするほど嫌悪感が沸いた。
『どうして? 棚原くんの事が大好きなのに……!』
『俺じゃないだろう、お前が好きなのは金だろ、この見た目だろ。母親がいなくて兄弟もいない、そういう家庭環境が好きなんだろう。失望した。合コンで知り合った奴に慰めてもらえばいい』
 
 それ以降、何人か良いなと思う女性に出会えた。身体の関係を持つ前に、彼女の言動やこちらからの反応をよく観察してみれば、見た目や実家が開業医、母親が居ないという家庭環境を重視しているような言動や態度が見え隠れしだし、一歩踏み込む前に嫌気が差してしまった。棚原自身を見てくれる女性はいた。だが、今度は棚原自身が彼女を信じきれず、束縛めいた事をして愛想尽かされてしまった。

 それからは真剣な交際をするのはやめた。諦めた。一度だけ遊びで女を抱いてみたが虚しかった。遊びと割り切っているのに、己が特別な存在になれたと勘違いされ、結局は長く続かなかった。
 背が高く、がっちりした身体つき、タレ目は優しいイメージを与える。薄い唇、通った鼻筋、そういった見た目に言い寄る女は職場にもいてうんざりしていた。だからナース達には仕事以外の話をせずに黙々と対応し働いた。飲み会の類には一切参加しなくなって数年後、"棚原先生は女嫌い"の噂が出来上がった。恋愛の空気が漂うと身体が拒絶反応を示し、キスはもちろん抱き締める事もできず、媚びた目つきで触れられると虫唾が走った。女性に対して純潔や潔癖を求めているわけでは決して無く、好き合えばいいとすら思っているのに、大学時代の彼女の振る舞いが未だに尾を引いていて、恋愛には臆病になっていた。
 
 このまま、二度と恋愛できないのかも……思っていた。たった一人の、癒し癒される相手が居ればいい。でもまたあの頃の女たちと同じだったら、と思うとなかなか踏み出せない。そんな愚痴を、同じ病院の先輩に飲みの席で吐いた事がある。
「なら、ダミーの結婚指輪でもしてみたら? 少なくとも、お前の肩書きや見た目で近寄る連中は減るんじゃないか?」
 それもそうかと、翌日、ジュエリーショップに走った。どうせなら好きなブランドにして、相手も居ないのに結婚指輪を買ってきて自分ではめた。女が寄って来なくなるなら何でもやろうと思った。近づいてくる女は確かに減った。
『棚原せーんせ! ねえ、週末の……え、先生、結婚指輪? 結婚してたの?』
『ん? ああ』
 妻の座を狙う奴らは減った。それでも来る奴は、想像のできないバカだと括って相手にしない事にした。

 指輪をはめて一年が経った頃、そのアドバイスをくれた先輩から『下町の病院で医師を一名募集している』と聞いた。環境を変えたいと思っていたから手を挙げた。
「俺の友人がそこの整形外科医長をしているんだ、一人で外来と病棟を診てる」
 一日あたり何人の患者を診て、入院患者が何人いるのかわからないが、両方を一人でだなんて大変過ぎるだろう、開業医なら外来だけで済むが……一体どんなブラックなのかと慄いた。
「とはいっても、小さな病院だから雰囲気は良いと思うよ。そいつは穏やかな奴で、そこに勤めて長いよ、気に入ってるらしい」 
 古い病院ならスタッフ数はそんなに多くないだろうし、嫌いなタイプの女が一人くらいは居るかもしれないが、一人なら対処できる。そう思い、指輪はそのままに赴任を決めた。

 指定された日に病院を訪れ、院長と事務長への挨拶を終えた。樫井との約束の時間までまだ少しある。ついでに外来を下見したくなり、教えられた長い廊下の先の診察室を目指した。午後は外来診療がないためその暗さに苦笑する。コンクリートの壁に掛けられた絵画が一層の古めかしさを醸し出していた。

 ――なるほど、たしかに古い造りだな。

 診察室の扉は開いていて灯りがついていた。

 ――誰かいるのか? ナースか? ならちょうどいい、挨拶できる。

 だが誰も居なかった。掃除用具が入り口に置かれたままでどこかへ行っているらしい。掃除の途中なのだとわかる。
 室内を見回して診察台を触り、椅子に座ってみる。机の伝票を眺めている時、小柄なナースがやってきた。カーテンを思い切り開けた彼女の手には、入り口に立てかけられていた箒があった。それをこちらに突きつけていた。
「あなた誰! 何してるの!」

 ――まさかの不審者扱い?!

 突きつけられた箒を持つ彼女に視線を移した時、視線が絡んで離れなくなった。ビリッと来た。動けなかった。それは彼女も同じだったのか険しい表情が一瞬和らいだ。どのくらいかわからないがお互いに動けず居た時、彼女が踏み出している足が前に滑った。後ろに倒れてしまう! 咄嗟に手を伸ばして彼女の手首を掴み、思い切り自分に向けて引いた。彼女の上体が胸にぶつかる格好になって、反動で倒れないよう腰に手を回して抱きとめた瞬間、甘くてまろやかな、しっとりとした匂いがふわりと漂った。嗅いだことのない匂いにぞくぞくっとした。

――なんだ、この匂い……

 その匂いのもとを確かめたくて、身じろぐ彼女を抱きしめた。確かに彼女から発せられていて、扇情的なその匂いに触発されて理性が吹き飛んだ。気がつけば彼女に口づけをしていた。離したくない。重ねては離れる口づけを何度かして、彼女の目尻に涙が浮かんでいるのに気がつきようやく我に返った。頬を上気させ虚ろな目をしている彼女はその場にへたり込んでしまう。

 ――可愛い……
 
 そう思えたのは初めてではないだろうか。後に、彼女は菜胡という名前であること、整形外来の担当である事がわかり、棚原は内心喜んだ。

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