水月のショートショート詰め合わせ

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ツキヒーホシの旅路

「ピピッ、ツキヒーホシ」

原始的な懐かしさと哀愁を誘う旋律に、鳥が合いの手を入れるように鳴いた。不思議な鳴き方だと思った瞬間、鳥は小さな象に変化した。

ざわつきだす聴衆を全く気にせず、トレンチコートを着た青年は、目を閉じて演奏を続けている。







必要な衣類や日用品、食料がたっぷり詰まっている買い物袋を両手に下げる。後は歩いて帰るだけ。

スーパーの前の広場に出て、大きな時計塔を見上げる。もう午後4時。久々の休日は、必要な物を揃える買い物で終わってしまいそうだ。小さい溜め息が出る。時間なんて、気にしなければよかった。

1人が1週間生き延びるのに必要な物資は、それなりに重い。家までの短い道のりが、砂漠を横断するキャラバン隊の道のように感じる。ちょっと休憩しよう。

広場にあるベンチは全て埋まっていた。唯一座れそうな場所は、巨大な噴水池の縁だけだった。買い物袋を先に置いて、ゆっくり座る。3分間くらい呆然としていると、隣にたくさんの荷物を抱えた青年が座った。

「ピーピピピ」

隣から響いてきた、鳥の澄んだ鳴き声に驚く。おそらく鳥籠だろう。穴の開いたプラスチックのケースの上に、灰色の鳥が留まっている。大きな黄色いくちばし。可愛い。

「すみません。少し騒がしくしてしまうのですが、よろしいでしょうか?」

青年に突然尋ねられ、反射的にこくこくと頷いた。いつの間にか青年は、馬頭琴とギターを混ぜたような、不思議な弦楽器を抱えていた。

「ありがとうございます」

にっこりと笑った青年は、次の瞬間には抱えた珍しい楽器を指先でかき鳴らし始めた。ちょうど、ついさっき想像していた砂漠のキャラバンをイメージさせる、エキゾチックなメロディー。青年の傍らにいる鳥が、絶妙なタイミングで澄み切った鳴き声を発する。歌うように。

そよ風を受けながら、私はその青年と鳥の奏でる音楽に聞き惚れた。

メロディーが盛り上がっていくにつれて、聴衆が増えていく。青年が一本の弦を小刻みに震わせ始めた時、鳥が鋭く鳴いた。

「ツキヒーホシ」

聴衆の息を呑む音。鳥が、蝶々になった。大きな白い羽の蝶々が、当たり前のように、確かにケースの上に留まっている。手品、だろう。そう自分を納得させようとした時、その蝶々は元の鳥の姿に戻った。

ざわざわと狼狽える聴衆の前で、青年は平然と演奏を続ける。鳥はその後も、「ツキヒーホシ」と宣言してから、象や蛙、ウサギなどに変化した。どの動物も、体長20cm程度のサイズで。

私は片手で口を押えながら、その様子を凝視していた。午後5時の鐘の音で、我に返るまで。





目の前の青年に、温かいコーヒー缶を手渡す。渡しそびれていたチップと一緒に。

「わぁ、こんなに。ありがとうございます。コーヒーまで。今日はちょっと寒いから、助かります」

「いえいえ」

つい、帰り支度を始めた青年に声をかけてしまった。しどろもどろで少し話したいと声をかけた私に、青年は快く頷いてくれた。

「あの、さっきのは手品ですか」まだケースの上に留まっている鳥を指差して尋ねると、青年は可笑しそうに笑った。

「いいえ、この子の趣味のようなものです。何になるかは、この子の気分次第。記憶にある動物に何でも変化できるんです。ミニサイズの僕に変化して、笑わせてくる時もあります」

青年の肩に乗った鳥は、ピーピピと小さく鳴いた。

「……すごい、鳥なんですね」

「斑鳩いかるがという種類の鳥です。名前も、イカルガ。月、日、星と鳴くから、三光鳥さんこうちょうとも呼ばれてます。台湾を歩いて旅していた時に、出会いました。もう思い出せないくらいの、昔に」

明らかに青年は私より年下だが、仙人のような口ぶりだ。

「ずっと、歩いて旅を?」

「ええ、世界中を歩き回っています。これでお金を稼ぎながら」

青年が、あの楽器を軽く掲げて見せた。

「珍しい、綺麗な楽器ですね。どこの国の楽器なんですか?」

「南にある小さな島に住む人々がくれた楽器です。今はもう、その島は水没してしまって、地図にも載っていない」

ポロロロロと、青年が弦を優しく鳴らす。

「とにかく歩き続けていたら、何にだってなれるんじゃないかと思って。進化も退化も自由自在な存在になりたくて、旅を始めました。ひたすら歩いてもう、1000年も経った」

せんねん?千年?まさか。聞き間違いだろう。

「まだ、この子みたいにはなれません。でも、僕はもう、満足なんです。この星の表面を行ったり来たりし続けていられれば、それで」

ポポロポポロロロポロロ

演奏が緩やかに始まった。「ツキヒーホシ」と、またイカルガが鳴く。瞬く間に、黒っぽい紫色の、尾羽が長い鳥に変化した。目の周りは、鮮やかな水色。背中は少し赤みがかっている。

ツキヒーホシ。耳に残る澄んだ鳴き声。その声は、この青年そのもののように思えた。


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