魔女伝〜天才魔女ヨキのリアルはちゃめちゃ人生
第18話 ヨキのその後〜そして次なるステージへ
ヨキは、韓国のプロダクションで、アイーダなどのメジャーなミュージカルの舞台に立った。
同時に、このプロダクションが、アイドルユニットを結成し、その中にヨキは入れられた。
また、作曲もして、提供していた。
韓国には国営カジノがあるので、そこのディーラーもする予定だった。
けれど、アイドルグループの一員ということで、顔がさしてはまずい、とプロダクションからストップが、かかった。
ヨキは、将来の夢の一つは、マカオやベガスの一流のカジノのディーラーになりたいと言うほど、好きなことでもあるから、やってはいけない、と言われたことが面白くなかった。
それと、仕事だから、やっていたけど、アイドルでいることも、自分の望みとは、全く違った。
そんな折、日本の実家に電話をかけると、祖父の身体の具合が、著しく悪いと聞かされた。
ヨキは、3年間の、韓国でのキャリアを今こそ、終わらせて、ついに日本に帰ることを決断した。
韓国での生活は、バタバタで、寝不足も続く様な毎日だったけれど、ヨキにとっては、面白く、充実し、生きてる実感があるキラキラしたものだった。
けれど、ヨキはひとところに執着して、鎮座する様なタマではない。
転機を感じとり、次の運命の輪に向かって、今いるタワーを自ら崩壊させて、浄化する。
それが魔女の精神でもあり、生き方だ。
だから、この転機を感じとり、行動を起こした。
その時点で、プロダクションの契約はあと1年残っていた。
ボストンの姐さんに、事情を話し、プロダクションの社長に掛け合ってもらったが、契約を終わらせては、くれなかった。
ヨキは、家族の事情があるなら、日本に帰国することは許すけれど、まだ、契約を切るつもりは無い、とプロダクションから言われた。
どちらにしても、ヨキは、もう日本に帰ることを決めていた。
次のキャリアのために。
帰国したヨキは、メジャーなレーベルに就職した。
歌手としてデビューするわけではないから、韓国のプロダクションとの契約が、切れてなくても、問題なかった。
レーベルでのヨキの仕事の一つは、アレンジャーの仕事だ。
作曲家が書いた曲を、実際に歌手が歌うための伴奏や飾り音などをつけて編曲し、、仕上げるいう仕事だ。
アメリカの音大を出ているヨキにとっては、難しい仕事ではなく、本社から遠い、自宅に帰ったとしても、出来る仕事なのでありがたかった。
もう一つの仕事としては、仮歌のシンガーだ。
譜面の読めない歌手も多いので、見本の歌を吹き込み歌手に届けるのだ。
ヨキの仮歌を聴いて、レーベルが、デビューしないかとも勧めたが、ヨキには、韓国の契約が切れていなかったという理由もあるので、断った。
ヨキは、舞台一筋の人なので、日本のシンガーとしてメジャーデビューするというのは、ちょっと違うと思っていた。
日本に戻って来た時に、ヨキは25歳になっていたので、次のことを考えていた。
しばらく、日本を離れていたから、まずは市場調査をしたかった。
だから、会社に勤めた。
また、自分のやって来たことを活かせることを選んだ。
しばらくは、会社の寮に入って、近くで仕事をしていたけれど、
アレンジャーや、仮歌の仕事は、下請けして、実家の方でも出来ると分かり、一旦実家に戻った。
ただ、録音機材がないので、住所録で検索して、一番上に上がってきたスタジオで、それをすることになった。
そのスタジオは、音楽スクールも運営していたので、ボイトレの講師としても、スカウトされ、働くことになった。
スタジオで、録音を何度かしていると、オーナーから、こんなことを持ちかけられた。
「曲、もし、作れるなら、自分のCDを作ってはどうだ。」
ヨキは、韓国で何曲か作っていたし、確かに、自分の作曲した曲は、CDにしておきたいと思った。
CDが出来上がり、その発売のためのショーケースのプランも立った。
小さなホールで、久しぶりの舞台に立つことをワクワクした。
その頃に、音羽とは出会っている。
音羽は、音楽が好きで、特に歌が好きで、習ってみたかった。
ヨキと同じく、住所録で一番上に上がってきたスクールのホームページを見ると、ヨキの経歴と写真が載っていた。
アメリカ、ニューヨーク、ブロードウェイでの経験を経て、、、、という文言を見て、すぐにヨキに習おうと決めた。
スクールに電話をして指名して体験レッスンに行ったのだ。
CDもちょうど発売されたところで、買って帰って聞いた。
素晴らしい歌声だと思った。
ショーケースがあると聞き、チケットを購入して、聞きにも行った。
音羽は、よくパーティーなどを主催していたので、ヨキの歌声が気に入り、そのゲストに呼んだりもした。
音羽の気まぐれな趣味で、出会った二人は、日に日に仲良くなり、プライベートでも、会って話す様になった。
でも、ずっと付かず離れず、ある距離を保った友だち関係で、要所要所では、近くにいたけれど、お互いが忙しかったりすれば、全く会わない期間もあった。
でも、どうやら、一講師と、一生徒の関係から始まった二人の絆は、強かったようだ。
そのことが、分かったのは、本当に最近になってから、この一年ぐらいのことだ。
市場調査中のヨキの目論見は、事業を起こすことだった。
夢や、やりたいことは、年齢とともに、当然変化していく。
何かの縁で、突然始まるライフワークもある。
明確な夢があっても、それがまだまだグレーゾーンでも、前には進みたいという成長や変化を望み、受け入れる人には、必ず転機が訪れる。
そのための準備期間に、ヨキは、日本帰国後の2年間を費やしていた。
