馬小屋暮らしのご令嬢嬢は案外領主に向いている?
7-20 長いか短いか
さっさと消え去りたいと思った。
自分の事などひとかけらすら存在しないくらい、いらない人間として。
それが最善だと思ったからだ。
だけれど。
ああ、だけれど。
――――忘れられるのが寂しいなんて、思ってしまう自分が嫌になる。
◇ ◇ ◇
さて、色々あったが、予定通りにガブリエラ・パナケアはライヤーと共にやって来た。
顔を合わせた時、彼女の青い目の下にくっきりとクマが出来ているのが見えた。どうやら寝る間も惜しんで仕事を片付けて来たらしい。丸眼鏡の向こうの目が爛々としているのを見ると、どうにも寝不足のおかしなテンションになっている気がする。
大丈夫かなとアナスタシアは思ったが、本人は至って元気そうに「目が覚める薬を飲んでいたから平気だとも!」と笑っていた。
それは果たして平気なのだろうか。どう考えても体に良くないのではと、さすがのアナスタシアも訝しんでいる。
そんな調子でガブリエラと挨拶を済ませると、直ぐに領騎士団の詰所に向かう事となった。
すでに話は通してあるので、到着した時にはテレンスは牢から出され、防犯のしっかりした個室にて待機させられていた。
ドアを開けて中へ入れば、テレンスが椅子に座ってくつろいでいる姿が見える。
テレンスはアナスタシア達を見てひらひらと、魔力の行使を封じる手枷がつけられた両手を振って出迎えた。
図太いのか、それとも単に諦めが良いのか。その辺りは相変わらず分からないが、何とものんびりしたものだ。
ちなみにそんなテレンスだが、意外な事に身だしなみはしっかりさせられていた。以前ここに入れられていたガースのように無精ひげも生えていない。
貴族や騎士隊長に会わせるという事で、身なりをある程度整えさせられたようだ。
(ガースさんが知ったら何か言いそうですねぇ)
そんな事を考えながら、アナスタシアはテレンスに声をかける。
「こんにちは、テレンスさん。お加減はいかがですか?」
「こんにちはおチビさん、この間ぶりですね。飯がマズイ事以外はわりと過ごしやすいですよ。プリンは?」
「まだちょっと用意出来ていないので」
「残念。ちょいと楽しみにしてたんですけど」
テレンスは肩をすくめた。
以前にガースは牢の食事は豚の餌だと言っていたが、やはりそうらしい。
一応どんな内容を出しているか確認した事はあるが、味よりは栄養を優先させた食事内容だった。
ただ味についてはわざとそうしているらしく「こんな食事をするくらいなら、二度と罪を犯して捕まらない」と思って貰いたいからなのだそうだ。
多少は味についても考えるべきだろうかと思ったが、そういう理由ならばそのままの方が良いかとアナスタシアは納得した。
「で、何です? また尋問ですか? さすがにもう話しませんから時間の無駄ですよ」
「今日は其方の診察だ」
「はぁ、そいつはご丁寧に。俺は健康ですがね」
ローランドが言えば、テレンスは肩をすくめてみせた。
そんなやり取りをしていると、一番後ろにいたガブリエラがひょいと顔を覗かせる。
「彼がそうかい?」
「ああ。テレンス・ワードと言う。ガブリエラ、早速だが頼む」
「まかせておきたまえ」
ガブリエラは快諾すると、つかつかと靴音を立ててテレンスの前に立った。
テレンスはヒュウ、と口笛を吹く。
「あらま、ガブリエラ隊長じゃないですか。近くで見ると、こいつはまたすげぇ美人のお姉様――」
そして軽口を叩こうとした時。
がしっと音が聞こえるような勢いで、ガブリエラはテレンスの顔を手で掴んだ。
「!?」
「ふむ、顔色はまぁ、さほど悪くないかな」
「いてててててて!」
テレンスの様子には構わず、ガブリエラは力づくで右を向かせ左を向かせ調べている。
言葉通り顔色を見ているのだろうが、少々力が強過ぎるのではなかろうかとアナスタシアは思った。それにしても。
