追放された悪役令嬢と転生男爵のスローで不思議な結婚生活

ヒーター

とある夫婦が寝る前に


 チク、チク、チク、と。
 布を差す音が自分の手元から聞こえ、他に誰も居ない深夜の部屋に響いている。
 糸が布の厚みでズレないように注意を払いつつ、模様に応じた配色になる様に、用途に適した着心地を実現させるために服を縫う。
 今まで積み重ねた経験を感覚として活かしつつ、感覚のみで進み過ぎないよう学びつつ。
 自信を持った道半ばの服飾の本職プロとして、一縫い一縫いに妥協を許さず、手を抜ける部分の余白を忘れずに。
 目の前の服に真摯に向き合う。

「…………」

 この世界にミシンは存在するが、前世日本で使っていたような高性能なミシンは無い。足踏み式であったり、魔法を動力にした簡素な代物だ。
 とはいえ、個人的にミシンは真っ直ぐ綺麗にさえ縫えればそれで充分ではあるので、この世界のミシンでも充分に満足している。だけど俺は出来る所は出来るだけ手縫いをしている。
 別に手縫いの方が温かみが、なんて言うつもりはない。機械とかミシンとかの方が良いモノは良いし、錬金魔法とか便利すぎて羨ましいとすら思うから使えたら使うべきだと思うので、手縫いだけで済ませるのは製作者の自己満足に過ぎない。自己満足で着る人が満足するのなら良いが、満足度をあげたかったら矜持は持っても陶酔は捨てるべきである。
 なら何故手縫いでするのか。それは単純にそっちの方が融通が利くからである。
 必要な所はミシン縫いをし、細かな所は手縫いだとイメージした服により近くなるのである。針を差した瞬間に返ってくる感覚が俺にとっての服を作るうえで重要な要素となっているのだ。そして満足した服が出来ると、感動はひとしおである。

「…………」

 しかし今ミシンを使っていないのは、単純に今が深夜だからである。
 ミシンを使えば当然手縫いよりも音が大きく響く。無駄に広いこの屋敷ではあるが、気を使うに越した事は無いだろう。それに音の変態……もとい、音に敏感なバーントさんであればミシンの音に気付けば起きて飲み物を差し出すタイミングを見計らうためにこっそりと起きていそうだ。
 それ以外でも音が気になって眠れない、という事もあるし、夜にやる分には手縫いでやっているのである。
 それに深夜に服を縫っていると、深夜特有の静けさと暗闇、仄かな明かりが集中するのに丁度よくて――

〈パンッ!〉
「うおっぅ!?」

 そして一区切りがついて糸を切り、次の段階に移行しようかなと思っていると唐突に部屋に音が響いた。
 な、なんだ。なにが起きた!

「随分と集中していたようだな、クロ殿」

 音がした方に慌てて視線を向けると、そこに居たのは寝間着を身に纏ったヴァイオレットさんであった。手と手を合わせている所を見ると、どうやら先程の音はあの愛らしい手を叩いた音のようである。

「ええと、こんばんはヴァイオレットさん」
「ああ、こんばんはクロ殿。今宵は良い月夜だぞ」
「そうですね。先程見た時は良い月でした。……ヴァイオレットさん、どうされたのです?」
「夫を寝室で本を読みながら待っていたのだが、いつになっても来なくてな。気が付けば日を跨いで、これはまた縫うのに夢中で徹夜するつもりだな、と思ってここに来た訳だ」
「え」

 俺はそう言われて時間を見ると、確かに日付は変わってもう一時間は経過していた。
 日を跨ぐつもりはなかったのだが、どうやら夢中で縫っていたようである――ってあれ?

「俺、ヴァイオレットさんに服を縫うって言っていましたっけ?」

 仕事が早めに済んだからちょっと服を縫おうと思って縫っていたのだが、何故ヴァイオレットさんは分かったのだろうか。

「言ってはいないが、大体予想はつく。そして案の定服を縫っていたから、こうして徹夜しないように連れ戻しに来た訳だ」

 そして区切りの良い所で手を叩き、集中していた意識を逸らした訳か。……これは悪い事をしたようである。謝罪をしないと――

「謝罪は必要ない。私もクロ殿が服を縫う姿を見るのが好きだからな。存分に堪能させてもらったよ」
「う」

 俺が服を置き、謝罪をしようとするとヴァイオレットさんは良い笑顔というか、意地悪な笑みを浮かべて言ってきた。
 さては日を跨いで一時間近く経っているのは、キリの良い所まで待っていたというのもあるが、俺をじっくり眺めていたな? 気付かない俺も俺ではあるが、なんというか複雑である。

「……なんか少々気恥ずかしいですね」
「ふふ、そう思うのなら日を跨いだのも気付かず、妻が近くに来ても分からない鈍感さを直さないとな?」
「いえ、いっそ眺める事が好きな妻のために、鈍感さを貫こうかと――ごめんなさい冗談です、頬を抓ろうとしないでください。気付けば徹夜してしまわないように自愛しますから」
「分かればよろしい。縫う姿は好きだが、体調を崩すのは望まんからな」

 ヴァイオレットさんは俺に近付きながら頬を抓ろうとした手を止め、まるでグレイにするかのように「良い子良い子」と頭を撫でて来た。集中が切れ自分の疲れを自覚していた中での癒しの手に、思ったよりも安らげるのだが……これはさっきの見られていた発言よりも気恥ずかしいな。けど抗い難い優しさを感じる。

「さて、服を縫うのに集中していたクロ殿。これからどうする? 眠いのなら一緒に寝室に行くが。お姫様抱っこで」
「昨日の……じゃなくって、一昨日の根に持っています?」
「さて、なんの事だろうか。まさか来られていたコーラル王妃との別れ後、愛の語らいをするのに夢中でクロ殿がシアンがいる状態で首を甘噛みした事など根に持っていないぞ」
「根に持っていますね」
「いない。それで、どうする? 眠くなるまで話すのでも私は構わないが」