日本でのヨキの次なるステージは、ここから始まるのだ。
同時に、このプロダクションが、アイドルユニットを結成し、その中にヨキは入れられた。
また、作曲もして、提供していた。
韓国には国営カジノがあるので、そこのディーラーもする予定だった。
けれど、アイドルグループの一員ということで、顔がさしてはまずい、とプロダクションからストップが、かかった。
ヨキは、将来の夢の一つは、マカオやベガスの一流のカジノのディーラーになりたいと言うほど、好きなことでもあるから、やってはいけない、と言われたことが面白くなかった。
それと、仕事だから、やっていたけど、アイドルでいることも、自分の望みとは、全く違った。
そんな折、日本の実家に電話をかけると、祖父の身体の具合が、著しく悪いと聞かされた。
ヨキは、3年間の、韓国でのキャリアを今こそ、終わらせて、ついに日本に帰ることを決断した。
韓国での生活は、バタバタで、寝不足も続く様な毎日だったけれど、ヨキにとっては、面白く、充実し、生きてる実感があるキラキラしたものだった。
けれど、ヨキはひとところに執着して、鎮座する様なタマではない。
転機を感じとり、次の運命の輪に向かって、今いるタワーを自ら崩壊させて、浄化する。
それが魔女の精神でもあり、生き方だ。
だから、この転機を感じとり、行動を起こした。
その時点で、プロダクションの契約はあと1年残っていた。
ボストンの姐さんに、事情を話し、プロダクションの社長に掛け合ってもらったが、契約を終わらせては、くれなかった。
ヨキは、家族の事情があるなら、日本に帰国することは許すけれど、まだ、契約を切るつもりは無い、とプロダクションから言われた。
どちらにしても、ヨキは、もう日本に帰ることを決めていた。
次のキャリアのために。
帰国したヨキは、メジャーなレーベルに就職した。
歌手としてデビューするわけではないから、韓国のプロダクションとの契約が、切れてなくても、問題なかった。
レーベルでのヨキの仕事の一つは、アレンジャーの仕事だ。
作曲家が書いた曲を、実際に歌手が歌うための伴奏や飾り音などをつけて編曲し、、仕上げるいう仕事だ。
アメリカの音大を出ているヨキにとっては、難しい仕事ではなく、本社から遠い、自宅に帰ったとしても、出来る仕事なのでありがたかった。
もう一つの仕事としては、仮歌のシンガーだ。
譜面の読めない歌手も多いので、見本の歌を吹き込み歌手に届けるのだ。
ヨキの仮歌を聴いて、レーベルが、デビューしないかとも勧めたが、ヨキには、韓国の契約が切れていなかったという理由もあるので、断った。
ヨキは、舞台一筋の人なので、日本のシンガーとしてメジャーデビューするというのは、ちょっと違うと思っていた。
日本に戻って来た時に、ヨキは25歳になっていたので、次のことを考えていた。
しばらく、日本を離れていたから、まずは市場調査をしたかった。
だから、会社に勤めた。
また、自分のやって来たことを活かせることを選んだ。
しばらくは、会社の寮に入って、近くで仕事をしていたけれど、
アレンジャーや、仮歌の仕事は、下請けして、実家の方でも出来ると分かり、一旦実家に戻った。
ただ、録音機材がないので、住所録で検索して、一番上に上がってきたスタジオで、それをすることになった。
そのスタジオは、音楽スクールも運営していたので、ボイトレの講師としても、スカウトされ、働くことになった。
スタジオで、録音を何度かしていると、オーナーから、こんなことを持ちかけられた。
「曲、もし、作れるなら、自分のCDを作ってはどうだ。」
ヨキは、韓国で何曲か作っていたし、確かに、自分の作曲した曲は、CDにしておきたいと思った。
CDが出来上がり、その発売のためのショーケースのプランも立った。
小さなホールで、久しぶりの舞台に立つことをワクワクした。
その頃に、音羽とは出会っている。
音羽は、音楽が好きで、特に歌が好きで、習ってみたかった。
ヨキと同じく、住所録で一番上に上がってきたスクールのホームページを見ると、ヨキの経歴と写真が載っていた。
アメリカ、ニューヨーク、ブロードウェイでの経験を経て、、、、という文言を見て、すぐにヨキに習おうと決めた。
スクールに電話をして指名して体験レッスンに行ったのだ。
CDもちょうど発売されたところで、買って帰って聞いた。
素晴らしい歌声だと思った。
ショーケースがあると聞き、チケットを購入して、聞きにも行った。
音羽は、よくパーティーなどを主催していたので、ヨキの歌声が気に入り、そのゲストに呼んだりもした。
音羽の気まぐれな趣味で、出会った二人は、日に日に仲良くなり、プライベートでも、会って話す様になった。
でも、ずっと付かず離れず、ある距離を保った友だち関係で、要所要所では、近くにいたけれど、お互いが忙しかったりすれば、全く会わない期間もあった。
でも、どうやら、一講師と、一生徒の関係から始まった二人の絆は、強かったようだ。
そのことが、分かったのは、本当に最近になってから、この一年ぐらいのことだ。
市場調査中のヨキの目論見は、事業を起こすことだった。
夢や、やりたいことは、年齢とともに、当然変化していく。
何かの縁で、突然始まるライフワークもある。
明確な夢があっても、それがまだまだグレーゾーンでも、前には進みたいという成長や変化を望み、受け入れる人には、必ず転機が訪れる。
そのための準備期間に、ヨキは、日本帰国後の2年間を費やしていた。
日本でのヨキの次なるステージは、ここから始まるのだ。
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