「実に見事な握力。憧れますねぇ」
「あらー、テレンスの奴、顔がすごい事になってるなー」
「ちょっと、おい! 何を揃ってのんきな事を言ってんだ! 見てないで止めてくれ! ギリギリ言ってる! ギリギリ言ってるから!」
ついにはテレンスから悲鳴が上がった。
領都を夢魔の霧で覆った際に戦った時より、痛そうな声を出している気がする。
どうしたものかとローランドを見上げると、さすがに思うところがあったのだろう。彼は「待ちなさい」とガブリエラを止めた。
「ガブリエラ、加減をしなさい」
「何を言うんだい、ローランド君! 胡桃を素手で割るよりは弱い力だよ!」
「胡桃を割る力加減を基準にするんじゃない」
思わずローランドは頭を抱えた。
あの硬い胡桃を素手で割るなんて相当な握力である。出来るのだろうかとシズに視線を向ければ、彼は神妙な顔で頷いた。
出来るらしい。アナスタシアは軽く慄いた。
そうしているとガブリエラはテレンスから手を離し、懐から何かを取り出した。
何かの種のようだ。キラキラと煌めいて見える気がする。種、キラキラ、それと同じ特徴を持つのは……と考えて、アナスタシアはそれが何なのか思いついた。
「『花鏡の種』ですね」
「そうとも! よく勉強をしているね!」
アナスタシアの言葉に、ガブリエラが感心したように言った。
花鏡の種とは鏡のような花弁を持つ植物の事だ。
氷花湿原のような寒い場所で育つ花で、解析を目的とした魔法の媒介で使われる事が多い。
種の名前を聞いてシズも「なるほど」と頷いた。
「あー、あの切れ味のある花かー」
「萎れるまででしたら、簡単なナイフ代わりになるから面白いんですよね」
道具がない時に近くにあったら便利である。
そんな話をしながら見ていると、ガブリエラは呪文を唱えながら種を指で潰した。
するとガブリエラの指先が銀色に光り始める。その指をガブリエラはテレンスの額にあてた。光はテレンスの身体に吸い込まれて行く。
少ししてガブリエラとテレンスの目が、光と同じ銀色に染まった。
時間としては数十秒だ。
光が消え、元の目の色に戻ると、
「…………なるほど」
と呟いてガブリエラは手を放した。
「確かに魂が夢魔の霧で補完されている。周辺に出ている異変もそれが原因だろうね。少々手間がかかるが処置は可能だよ」
「そうか、すまないな」
「いや、気にしないでくれたまえ。珍しい症例が見られてありがたいよ。……それよりもテレンスと言ったかな」
ガブリエラは再びテレンスに視線を向ける。
その眼差しに哀れみのような色が混ざっているように、アナスタシアには感じられた。
「はいはい、何です?」
「今までにだいぶ魂を使っているね。あと十年、生きる事ができるかどうかだ」
「…………へぇ」
ぽつりとテレンスは呟く。そして今までの軽薄そうな表情に変化が見られた。
だが。
彼が浮かべているのは安堵と落胆が混ざった複雑な表情だった。
落胆は分かるが、安堵できる話ではなかったはずだ。アナスタシアが疑問を感じていると、
「意外と長いんだ」
とテレンスは言い、目を伏せた。
「まるで死にたいような言い方だな」
「そんな事はないですけどねぇ」
テレンスは、ハハ、と笑う。
声に力はない。
明らかに様子が変わった。寿命を突きつけられてショックを受けた――ようには見える。
だが長いとはどういう事なのだろうか。
そう思ったら自然と口が開いた。
「自分自身で感じる十年は短いです。私の人生分ですよ」
「そうですかね……。……ではその十年、お嬢様はどうでしたか?」
「どうとは?」
「楽しかった? 苦しかった? 辛かった? それとも幸せだった?」
テレンスは重ねるように問いかけてくる。
苛立ちと憤り。彼の声からはそんな感情が感じ取れた。
