馬小屋暮らしのご令嬢嬢は案外領主に向いている?

石動なつめ

閑話 雨の日は空を馬が飛ぶらしい


 レイヴン伯爵領では毎年、秋の半ばに一週間ほど雨が降ることがある。
 強い雨ではなく小雨の程度のもので、一日の間に降ったり止んだりを繰り返すのが特徴だ。
 
 さて、そんな長雨だが、アナスタシア達がロンドウィックから戻って来たあと、ちょうどその期間となった。
 レイヴン伯爵邸広間の窓から見える曇天からは、しとしとと静かな雨が降っている。
 時期が時期ならば恵みの雨とも呼べるくらいに優しい雨だ。
 そんな空を、広間のソファーに座ってちらちらとアナスタシア見ている。
 アナスタシアの表情は空模様とは反対に明るい。と、言うか、何だかワクワクした様子である。

 ちらちら、そわそわ。
 やや落ち着きのないアナスタシアに気付いて、向かいに座ったローランドが顔を上げた。
 すると同じタイミングでアナスタシアはぐっと両手の拳を握り、

「ローランドさん、雨です!」

 と元気に言った。

「雨だな。何故そんなに君のテンションが高いのか不思議だが」
「だって雨の日には、空を馬が飛ぶんでしょう?」

 楽しげに声を弾ませるアナスタシアに、彼女の隣に座っていたシズが「馬?」と目を丸くした。

「えっそうなの?」
「はい! 馬のみんなに聞きました」

 どうやら馬たちの情報らしい。
 シズは顎に手を当てて、向かいのライヤーに視線を向ける。

「馬かぁ……ライヤー隊長、知ってます?」

 ローランドの隣で書類を読んでいたライヤーは、一度その手を止めて「うーん」と唸った。

「馬、馬かぁ。馬が飛んでいるの見た事がないなぁ……。空を飛ぶとなると天馬の類……」

 考えながらそこまで言ったライヤーは、そこで「あ」と呟く。
 何か思い当たるものがあったようだ。

「そう言えば、そんな伝説があったな」
「伝説?」
「ああ。レイヴン伯爵領は毎年の秋、一週間くらい小雨が降り続く日があるだろう? ちょうど今だな。その雨は、慈雨の天馬ティシュトリヤが翼を休めているためだという話だよ」

 人差し指を立ててライヤーはそう話す。
 話を聞いて自然とアナスタシアたちの目が窓の外へ向けられた。

 今降っているこの小雨は、秋の長雨や慈雨の長雨、または天馬の雫と呼ばれる現象だ。
 一週間くらい降り続くこの雨には、慈雨の天馬ティシュトリヤが、雲の上でその身体を休めるために畳んだ翼についた水滴を振り払うから、という伝説がある。

 伝説を知っている、知らないはともかくとして、レイヴン伯爵領では秋の風物詩として親しまれているが、実はこの長雨は他の領地でも発生する。秋ではなく春や夏など、季節こそ違うものの伝えられている伝説はほぼ同じものであった。

 さて、そんな馬のお話。
 これを聞いたアナスタシアは「うわぁ……!」と目を輝かせた。
 それを見たシズは、

(あ、これ探しに行きたいって言う奴だ)

 と思った。その予想は的中する。

「探し……」
「却下」

 しかし、ローランドによって即座に遮られた。

「まだ全部言っていないのに……」
「何の情報もない状態で、空だけ見上げて探し回るつもりか?」

 ローランドは半眼になって小さくため息を吐く。
 あまりにすげなく却下されたものだから、アナスタシアは肩を落とした。
 そんなアナスタシアを、シズは苦笑しながらフォローする。

「まー、あれですよね! 言葉だけ聞くとロマンはありますよね!」
「ロマンも良いが、風邪を引くだろう?」

 シズの言葉にローランドは怪訝そうに首を傾げた。
 どうやら却下した理由は別の方面にあったらしい。
 アナスタシアの体調を心配するローランドの言葉に、シズは「あ、そっち」と納得した。

「天候が良かったら良いんですね?」
「ああ。秋の雨は冷えるからな。アナスタシア、雨が上がったら探しに出かけても構わない。護衛にはシズをつけておく」
「本当ですか!」

 とたんにアナスタシアの目が輝いた。

「君は本当に馬が好きだな」
「好きです!」
「そうか、それは何よりだ。……まぁ、そう、子供は外でも遊んだ方が良いとも聞いたからな」
「確かに、室内にこもりっぱなしは身体に良くないですね」

 ライヤーがそう言うと、アナスタシアはきょとんとした顔で首を傾げる。

「私は常日頃馬小屋でしたが」
「それは確かに室内……室内?」

 頷きかけたライヤーは「はて」と顎に手を当てる。
 馬小屋は確かに室内ではあると思うのだが、何か違う気もしたからだ。

「でも、そうなると雨の日に外出しなければならない皆さんは大変ですね」
「ん? ああ、いやいや、さすがにそのまま出ることはないから」
「そうなんですか?」
「うん。レインコートを着ているか、雨傘を使うかしているよ」
「アマガサとは?」