 ヴァイオレットさんは明らかにサウナ後のお姫様抱っこの件を根に持っていたが、追及するとさらなる意地悪をしてきてタジタジにされそうなので追及はやめておいた。
 そしてヴァイオレットさんの表情を確認すると、眠気を我慢している、という事はなさそうだ。話に付き合って欲しいと言えば付き合ってくれるだろう。

「いいえ、寝ましょうか。先に出ていてください。軽く片付けてこの部屋の灯を消しますんで」
「分かった」

 けれど今から話をすれば睡眠不足になりかねない。ヴァイオレットさんは俺よりも体力は無いし、俺に付き合わせるのも忍びない。ここは素直に部屋を出て、寝室に行き寝る事にしよう。

「お待たせしました。では行きましょうか」
「おや、お姫様抱っこは良いのだろうか?」
「遠慮しまーす」
「それは残念だー」

 片付けて部屋を出て、ヴァイオレットさんと改めて部屋の前で合流して声をかけると、俺の口調に合わせるような形で語尾を伸ばしつつ簡単な会話をして小さく笑い合う。

「しかし、今宵は本当に月が綺麗だな」
「そうですね。明るくて綺麗です。貴女と一緒に見るから特にそう思います」

 今の言葉は前世では「愛しています」という意味になるという、その言葉は知っていても原作の小説を知らない知識を言おうかとも思ったが、言った所で説明が難しいなとも思ったので、ただ窓から見える月を一緒に歩きながら見るだけに留める。
 ちょっと気恥しいし、なんか今それを言うと深夜テンションで妙な事も口走りそうであるし。

「ちなみに今のは愛しているという意味なのだが、ドキリとしたか?」
「知ってたんですかいな」

 と思ったらヴァイオレットさんは知っていたようだ。俺の様子を見て来る仕草は、相変わらず可愛らしく、同時に意地悪だと思ってしまう。

「クリームヒルトに聞いた。それでどうだ、クロ殿?」
「ドキリとしたか、ですか?」
「うむ、そうだ」
「さて、どうでしょう。私は浅学だったので分かりませんでしたねー」

 ドキリとなんていつもしていているし、先程の言葉にもちょっとドキリとしたが、素直に言うと負けた気がするのでわざとらしくとぼけて見せた。

「ほほう、意地悪を言うクロ殿にはお仕置きが必要だろうか」
「ううむ、分からん……分からんぞ……月が綺麗の返しは“あなたと一緒に見るから綺麗”という何処かの誰かが言ったような気がする返しのような気もするけど、浅学な私には文学的な愛の告白は分からんぞ……これはお仕置きを受けるしかないようですね……!」
「良い性格をしているな、クロ殿」
「嫌いになりましたか?」
「まさか。嫌いになると思うか?」
「まさか。思いませんよ」

 声が響かないように小さな声で話し、小さな声で笑いつつ屋敷の廊下を歩いて行く。
 そして寝室に付き、扉を開けて一緒に中に入ると、明かりを点けて俺は寝間着に着替えた。

「さて、寝ましょうか」
「そうだな。という訳でクロ殿。私に対して背中を向けて眠ってくれ。後ろから私が抱きしめるから」
「え、何故です」
「お仕置きをすると言っただろう。今宵は私の方を向けずに寝るというお仕置きをな……!」
「お仕置きになります、それ?」
「内容を決めるのはお仕置きをする方だからな。する方である私が決めたのだからな、なるんだ」
「分かりました。しかしこの場合ヴァイオレットさんも俺の顔を見れない事になりません?」
「私はクロ殿の背中も好きだからな。私は満足できるぞ」

 おお、なんという殺し文句。そう言われては素直に抱きしめられる他なかろう。
 そう思うと俺は電気を消してベッドに入り、ヴァイオレットさんの横に背中を向けて位置取った。

「では失礼して――うむ、やはり良い感じだな」

 そして言った通りにヴァイオレットさんは後ろから抱きしめて来て――うん、予想通りというかなんというか、ヴァイオレットさんの豊かな部分がより当たるので、やはりこれはお仕置きにはならない気がするな。見え無い分違った趣がある。

「それではおやすみなさい、ヴァイオレットさん」
「ああ、おやすみ、クロ殿。良い夢を」

 そして俺とヴァイオレットさんは寝る言葉を口にする。
 部屋の暗さと、後ろから感じる温かさ。その心地良さはすぐに俺を睡眠の世界へと誘って――

「はむっ」
「ひゃぅ!?」

 そして誘おうとする前に、首筋に生暖かい感触を感じた。
 な、なんだ。なにが起きた!?

「一昨日のお返しだ。ふふ、甘噛みしてやったぞ。だが今日は人前ではなくて良かったな」
「うぐ。……やっぱり根に持っていましたね」
「ああ、いたとも。では改めておやすみ、クロ殿」
「……おやすみなさい」

 顔は見えないが、ヴァイオレットさんの今の顔は間違いなくいたずらっ子のような笑みであろうと確信を持てた。絶対に俺の反応を見て喜びつつ楽しそうにしている事だろう。相変わらずな妻である。

――……まぁ、でも。この体勢で良かった。

 今の俺、変な声が出てしまった事と、後ろから聞こえる甘い声のせいで、絶対ヴァイオレットさんには見せられない表情をしている。

――ああ、くそぅ、寝不足になりそうだ。

 先程まで眠れそうだったのに、今はかなり早く脈打つ心臓のドキドキのせいで、眠るのはまだ先になりそうだとヴァイオレットさんに後ろから抱きしめられつつ、思うのであった。

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