テレンスの目を真っ直ぐに見ながらアナスタシアは答える。
「全部となるとうろ覚えですが、それでも覚えている半分以上は幸せでした」
「そうですか。……まぁ、そうでしょうね。生まれて十年は、そんなに覚えちゃいないでしょう」
そこで一度言葉を区切り、テレンスは「でもね」と続ける。
「俺達大人はそうじゃない。少なくとも俺は十年ほとんど全部覚えている。悪い事ならなおさらだ。お嬢様には分からないでしょうが、無い方が良い十年もあるんですよ」
最後にはすべてを諦めたような声で彼は言った。
シズの顔が強張るのが分かった。ローランドやライヤーも怪訝そうな目を彼に向けている。
ガブリエラはため息を吐くと、
「……当人が納得してやった事を他人は否定出来ない。だけど君が取った方法は、愚かなやり方だと私は思う」
「愚かで結構」
ハハハ、とテレンスは声を上げて笑う。
「元より俺は、価値なんてない人間だ」
そして自嘲するように、そう言ったのだった。
◇ ◇ ◇
アナスタシア達が帰って行ったあと、テレンスは再び元の牢へと戻されていた。
「馬鹿力過ぎる……」
ベッドに腰かけて、ガブリエラに掴まれた顔を手でさすり、ハァ、とため息を吐く。
テレンスもガブリエラ・パナケアという隊長の事は知っていた。
何せ『薬師パナケア』の人間だ。嫌でも目に付く。
特にテレンスが所属していたホーン隊の隊長なんて、本人のいないところでは散々な言い様だった。
しかし彼女はそんな悪評などもろともせずに、ただただ前へ前へと歩んでいた。
堂々と胸を張って。
(――俺とは大違いだな)
自嘲気味に、心の中で独り言つ。
薬師パナケアに関する噂の類が事実か否かはともかくとして、あれはそんな世間の評価に折れず、諦めなかった人間の姿だ。
その事がテレンスは誰よりも理解出来た。なぜなら自分と正反対だからだ。
そうして考えていたら、この領地の領主候補の顔が浮かんだ。以前も今も、酷い言葉を浴びせたという自覚がある。
しかしあの子供は傷ついた顔一つせず、ただ真っ直ぐに菫色の瞳をこちらに向けていた。
「あのおチビさんの人生分かぁ……何というか、例えられると不思議なもんだ」
「――おや、何が不思議なんです?」
「!」
その時、その場にいないはずの人間の声が聞こえた。知っている声だ。
反射的にテレンスは身構え、声の出所を探す。
そもそもこんな場所にいるはずがないのだ、あの男が。
どこに、と思っていると、不意にテレンスの胸から黒色の靄が浮かび上がる。
まるで皮膚をはぎ取られるような苦痛を感じ、テレンスは呻きながら胸を掴んだ。
その間にもその靄は出続け、やがて目の前にうっすらと人の姿が現れた。
長い黒髪を後ろで縛り、眼鏡をかけた、蛇のような印象を感じる男。
レイヴン伯爵家長男の従者、ヴィットーレ・ヴュルガーだ。
「……ふむ、こんなものですか。あまり上手くは行きませんねぇ」
「おま、え……! どういう……!」
蹲り、脂汗をかきながらテレンスはヴィットーレを睨む。
しかし彼は涼しい顔――あまり鮮明でないが――で「ああ」と笑う。
「フフ。あなたに死霊術を教えたの、私ですからねぇ。事前に仕込むくらいは造作もない事ですよ。……ま、この程度が限界ですけど」
「そん、な事、を……聞いているんじゃない……!」
「でしょうね」
ヴィットーレはおどけた調子で軽く手を開いて見せた。
「なぁに、テレンスさんが頑張ってくださったので、ちょっとだけご褒美をと思いまして」
「ハ……そいつはまた、ずいぶんご丁寧な事だ」
「フフ、喜んで頂けて嬉しいですよ」
嫌味を言っても通じない。出会った時からこの男はいつもこうだ。
余裕ぶった振る舞いと、本心を悟らせないような言い回し。ある意味で道化にも見えて、テレンスはヴィットーレが嫌いだった。
褒美なんて言っているが、どうせ碌な事ではない。そうテレンスが思っていると、
