馬小屋暮らしのご令嬢嬢は案外領主に向いている?
5-11 夢は覚めるからからこそ夢であり
その声が聞こえたとたんに、ふわり、とアナスタシアの周りにシャボン玉のような光が現れた。
最初にこの夢の中へ入った時に見たあのシャボン玉だ。
ひとつ、またひとつ。光りは増えていき、まるで星の光の様に、優しく暗闇を照らし始める。
「今の声……お母様?」
ふわふわと自分の目の前へ漂ってきた光を見て、アナスタシアは呟いた。
聞き覚えのある、優しい声だった。誰よりもたくさん聞いた声だった。
そして――――時折、どうしても聞きたくてたまらなくなるくらい、大好きな声だった。
アナスタシアは辺りを見回す。けれど、そこに母の姿はない。
誰もいない、その代わりに。
シャボン玉のような光がふわりと動き、アナスタシアを導くように、前へと進みだした。
「リヒト・ベーテンの夜……」
ぽつりと呟く。
あの声は、もしかしたらただの気のせいだったのかもしれない。
この夢の世界が与えてくれた、ただの都合の良いものだったかもしれない。
だけど、そうだとしても。
アナスタシアは泣きたくなるくらい嬉しかった。
リヒト・ベーテンの夜に、母はちゃんと帰って来てくれていた。姿は見えなくともちゃんと傍にいてくれたと思えたから。
「お母様……」
目の奥が熱くなって、アナスタシアは服の袖でごしごしと、慌ててそれを拭った。
そしてぐっと顔を上げ光を追いかける。
辺りは黒一色に塗りつぶされて見えない。けれど足は軽かった。
闇の中を光を追って真っ直ぐにアナスタシアは進む。
そうしてどのくらい歩いたか分からない。
けれどしばらくして暗闇は、
パチン、
とシャボン玉が弾けるように消え去った。
目の前が突然明るくなる。
「わあ!」
眩しさにアナスタシアは思わず、目をぎゅっと閉じる。
少しして薄っすらと開けると、目の前に広がっていたのは金色の薔薇の咲く綺麗な庭園だった。
そこからは何やら楽し気な笑い声が聞こえる。どうやらガーデンパーティーを開いている様だった。
料理の乗ったテーブルを囲んで、大人達が笑い合っている。
「あれは……オーギュスト伯父様とプリメラさんとお父様と……お祖父様?」
他にも数人いたが、中心にいるのはその四人だ。オーギュスト以外は、先ほど見た時と同じ、若い姿である。
彼らの間に、先ほどまでの険悪な雰囲気はない。ただ穏やかに笑い合っていた。
優しくて、暖かくて。明るくて、幸せで。
そして――――現実ではない光景。ナイトメアが見せた幸せな夢。
きっとこれが、オーギュストが望んだ世界なのだろう。
「――――……」
ずっとこの夢の中にいられれば、オーギュストはある意味で幸せでいられるはずだ。
けれど、そうさせないためにアナスタシアは来たのだ。
夢は覚めるから夢であり、冷めない夢はどれほどに幸せであっても悪夢と同じだ。
アナスタシアはぐっと拳を握って、
「オーギュスト伯父様!」
と腹に力を入れ、声を張り上げ名を呼んだ。
大きな声だったが、それに反応を見せたのはオーギュストただ一人。他の者達は誰もアナスタシアに気付かない様子だった。
「アナスタシア……?」
オーギュストはアナスタシアを見て目を瞬いた。
最初はよく分からないと言った顔だった。
首を傾げたオーギュストの口が、あれ、と動く。
それからややあって、彼はハッとした様子で、周囲を見回した。
「ああ、そうか。……そうか、これは……夢だった」
その呟きがアナスタシアの耳に届く。
そんなオーギュストに、プリメラは声をかける。
「オーギュスト? どうしたの?」
「…………いや。いいや、何でも、ないんだ」
オーギュストは首を横に振ると、一度強く目を閉じた。
それからその場を離れ、アナスタシアの元へとやって来た。
彼は目の前までくると、しゃがんでアナスタシアと視線を合わせてくれる。
「やあ、アナスタシア。……僕を迎えに来てくれたのかい?」
「はい、オーギュスト伯父様」
「そうか」
「伯父様、ここはとても綺麗な場所ですね」
「フフ、そうだろう? 綺麗で、あたたかくて、優しくて……僕が欲しかったものが詰まってる」
そう言って、オーギュストはもう一度、自分が今までいた場所を振り返る。
そこでは変わらず穏やかな光景が続いていた。
誰もが笑顔で、穏やかで、幸せそうで。
でも。
「……だけどこれは、夢なんだよなぁ」
オーギュストは少し震えた声でそう言った。
「……ああ、本当に……ずっとここに、いたかったなぁ……」
名残惜しそうに言って、彼はプリメラやベネディクト達を見つめる。
そこではベネディクト達に受け入れられたプリメラが、嬉しそうに微笑んでいる。オーギュストを見て手を振っている。
オーギュストは服の袖で目を拭った。
「……だけどこれは夢だ。僕は夢の君に会いたいんじゃない。例えもういなくても、例え家族に認められなくても、僕は現実にいる君がいい。現実にいる家族がいい」
微かに声が震えた。けれど、それ以上にはっきりとした意志で、オーギュストは言う。
そして立ち上がり、アナスタシアを見下ろした。
その菫色の目には強い光が宿っている。
「僕は起きるよ、アナスタシア。僕を、迎えに来てくれてありがとう」
オーギュストは笑う。そしてもう一度だけプリメラを見てから、彼は目を閉じた。
そのとたんにオーギュストから白く強い光が放たれる。
夢の世界が白く、白く、染まっていく。
その時アナスタシアの背中に、ふっと誰かの手が触れた。
『――――行ってらっしゃい、私のナーシャ』
あ、とアナスタシアは目を瞬く。
それから振り返り、そして――――。
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