 聞き慣れない言葉をアナスタシアが聞き返すと、シズが目を瞬く。

「ん? アナスタシアちゃん、傘、知らない?」
「レインコートは言葉から想像がつくんですが、カサというものは今一つ」
「うーん……そうだな。日傘の雨版というか……」
「ヒガサ?」

 また新しい単語が出てきた。
 アナスタシアが不思議そうにしていると、ローランドが「ふむ」と腕を組んだ。

「あまり外に出る機会がなかったからか。……傘というものは、こういった雨や、日差しから身体を守るものだ」
「つまり盾!」
「盾……まぁ、盾……か? 見た目は似ていなくもないな」

 盾としての役割は多少果たせそうなので、そうとも言えるかもしれない。
 そんな事を考えながら、ローランドは近くに控えていた使用人に「この屋敷に傘はあるだろうか?」と声をかけた。
 レイヴン伯爵邸に古くから仕えている使用人のマーガレットだ。彼女はしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、にこにこ頷く。

「ええ、ええ、ございますよ。ロザリー、持ってきてさしあげて」

 そう言ってマーガレットは、自分の隣に立っていた若い使用人に指示を出す。
 若い使用人は「ひゃい!」と噛みながら返事をする。それを聞いたアナスタシア達は全く同じタイミングで「噛んだ」と呟いた。

 さて、ロザリーと呼ばれたこの使用人。彼女はロンドウィックで悪さを働いたカスケード商会の商人だ。
 あの事件の際に、アナスタシアはロザリーの身柄を預かると宣言した。ロザリーはロンドウィックでの呪いの被害による後始末を終えたあと、カスケード商会が保障した賠償金を返済するためという名目で、この屋敷で働くようになったのである。
 これはアナスタシアの提案によるものだ。ガースと比べて対応が甘いとはローランドやライヤーたちも思ったが、ロザリー本人に反省の色が濃かったのと、アナスタシアが「捕えてただ刑を待つより、働いて返して貰った方が有意義では?」と言ったのも大きい。

 まぁ、そんなわけで、ロザリーはレイヴン伯爵邸の新人使用人として雇われる事となった。
 こういった仕事は初めてらしいロザリーは、失敗しつつも毎日せっせと真面目に働いている。そんなロザリーをアナスタシアはこっそり「頑張れ」と応援していた。

「場所は分かるかしら?」
「ひゃい! だ、大丈夫です、行ってきます!」

 相変わらず噛みながら頷くと、ロザリーはくるりと方向転換――――して数歩進んだところで転んだ。恐らく慌てるあまり足がもつれたのだろう。
 顔から床にダイブしたロザリーを見てアナスタシアは「あっ」と思わず声をかけようとしたが、それより早く彼女は起き上がり、鼻をさすりながらバタバタと広間を出て行った。

「あれは痛い」
「鼻を押さえていましたけど、大丈夫ですかね。マーガレットさん、後でおしぼりでも渡してあげて下さい」
「かしこまりました、お嬢様。それと、マーガレット、と呼び捨てで呼んで下さいまし」

 マーガレットにそう言われ、アナスタシアはふるふると首を横に振る。

「年上の方を呼び捨てにするのは、なかなかにハードルが高く」
「アナスタシアちゃん、年齢関係なくそうじゃない?」
「まぁ俺たちも言ったが、ここは直らなかったからなぁ」
「馬小屋育ちですので」

 ライヤーの言葉に、アナスタシアはえへんと胸を張った。
 関係があるのか、ないのか。
 その辺りは良く分からないが、アナスタシアがあまりにも自信満々なのでローランドは肩をすくめた。

「胸を張るところではないが……君は変なところで頑固だな」
「呼び方ひとつで変わる関係はちょっとご遠慮したいです」
「いつか変える必要も出てくると思うぞ」
「いつも変わらず伝えられる丁寧語系列って便利ですね」

 それを聞いてシズは、

(この子、ずっと変える気がない……!)