「あなたの家族の事、バレましたよ」
ヴットーレはそう言った。テレンスの目がこれでもかというくらい見開かれる。
「な……」
「あなたの元上司。ちょっと王都で騒ぎを起こしましたねぇ。それにアナスタシアお嬢様達が巻き込まれていまして。取り調べの過程で出た情報が、ローランド監査官の耳に入ったらしいです。近々ご家族に連絡が行くんじゃないですかねぇ」
「…………」
聞いている内に、テレンスは自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。
「家族を守りたいんでしょう? バレたら見捨てて欲しいんでしょう? 良い方法があるんですよ」
「……何をさせようというんだ」
「フフ、何、簡単な事ですよ。最後のお仕事です。あなたの残りの魂を、有効活用すれば良いだけですから。建前は、そうですね。素性がバレたあなたは追及を逃れようとして暴走した――なんて筋書きは如何です?」
どろりと毒を流し込むようにヴィットーレは話す。
ああ、嫌な目だとテレンスは心の中で吐き捨てる。
「方法は」
「あなたの魂を糧にして不死系の魔獣や危険種を呼び寄せる、対処がとても面倒くさい死霊術。教えたでしょう? どうせもう、あなたの魂はボロボロで、地に足を着けていられなくらい軽い。……まぁ、軽くても、どうしようもない沼には沈む一方ですけれど」
「…………」
「家族から必要とされなくなって、見放されていなくなりたいんでしょう? ちょうど良い方法ですよ。せいぜい役に立ってくださいな」
「ハッ、レイヴン伯爵家は問題ばかり起きるって印象付けたいわけか。あんた本当に、レイヴン伯爵領を潰したいんだな」
ヴィットーレは「そうですねぇ」と、笑みを深める。
「そのために、私は生まれたようなものですので」
そう言うとヴィットーレを形どっていた霧は、ふわり、と霧散したのだった。
自分の事などひとかけらすら存在しないくらい、いらない人間として。
それが最善だと思ったからだ。
だけれど。
ああ、だけれど。
――――忘れられるのが寂しいなんて、思ってしまう自分が嫌になる。
◇ ◇ ◇
さて、色々あったが、予定通りにガブリエラ・パナケアはライヤーと共にやって来た。
顔を合わせた時、彼女の青い目の下にくっきりとクマが出来ているのが見えた。どうやら寝る間も惜しんで仕事を片付けて来たらしい。丸眼鏡の向こうの目が爛々としているのを見ると、どうにも寝不足のおかしなテンションになっている気がする。
大丈夫かなとアナスタシアは思ったが、本人は至って元気そうに「目が覚める薬を飲んでいたから平気だとも!」と笑っていた。
それは果たして平気なのだろうか。どう考えても体に良くないのではと、さすがのアナスタシアも訝しんでいる。
そんな調子でガブリエラと挨拶を済ませると、直ぐに領騎士団の詰所に向かう事となった。
すでに話は通してあるので、到着した時にはテレンスは牢から出され、防犯のしっかりした個室にて待機させられていた。
ドアを開けて中へ入れば、テレンスが椅子に座ってくつろいでいる姿が見える。
テレンスはアナスタシア達を見てひらひらと、魔力の行使を封じる手枷がつけられた両手を振って出迎えた。
図太いのか、それとも単に諦めが良いのか。その辺りは相変わらず分からないが、何とものんびりしたものだ。
ちなみにそんなテレンスだが、意外な事に身だしなみはしっかりさせられていた。以前ここに入れられていたガースのように無精ひげも生えていない。
貴族や騎士隊長に会わせるという事で、身なりをある程度整えさせられたようだ。
(ガースさんが知ったら何か言いそうですねぇ)
そんな事を考えながら、アナスタシアはテレンスに声をかける。
「こんにちは、テレンスさん。お加減はいかがですか?」
