追放された悪役令嬢と転生男爵のスローで不思議な結婚生活
見上げる形で
「よし、終わった……」
今日の分の仕事が一旦片付き、屋敷にまで戻って来た。ここまで来るとようやく一区切りがついたんだなと実感する。
というのも、神父様とシアンのイチャイチャに甘さを感じた後に色々あったのだ。
アイボリーとエメラルドの言い争いを止めたり、ヴァイス君の笑顔にやられて倒れているブライさんを無視したり、カナリアとブラウンがキノコクッションなるモノで寝ていてキノコに取り込まれそうになったり、ベージュさん夫妻の殺し愛を見たり、再び神父様達のイチャイチャを見たり。
ともかく精神的に疲れた。肉体面より精神面に疲れるのは慣れていると言えば慣れてはいるのだが、ここ最近の事も含めてより疲れた気がする。……まぁ、精神に疲れるという事は精神が死んでいないという事だと前向きに考えるとしよう。
――晩御飯前に戻れてよかった。
思ったよりも時間がかかってしまったが、ともかく晩御飯までには戻って来れてよかった。そう思いつつ扉を開けて屋敷に入る。
「ただいまー」
中に入りつつ帰宅の言葉を言う。とはいえ、誰かに出迎えて貰うつもりで言っている訳ではない。
屋敷は広いので声が聞こえない可能性の方が高いし、チャイムを鳴らして入った訳でも無い。だから帰宅の声を出してもすぐには返って来る事はあまりない。単純に習慣で言っているだけである。
今日の晩御飯の準備はグレイであるので、グレイは居ると思うのだが……ようは誰が居るかも俺は分からない。無駄に広いのも考えモノである。
「おかえり、クロ殿」
しかし今日は聞こえる範囲にヴァイオレットさんが居たらしく、ヴァイオレットさんが俺に近付きながら出迎えてくれた。
……うん、こうして出迎えてくれるのは嬉しい。精神が癒された。
「ただいまです、ヴァイオレットさん」
「外でのお仕事お疲れ様だ。夕食まではまだ時間があるらしいから、先にお風呂に入るか? 掃除はしてあるから、必要なら沸かしておくが」
「そうですね……いえ、夕食後に入りますよ。今日はスッキリしてから眠りたい気分です」
「分かった。ああ、それとキッチンと食堂には入らないほうが良いぞ」
「何故です?」
「グレイが首都に行く前の最後の食事当番という事で、張り切っているようだからな」
「ああ、成程」
ヴァイオレットさんはキッチンがある方を見ながら小さく微笑み、俺もまだ見ぬキッチンの様子を想像しながら口元を綻ばせた。
グレイの事だからサプライズを用意しようとしたり、アプリコットに教わった集大成を出し切ろうと懸命に料理を仕込んでいる事だろう。そう考えると素直に完成を楽しみにして、キッチンに近付かない方が良いだろう。
「それじゃ、俺は……執務室で書類の整理をしています」
俺は手元にある資料を軽く掲げ、夕食までこの資料を片付けるとヴァイオレットさんに告げる。部屋に戻って休んでも良いが、折角なら休憩明けではなく、起きて動いている状態を維持したまま、グレイの料理を楽しみにしつつ高揚していきたい。
シアンには休憩するとは伝えはしたが……まぁ、この位は良いだろう。
「ふむ、それは構わないのだが……」
しかしヴァイオレットさんは資料を見た後、俺の身体……というか全体を見てなにか考える仕草を取る。
「クロ殿、少し休まないか?」
そしてヴァイオレットさんは俺の顔を見てそう言ってきた。……なんだろう、シアンにも言われたが俺の自覚が無いだけで疲れて見えるのだろうか。
「そんなに疲れて見えますかね。俺的にはそこまで自覚は無いんですが」
「いや、そこまで疲れては見えないのだが、ここ数日を考えると休んだほうが良いと思っただけだ」
俺は疲れて見えるのかと問いかけてみると、ヴァイオレットさんはそう返してきた。ようは少し空いた時間くらいは休んで欲しいと思ってくれたようだ。
どちらにしろ疲れていると思われているのには変わりない。“そこまで”という辺りがその証左であろう。ので、休んだほうが良いかとも思ったが……下手に部屋に戻るとベッドで眠ってしまいそうな気もする。
かといって本を読む――新しい情報として字を読む気にもなれない。服を縫うには……中途半端だな。一度始めるとキリの良い所まで行くのに夕食の時間を超えそうだ。
やはり手元の資料を片付けて、気持ちよくグレイの料理を食べるほうが良いかもしれない。
「――という訳で、やはり軽めに資料整理したほうが良いかもしれません」
「ふむ、そう言うならば構わないが……」
ヴァイオレットさんと一緒に執務室に向かいつつ、俺は自分の考えを言う。
それに対してヴァイオレットさんは納得したような表情で受け入れ――
「……いや」
――てくれたと思ったのだが、ヴァイオレットさんは首を横に振ると俺の言葉を否定する。
「ここ数日のクロ殿は忙しかったからな。少しでも癒されて欲しい。折角だから……うむ、丁度良いから執務室で癒してみようか」
そうは言うけど、ヴァイオレットさんだってここ数日は結構忙しくしていると思うんだけどな。
――けど、どういう意味だろう。
だが“折角だから”とか、“癒してみよう”とかどういう意味なのだろう。そう問いかけたいが、問いかける前に先にヴァイオレットさんは執務室の扉を開けて中に入っていく。
俺は疑問に思いつつも、別に入らない様にとは言われていないので後に続いて入っていく。
「この辺りで良いだろうか……」
するとヴァイオレットさんは執務室のスペースにある、二人が座っても少しスペースが余るソファーの所へと近寄り、端に座った。
「さ、クロ殿、来てくれ。膝枕をしてあげよう」
そして太腿を手で軽く叩きながら、そんな魅力的な事を言ってくる。
――膝枕、だと……!?