 と軽く慄いた。まぁ元来アナスタシアはこういう性格である。
 それからアナスタシアは「それに」と続けて、

「マーガレットさんには生まれた頃からずっと良くして頂いていますし。そんな方を呼び捨てにしたくはありません」

 そんな風に言った。
 それを聞いたマーガレットは手で口を覆って「お嬢様……」と、ジーンと感動したように目じりを下げる。
 生まれた頃からと聞いてシズは「あれ?」と呟いた。

「もしかしてマーガレットさんって、アナスタシアちゃんの乳母さん?」
「いえいえ、私はいち使用人でございますよ。オデッサ様は……アナスタシアお嬢様のお母様は、自分の娘は自分で育てるのだと仰いましたから」

 マーガレットは懐かしむように目を細めてそう言った。
 話を聞いたシズは「そっか」と微笑んだ。ローランドやライヤーも同様だ。
 彼らからの柔らかい視線を受けたアナスタシアは、何だか胸が暖かくなった。久しぶりに母の話を聞いたからかもしれない。
 そんな風にアナスタシアを含めた一同がほっこりとした気持ちになっていると、
 
「お待たせしました! 傘です!」

 と、大きな声と共に広間のドアが音を立てて開かれ、ロザリーが戻って来た。
 走ってきたのか、ぜいぜいと肩で息をする彼女の手には、半透明の空色をした傘が握られていた。

「ロザリー、ドアは静かに開けるものですよ」
「あっすすすすみません! えっと、あの……」

 マーガレットに軽く注意をされたロザリーは、ばっと頭を下げる。
 それからおずおずと、少しだけ顔を上げると、両手で持った傘をローランドに差し出した。

「ああ、ありがとう」
「ありがとうございます、ロザリーさん。マーガレットさん、おしぼりをよろしくお願いします」
「かしこまりました、お嬢様。ロザリー、いらっしゃい」
「あ、は、はい! 失礼します!」

 ロザリーはアナスタシアたちに向かってもう一度頭を下げると、マーガレットの後ろについて再び広間を出ていった。
 それから少しして、べしゃり、と何かが倒れる音が聞こえてきて、ローランドはこめかみを押さえた。 
 
「またこけた音が聞こえたのだが……」
「あっははは……。まぁ大体はあんな感じらしいですけど、皿はまだ割ってないらしいですよ。何か借金が増えるって、落としかけた皿や食器を死守しているらしいです」
「努力する場所が違う気がするのだが」

 話を聞いていたアナスタシアは「そう言えば」と、両手をポンと合わせる。

「服が慣れないから焦ってしまうって言っていました」
「え? 服? ここの制服、恥ずかしいタイプのあれじゃないと思うんだけど」
「恥ずかしいタイプの服があるんですか?」

 アナスタシアがきょとんとした顔でそう聞くと、三人の男たちはビシリと固まった。
 シズは無言の笑顔を浮かべ、そんな彼をローランドとライヤーはジト目で見ている。
 誰もアナスタシアの疑問に答えない――答えられない。
 しかし沈黙は肯定だ。言い辛そうに黙ったままの彼らを見て、アナスタシアもどうやら恥ずかしいタイプの服はあるらしい、というのは理解した。

「服のデザインも多種多様で良いことです」
「うん……」

 もはやそれしか答えられず、シズが絞り出した声で頷く。
 広間に何とも気まずい空気が流れた。

「そんなことより傘だ。これをこうして……」

 話題を変えるように、ローランドは手に持っていた傘を、ボン、と音を立てて広げた。
 その音に、広がった傘に、アナスタシアが「うわあ!」と感嘆の声を上げる。
 キラキラと目を輝かせるアナスタシアに、ローランドは簡単に説明する。

「これをこうさして歩くと雨や日差しを防げるというわけだ」
「盾というより、持ち運べる屋根なんですね!」
「まぁ、そんな感じだな」
「ローランドさん、お借りしても?」
「ああ」

 アナスタシアは開いた傘をローランドから受け取ると、両手で持ったり、高く掲げてみたり、くるくる回したりと色々試している。
 興味津々のアナスタシアを見て、ローランドは小さく笑って、

「……庭に出てみたらどうだ?」

 と言った。途端にアナスタシアは、

「行ってきます!」

 と言って立ち上がる。
 それから待ちきれないと言わんばかりに、ぱたぱたと速足で歩き出した。
 そこで走り出さないのは、普段から「緊急時以外は、室内をあまり走らないように」とローランドたちに言われているからである。淑女とはそういうものらしい。
 そんなアナスタシアを見てシズも立ち上がって、

「あ、待って待って、俺も行く!」

 と後に続いた。
 屋敷敷地内ならば一人で歩き回っていても問題はないが、アナスタシアがなかなかの興奮具合だったので少々心配なのだろう。
 少しして「あっねぇマーガレットさん! 俺の傘も借りていい?」との声が聞こえてきた。
 あっという間に出て行ってしまった二人を見送っていたローランドとライヤーは、

「楽しそうでしたね」
「子供らしくて何よりだ」

 と揃って笑い、窓の方へ目を向けた。
 硝子越しに見える空からは、雨がしとしとと降り続いている。
 小雨が降る静けさに、アナスタシアの楽しそうな声が混ざるのは、それから間もなくのこと。
 天馬の雫と謳われる慈雨の下で、アナスタシアは仔馬のように跳ねながら、初めての雨傘をしっかり堪能したと言う。

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