「こんにちはおチビさん、この間ぶりですね。飯がマズイ事以外はわりと過ごしやすいですよ。プリンは?」
「まだちょっと用意出来ていないので」
「残念。ちょいと楽しみにしてたんですけど」
テレンスは肩をすくめた。
以前にガースは牢の食事は豚の餌だと言っていたが、やはりそうらしい。
一応どんな内容を出しているか確認した事はあるが、味よりは栄養を優先させた食事内容だった。
ただ味についてはわざとそうしているらしく「こんな食事をするくらいなら、二度と罪を犯して捕まらない」と思って貰いたいからなのだそうだ。
多少は味についても考えるべきだろうかと思ったが、そういう理由ならばそのままの方が良いかとアナスタシアは納得した。
「で、何です? また尋問ですか? さすがにもう話しませんから時間の無駄ですよ」
「今日は其方の診察だ」
「はぁ、そいつはご丁寧に。俺は健康ですがね」
ローランドが言えば、テレンスは肩をすくめてみせた。
そんなやり取りをしていると、一番後ろにいたガブリエラがひょいと顔を覗かせる。
「彼がそうかい?」
「ああ。テレンス・ワードと言う。ガブリエラ、早速だが頼む」
「まかせておきたまえ」
ガブリエラは快諾すると、つかつかと靴音を立ててテレンスの前に立った。
テレンスはヒュウ、と口笛を吹く。
「あらま、ガブリエラ隊長じゃないですか。近くで見ると、こいつはまたすげぇ美人のお姉様――」
そして軽口を叩こうとした時。
がしっと音が聞こえるような勢いで、ガブリエラはテレンスの顔を手で掴んだ。
「!?」
「ふむ、顔色はまぁ、さほど悪くないかな」
「いてててててて!」
テレンスの様子には構わず、ガブリエラは力づくで右を向かせ左を向かせ調べている。
言葉通り顔色を見ているのだろうが、少々力が強過ぎるのではなかろうかとアナスタシアは思った。それにしても。
「実に見事な握力。憧れますねぇ」
「あらー、テレンスの奴、顔がすごい事になってるなー」
「ちょっと、おい! 何を揃ってのんきな事を言ってんだ! 見てないで止めてくれ! ギリギリ言ってる! ギリギリ言ってるから!」
ついにはテレンスから悲鳴が上がった。
領都を夢魔の霧で覆った際に戦った時より、痛そうな声を出している気がする。
どうしたものかとローランドを見上げると、さすがに思うところがあったのだろう。彼は「待ちなさい」とガブリエラを止めた。
「ガブリエラ、加減をしなさい」
「何を言うんだい、ローランド君! 胡桃を素手で割るよりは弱い力だよ!」
「胡桃を割る力加減を基準にするんじゃない」
思わずローランドは頭を抱えた。
あの硬い胡桃を素手で割るなんて相当な握力である。出来るのだろうかとシズに視線を向ければ、彼は神妙な顔で頷いた。
出来るらしい。アナスタシアは軽く慄いた。
そうしているとガブリエラはテレンスから手を離し、懐から何かを取り出した。
何かの種のようだ。キラキラと煌めいて見える気がする。種、キラキラ、それと同じ特徴を持つのは……と考えて、アナスタシアはそれが何なのか思いついた。
「『花鏡の種』ですね」
「そうとも! よく勉強をしているね!」
アナスタシアの言葉に、ガブリエラが感心したように言った。
花鏡の種とは鏡のような花弁を持つ植物の事だ。
氷花湿原のような寒い場所で育つ花で、解析を目的とした魔法の媒介で使われる事が多い。
種の名前を聞いてシズも「なるほど」と頷いた。
「あー、あの切れ味のある花かー」
「萎れるまででしたら、簡単なナイフ代わりになるから面白いんですよね」
道具がない時に近くにあったら便利である。
そんな話をしながら見ていると、ガブリエラは呪文を唱えながら種を指で潰した。
するとガブリエラの指先が銀色に光り始める。その指をガブリエラはテレンスの額にあてた。光はテレンスの身体に吸い込まれて行く。
