青が呼ぶ

水谷駿

星月夜


その知らせを聞いたのは、彼が姿を消して九日を過ぎた頃だった。

彼に別れを告げられた後、部屋に一人になった私は、中途半端に開いた棚の引き出しの中から一枚のデモテープと、置き手紙を見つけた。私には、そのとき彼が何を考え遂行しようとしていたのか、抽象的な手紙の文面からは詳らかには分からなかったが、何となく、これがただの別れでは終わらないような予感がしていた。彼がどこか遠く、手の届かない所へ行ってしまうような気がして、咄嗟に彼の後を追って部屋を飛び出した。

通りのカフェテラス、公園のベンチ、古本屋、楽器店、駅のホーム。どこを探しても彼の姿は見当たらなかった。

結局、その日から彼がこのアパートに帰ってくることはなかった。

それからのことはあまりよく覚えていない。仕事先からの着信で小刻みに震える鉄の塊を呆然と眺めながら、伽藍堂のアパートで、ただ時が過ぎるのを待っていた。

そんな矢先の一報だった。

***

小さい頃、音楽が大好きだった。

両親がなく祖父に育てられた私は、その複雑な家庭環境から周りの子どもたちと上手く馴染めず、学校が終わると寄り道もせず一人家路に就く、そんな日々を過ごしていた。

そんな私の唯一の自慢が、優しい祖父だった。疎外感に苛まれ学校が嫌いになった私を、祖父はよく

「大丈夫だよ。おじいちゃんがいるから」

そう言って寄り添ってくれたものだ。

***

祖父は学校から帰った私を笑顔で出迎え、その後よく散歩に連れて行ってくれた。私は電車が好きだったから、近くの踏切まで電車を見に連れて行ってくれたことを今でも覚えている。

「踏切の音が不気味に聴こえるのは、隣の音どうしが喧嘩しているからなんだ」

そう教えてくれた祖父は、作曲家だった。

***

個人作曲家であった祖父は、アコースティックギターを使って曲を書く人だった。祖父の書く曲はポピュラー音楽にしてはとても個性的で、他の誰にも真似ることのできないような唯一無二性が其処にはあった。

「ミラレソシミ、ミラレソシミ。ギターの呪文だよ」

ペグを回しながらおどけたように私に教えてくれたその言葉はなんだかとても可笑しくて、私をころころと笑わせた。

皺の寄った大きな手で奏でるギターの音色を聴いていると、親のいない寂しさもどこか薄れていくような気がして、その音に浸っている瞬間だけは現実を忘れられるような感覚だった。この時間がずっと続けば良いのに。そう願っていた。

あの日までは。

その日、いつものように私が居間でテレビを見ていると、どこか耳馴染みのある音楽が其処に流れてきた。そしてすぐに、私の疑問は確信に変わった。

(これは祖父の曲だ…!)

私は祖父を呼びに二階の書斎へと急いだ。大好きな祖父の曲がテレビで流れている。これ以上に嬉しいことはなかった。高鳴る鼓動を隠せないまま、書斎にいた祖父の手を取り、階段を下り居間へ駆け込んだ。

「すごいよ、おじいちゃん」

見上げた祖父の顔が、愕然としているのが分かった。

祖父の音楽が盗作された。

どうやら、かつて仕事で関わっていた作家事務所の人間に盗用されたらしかった。祖父は必死に抗議したものの、盗作を立証するに十分な証拠もなく、組織を前に一個人の主張など端から通る訳もなかった。

祖父の作ったその曲は、全く関係のない第三者の作品となった。

そしてその日を境に、祖父はギターを触らなくなった。

***

それ以来、私は音楽を――音楽を作る人間というものを嫌悪するようになった。

スピーカーから流れてくる音楽がどれも全部贋作のように聴こえた。世間に流れている音楽なんてどうせ誰かの模倣だ。心のどこかで、そう考えるようになった。

そしてその数ヶ月後、失意のうちに祖父は他界した。葬儀の席で親戚の話を聞くまで、祖父が心臓に病気を患っていたことを、私は知らなかった。

大好きだった祖父の音楽、あの傷だらけのアコースティックギターが奏でる音色だけが私の心の支えだった。親戚に引き取られた後も、私の心に空いた穴が埋まることはなかった。

