水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

デボン紀の息吹は密やかに

砂からにょっきり生えている足。その上には、細長い胴と頭と腕の影。また変な生物に出会った。

魚の僕にはっきり見えるのは、海水に浸かっている薄いオレンジ色の足だけ。動かないから、砂から生えている海藻の太い茎みたいだ。

海水より上の部分は、ぼやけて見える。長く伸びる黒い影。なんということだろう。この生き物は、あの地獄のような海水の外の世界に身体のほとんどを晒して、平然としているのだ。

丸一日ずっと観察しているが、この生き物はいつまでも同じ場所に立っている。苦しく、ないのだろうか。変な細長い影の周りを、ぐるぐると泳ぐ。





熱い海水が海底から吹き上がる暗闇の深海。そこで自我を手に入れた僕たちは、じっと待っていた。その頃の僕たちは細胞が数えるくらいしか無かったから、そうするほか無かったのだ。

海底が時々噴火すること以外、何も起きないまま、途方もない時間が過ぎて。ある時から、僕たちの細胞は急速に分裂し始めた。身体に目や口、手足が出来て、移動しやすくなったし、複雑な思考ができるようになった。

でも、僕たちは考え方や姿形がバラバラになってしまったから、昔のように身を寄せ合って生きることはできなくなった。距離を取っていないと、生きているだけで、お互いに傷つけ合ってしまうのだ。

それが苦しくて、僕は海藻になった。潮の流れに身を預けて、海藻仲間と共に水面を見上げて過ごした。僕を圧倒してくる進化の流れに、抵抗するように。

でも、抵抗虚しく、生死のサイクルを6億年繰り返して、僕は魚に進化してしまった。頑丈な硬い鱗を纏って、僕は毎日、ミクロの生物を食べて生きている。僕たちを食べる生物もいる。獰猛で、大きな顎と牙を持った生物だ。

食べて、食べられる。長い間、不離一体だったはずの僕たちは、進化という潮流に巻き込まれて、いつの間にか荒々しい関係になってしまった。





「陸に、上がってごらんよ」

水面の向こうの黒い影が少し揺れたと思ったら、僕の頭の奥が微かに揺れた。泳ぐのを止める。おそらく、聴こえる、という現象。また僕は、進化してしまったのか。

「聴こえるかい?私は、君が上がってくるのを待ってるんだ。君がここに来たら、私はすぐに退散するから。ここには、君を攻撃する生物はいないよ。約束する。だから、上がってごらん。大丈夫だから」

大丈夫なもんか。やけに最後の言葉に腹が立って、僕はプイッと頭を横に振って、身体の向きを変えた。尾びれをぶんぶん振って、ハイスピードで細長い影から遠ざかる。

随分遠ざかってから、虚しくなってきて、引き返した。いくら僕が抵抗しても、あの生き物は僕の目の前に現れる気がする。



「おかえり。私が動かないのは、君が必ず最初のヒトになると確信しているからだよ。私は君に何もする必要はないんだ。本当はね」

細長い影の近くまで戻ると、また、細長い影は僕に話しかけてきた。最初のヒト?ヒトって?

「混乱するだろうね。そりゃそうさ。だから、最初の最初だけ、手助けしに来た。助けといっても、陸に這い上がろうとする君のお尻を、少し持ち上げるだけだけど」

僕は陸になんか上がらない。絶対に上がらない。一度だけ、砂浜に出たことがある。強い日光で全身に火傷を負い、窒息しかけるという酷い目に遭った。

「君がずっと前に陸に上がろうとした時は、まだ地球の磁場も大気中の成分も安定してなかったんだ。今は、火傷も窒息もしないよ」

嘘だ。得体の知れない影の言うことなんか、信じるものか。

「命に当たり前にある死はね、変化を証明するんだ。死せよ成れよ、だ。死ぬシステムを持つ君は、変化を必ず受け入れる」

細長い影を、水面越しに見つめる。輪郭は曖昧で、頼りない。胸がざわめく。

「陸上で疲れきって、やるせない時には、空を見てごらん。星がある。君とは比べようもないほど長命だから、君が生きている間は少しも変わらずに空に浮かんでいてくれるよ」

星って一体なんだろう。見てみたい。

僕は決心して、硬い胸ビレで砂を必死に蹴った。少しずつ、前に、前に。身体を水面より上に押し出す。ああやっぱり、苦しいじゃないか。はくはくと口を動かして、酸素を取り込む。

「苦しいね。ゆっくり、呼吸に慣れるんだ。今度は大丈夫だよ。窒息なんてしない。吸って、吐く。すべきことは、それだけだ」

吸って、吐く。吸って、吐く。

だんだん慣れてきて、苦しさが和らいだ。全身を強張らせていた緊張が解けて、こてんと横に倒れる。目に入ってきた暗い空には、無数の光の粒が一面に広がっていた。

そして、もう影の声は聞こえなくなった。


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