少ししてガブリエラとテレンスの目が、光と同じ銀色に染まった。
時間としては数十秒だ。
光が消え、元の目の色に戻ると、
「…………なるほど」
と呟いてガブリエラは手を放した。
「確かに魂が夢魔の霧で補完されている。周辺に出ている異変もそれが原因だろうね。少々手間がかかるが処置は可能だよ」
「そうか、すまないな」
「いや、気にしないでくれたまえ。珍しい症例が見られてありがたいよ。……それよりもテレンスと言ったかな」
ガブリエラは再びテレンスに視線を向ける。
その眼差しに哀れみのような色が混ざっているように、アナスタシアには感じられた。
「はいはい、何です?」
「今までにだいぶ魂を使っているね。あと十年、生きる事ができるかどうかだ」
「…………へぇ」
ぽつりとテレンスは呟く。そして今までの軽薄そうな表情に変化が見られた。
だが。
彼が浮かべているのは安堵と落胆が混ざった複雑な表情だった。
落胆は分かるが、安堵できる話ではなかったはずだ。アナスタシアが疑問を感じていると、
「意外と長いんだ」
とテレンスは言い、目を伏せた。
「まるで死にたいような言い方だな」
「そんな事はないですけどねぇ」
テレンスは、ハハ、と笑う。
声に力はない。
明らかに様子が変わった。寿命を突きつけられてショックを受けた――ようには見える。
だが長いとはどういう事なのだろうか。
そう思ったら自然と口が開いた。
「自分自身で感じる十年は短いです。私の人生分ですよ」
「そうですかね……。……ではその十年、お嬢様はどうでしたか?」
「どうとは?」
「楽しかった? 苦しかった? 辛かった? それとも幸せだった?」
テレンスは重ねるように問いかけてくる。
苛立ちと憤り。彼の声からはそんな感情が感じ取れた。
テレンスの目を真っ直ぐに見ながらアナスタシアは答える。
「全部となるとうろ覚えですが、それでも覚えている半分以上は幸せでした」
「そうですか。……まぁ、そうでしょうね。生まれて十年は、そんなに覚えちゃいないでしょう」
そこで一度言葉を区切り、テレンスは「でもね」と続ける。
「俺達大人はそうじゃない。少なくとも俺は十年ほとんど全部覚えている。悪い事ならなおさらだ。お嬢様には分からないでしょうが、無い方が良い十年もあるんですよ」
最後にはすべてを諦めたような声で彼は言った。
シズの顔が強張るのが分かった。ローランドやライヤーも怪訝そうな目を彼に向けている。
ガブリエラはため息を吐くと、
「……当人が納得してやった事を他人は否定出来ない。だけど君が取った方法は、愚かなやり方だと私は思う」
「愚かで結構」
ハハハ、とテレンスは声を上げて笑う。
「元より俺は、価値なんてない人間だ」
そして自嘲するように、そう言ったのだった。
◇ ◇ ◇
アナスタシア達が帰って行ったあと、テレンスは再び元の牢へと戻されていた。
「馬鹿力過ぎる……」
ベッドに腰かけて、ガブリエラに掴まれた顔を手でさすり、ハァ、とため息を吐く。
テレンスもガブリエラ・パナケアという隊長の事は知っていた。
何せ『薬師パナケア』の人間だ。嫌でも目に付く。
特にテレンスが所属していたホーン隊の隊長なんて、本人のいないところでは散々な言い様だった。
しかし彼女はそんな悪評などもろともせずに、ただただ前へ前へと歩んでいた。
堂々と胸を張って。
(――俺とは大違いだな)
自嘲気味に、心の中で独り言つ。
薬師パナケアに関する噂の類が事実か否かはともかくとして、あれはそんな世間の評価に折れず、諦めなかった人間の姿だ。
その事がテレンスは誰よりも理解出来た。なぜなら自分と正反対だからだ。
そうして考えていたら、この領地の領主候補の顔が浮かんだ。以前も今も、酷い言葉を浴びせたという自覚がある。
しかしあの子供は傷ついた顔一つせず、ただ真っ直ぐに菫色の瞳をこちらに向けていた。