そしてそのまま、時間だけが流れていった。

自分が生きている意味を見出せないまま、俯いた視線の先、私の影だけが日に日に大きくなっていった。この先やりたいことも、何も思いつかなかった。そんな私の人生を変えた日の話だ。

***

あの日、偶然立ち寄ったカフェテラスの向かいの通りから聴こえてきた音に、どこか懐かしい匂いがした。すぐにカフェを出た私は、何かに導かれるように其処に向かった。

息が止まった。

その青年が奏でる音楽には、紛れもなく私が長年探し求めていた響きがあった。あの日以来初めて、心が洗われていく感覚を覚えた。私の目にはまるで死んだ祖父が其処に立って歌っているように見えた。

彼の音楽をもっと知りたい。私を突き動かす情動はそれだけだった。

――これは、その青年が人生最後に遺した歌の物語だ。

***

今、私は街頭のスピーカーから流れる君の音楽を聴いている。

沢山の人で賑わう夜のネオン街。街行く人が君の歌を口遊んでいる。何度も推敲を繰り返し、魂を削って書いた君の歌詞、あの頃は誰にも届くことのなかった言葉たちが今、確かに此処に生きている。

今まで君を貶していた人間たちはどんな顔をしているだろう。君は最後の力を振り絞り、罵倒も薄笑いも全てひっくり返したのだ。

君は今、遠い空の向こうでこの景色を見ているだろうか。あの頃を、どう思っているだろうか。

汚れた空き箱――君がよくそう呼んでいたあのアパートで、私たちは見えない何かを探して必死に踠いていた。確かに恵まれた生活ではなかったけれど、私は君が作る音楽を傍で聴いていられたら、それだけで幸せだった。

今も君がいなくなった日を思い出して泣いてしまうことがある。君はそんな私を叱ってくれるだろうか。それとも、笑い飛ばしてくれるだろうか。そんなことを想いながら、今日もこの世界の片隅で君を描いている。

星が降る夜、君に会いに行こう。

あの汚れたアパートで君が聴かせてくれた歌を、私は生涯忘れることはないだろう。

「また君と会えるそのときまで、僕は天国で君を待っているから」

この綺麗な夜空を見ていたら、君がそう語りかけてくれるような気がした。

目を閉じた先に浮かんだ君は今、世間も、名声も、評価も、数字も、何の柵もない世界で、また昔のようにギターを弾きながら、大好きな音楽を――そして、今度は絶望を嘆く歌ではなく、希望に満ち溢れた歌を――自由に、高らかに、歌っている。

***

都会の喧騒を歩く。

今、街に流れている歌は賛美歌だ。皆が歌を歌い、君の人生を称えている。できることならこの景色を君と一緒に見たかった。君が一番見たかったであろうこの景色を君に見せてあげられなかったことが、私の唯一の後悔だ。そんなことを考えながら、街を歩いている。

君には信じられないかもしれないが、あの頃の生活が今では嘘のようだ。

君は何も間違ってなかった。涙で字が滲み、紙が破れるほどの筆圧で心ごと書き殴ったあのノート。其処に宿った思いが今、この夜空に輝いている。君は塵なんかではなかったのだ。

――だから今、伝えなければ。

――君の歌を歌う人々の声を、

――君の音楽が受け入れられたこの世界を、

――遠い空の向こうの君に、伝えなければ。

心の叫びに導かれ、私は夜空に触れるように、高く手を伸ばした。

***

月が射す夜、君に会いに行こう。

君があの孤独の日々の中から生み出した歌が、今此処に生きている。
そして今、今だけは、私は涙を拭かなければならない。

君を失くしたあの夏の悲しみが輝きに変わる瞬間を、この眼で見届けるために。

君がくれたこの景色を、私の心の中に灯し続けるために。

響け!

今宵、この星月夜が、君の音楽だ。

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