言葉の意味は知っている。膝の枕という名前のくせに、相手の太腿に頭を乗せて体を横にする行為の事である。
互いに無防備に体の接触をはかるために親愛の表現としては最上級の行為と言えよう。
そんな行為を俺は要求されている――いや、誘惑されている!?
当然したいかどうかと問われればしたい。ヴァイオレットさんの膝枕なんてした日には一生の思い出として俺の脳に刻まれる事だろう。
「え、えと。気持ちは嬉しいですが、恥ずかしいと言いますか」
だが急に言われてしどろもどろにそんな言葉を吐いてしまう。
くそ、何故素直に膝枕をしないんだ俺。だがここで素直に膝枕をして甘えてしまっては良くないのでは無いかという妙なプライドが働いたのである。そんなプライドは捨ててしまえとすぐに思ったが、言ってしまった以上は飲み込めない。
「ふむ……嫌ではなく恥ずかしいというのは、何故だ?」
ヴァイオレットさんは俺の言葉に落胆する訳でも無く、純粋に疑問に思っているように問いかけて来た。
そう素直に返されると困るのだが……
「その、四十以上の大の男が、素直に甘えてしまうというのは妙な恥ずかしさがあると言いますか……ようは、くだらない意地です」
「ふむ……」
今世で二十、前世含めて四十半ば。そんな男が「膝枕だやっほーい!」と言ってしまえば傍から見たら目を覆いたくなる。というか素直に言ったら俺は後で思い返して「なにやってんだ……」となりそうだ。
「つまりクロ殿は、大人がただ甘えるのはあまり良くない、と考えているという事だな?」
「え? え、ええ、そうですね」
「クロ殿は二十歳なのだからそこまで考えなくて良いとは思うが……気持ちは分かる。私とて去年の今頃、成人した時はそう思っていた」
去年の今頃のヴァイオレットさんだったら自他共に厳しくあろうとするから、成人になってより思っただろうな。
「だがな、クロ殿。成人したとはいえクロ殿は二十歳。私は十六歳。まだまだ若輩者だ。他の誰も見ていない時で、私が良いと言っているんだ。こういう時くらい甘えてくれ」
「う……」
……くそぅ、そう言われると甘えたくなってしまう。
なんかいつものようにヴァイオレットさんの掌の上で踊らされているように思えてしまい、夫として情けなく思ってしまうし、三倍近く生きているのに俺の方が子供に思えてしまう。
けれどそんな言葉と微笑みを向けられてしまえば、誘惑に飲み込まれる。
「では、こうしよう」
俺が内心で情けなく思いつつ、誘惑に負けそうになっているとヴァイオレットさんはなにか思い付いたように提案をして来た。
「クロ殿は大人だ。私よりも倍以上の経験を持つ、男性だな?」
「え、ええ。そうですね」
「そして私は十六の小娘……そんな小娘が、膝枕をしたいという要望を言うんだ」
するとヴァイオレットさんは、ふふ、といつもより子供じみた笑顔を浮かべて俺に言う。
「ほら、子供の我が儘を叶えるのは大人の役割だろう? 大人らしく、子供の我が儘を聞いて膝枕をしてやってはくれないか、大人なクロ殿?」
――……ああ、もう。
俺はヴァイオレットさんには一生勝てない気がする。今まで何度も思ってきたが、改めてそう思う。こんな笑顔と言葉を向けられて勝てる訳が無い。
……俺は屋敷に帰るまで、俺は色々と疲れていた。
それを苦に思っていた訳ではない。俺がやる事がシュバルツさんの笑顔や神父様の日常、そしてシキの領民の日常に繋がるのなら良いと思っていた。
「……そうですね、子供の要望を叶えてあげるのが大人の義務ですね」
「うむ、その通りだ。大人しく、大人らしく言う事を聞いてくれ」
「子供の我が儘を諫めるのも大人の役割の気がしますがね」
「では今回はそうするのだろうか?」
「いえ、今回は要望を叶えますよ」
「そうか。では、来てくれ」
「はい、失礼しますね。…………」
「どうだ? 固かったり、寝づらかったりしないか?」
「いえ、そんな事ないですよ。とても心地良いです」
「それは良かった」
「ヴァイオレットさんは重くないですか?」
「いや、丁度良い重さで不思議と重くない。ええと……こういう時は子守唄を歌うのだったか?」
「子供が大人に子守唄を歌うんですか?」
「ふふ、確かにそうなるな。だが必要なら歌うぞ。あまり経験が無いので下手かもしれないが……」
「いえ、子守唄は無しでお願いします」
「良いのか?」
「ええ。……こんなに癒される時間を、眠って過ごしてしまうなんてもったいないですから」
「……そうか。では……なにか話そうか?」
「ええ、話しましょう。それが俺にとっての最高の癒しですから」
「ふふ、私にとってもそうだな。なんという偶然だろうな」
「偶然ですね」
けれど今の俺は、帝国などの思惑に囚われない、領主としてではなくクロ・ハートフィールド個人としての幸福を感じている。
心地良い安堵に包まれた俺は、精神的な疲れなど遥か過去の事だと思うほどに今の時間を噛み締めたのであった。
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