「あのおチビさんの人生分かぁ……何というか、例えられると不思議なもんだ」
「――おや、何が不思議なんです?」
「!」
その時、その場にいないはずの人間の声が聞こえた。知っている声だ。
反射的にテレンスは身構え、声の出所を探す。
そもそもこんな場所にいるはずがないのだ、あの男が。
どこに、と思っていると、不意にテレンスの胸から黒色の靄が浮かび上がる。
まるで皮膚をはぎ取られるような苦痛を感じ、テレンスは呻きながら胸を掴んだ。
その間にもその靄は出続け、やがて目の前にうっすらと人の姿が現れた。
長い黒髪を後ろで縛り、眼鏡をかけた、蛇のような印象を感じる男。
レイヴン伯爵家長男の従者、ヴィットーレ・ヴュルガーだ。
「……ふむ、こんなものですか。あまり上手くは行きませんねぇ」
「おま、え……! どういう……!」
蹲り、脂汗をかきながらテレンスはヴィットーレを睨む。
しかし彼は涼しい顔――あまり鮮明でないが――で「ああ」と笑う。
「フフ。あなたに死霊術を教えたの、私ですからねぇ。事前に仕込むくらいは造作もない事ですよ。……ま、この程度が限界ですけど」
「そん、な事、を……聞いているんじゃない……!」
「でしょうね」
ヴィットーレはおどけた調子で軽く手を開いて見せた。
「なぁに、テレンスさんが頑張ってくださったので、ちょっとだけご褒美をと思いまして」
「ハ……そいつはまた、ずいぶんご丁寧な事だ」
「フフ、喜んで頂けて嬉しいですよ」
嫌味を言っても通じない。出会った時からこの男はいつもこうだ。
余裕ぶった振る舞いと、本心を悟らせないような言い回し。ある意味で道化にも見えて、テレンスはヴィットーレが嫌いだった。
褒美なんて言っているが、どうせ碌な事ではない。そうテレンスが思っていると、
「あなたの家族の事、バレましたよ」
ヴットーレはそう言った。テレンスの目がこれでもかというくらい見開かれる。
「な……」
「あなたの元上司。ちょっと王都で騒ぎを起こしましたねぇ。それにアナスタシアお嬢様達が巻き込まれていまして。取り調べの過程で出た情報が、ローランド監査官の耳に入ったらしいです。近々ご家族に連絡が行くんじゃないですかねぇ」
「…………」
聞いている内に、テレンスは自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。
「家族を守りたいんでしょう? バレたら見捨てて欲しいんでしょう? 良い方法があるんですよ」
「……何をさせようというんだ」
「フフ、何、簡単な事ですよ。最後のお仕事です。あなたの残りの魂を、有効活用すれば良いだけですから。建前は、そうですね。素性がバレたあなたは追及を逃れようとして暴走した――なんて筋書きは如何です?」
どろりと毒を流し込むようにヴィットーレは話す。
ああ、嫌な目だとテレンスは心の中で吐き捨てる。
「方法は」
「あなたの魂を糧にして不死系の魔獣や危険種を呼び寄せる、対処がとても面倒くさい死霊術。教えたでしょう? どうせもう、あなたの魂はボロボロで、地に足を着けていられなくらい軽い。……まぁ、軽くても、どうしようもない沼には沈む一方ですけれど」
「…………」
「家族から必要とされなくなって、見放されていなくなりたいんでしょう? ちょうど良い方法ですよ。せいぜい役に立ってくださいな」
「ハッ、レイヴン伯爵家は問題ばかり起きるって印象付けたいわけか。あんた本当に、レイヴン伯爵領を潰したいんだな」
ヴィットーレは「そうですねぇ」と、笑みを深める。
「そのために、私は生まれたようなものですので」
そう言うとヴィットーレを形どっていた霧は、ふわり、と霧散したのだった。
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