水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

川のディナーテーブルで行きつ戻りつ

その日、僕は塾に向かうバスに乗らなかった。

どうして?どうして?という声が頭の中でしつこく響く。ずっと苦い薬を口に含んでいるような気持ちをどうにかしたくて、僕はひたすら走った。目的地なんて無い。迷子になってしまおう。そうすれば、家に帰らなくて済む。

見覚えのない景色への不安が高まってきた頃、限界が来た。足を止めて、息を整える。川面で反射する夕日が眩しい河川敷。初めて来た。風が気持ちいい。

川に近づいてみると、小さいカニがたくさんいた。しゃがんで、カニを眺める。

父さんと母さんは、僕が立派な何者かになる瞬間を待ち望んでいる。医者?科学者?宇宙飛行士?サッカー選手?どれがいい?と迫ってくる。がっかりされるのが怖くて、僕はよく考えず、医者になると言ってしまった。

今日は塾の大事なテストの日。父さんと母さんはきっと、怒っている。がっかりしている。父さんと母さんを喜ばせたい。平和に暮らしていたい。でも期待される何者かになろうとするのが、苦しい。僕は、わがままなのだろうか。

2cmほどのカニを掌に乗せる。可愛い。水辺の小さい生き物は、ずっと見ていても飽きない。強い風が吹いてきて、少しよろける。カニを元に戻そうとしたが、さらに強い突風が吹いてきた。

ぐらりと身体全体が横に倒れて。声を出す間も無く、僕は川に落ちた。足がつかない。おかしい。そんなに深いわけないのに。でも、僕の身体はどんどん沈んでいった。




気付けば、僕は豪華なディナーテーブルに着いていた。見回せば、どこまでも白い空間だった。雲の中にいるみたいだ。目の前の大きなテーブルには、薄くて丸いパンや黄緑色のコロッケ、赤いソースがかかった、マカロニと豆が混ざったご飯などが並んでいる。

そして、色鮮やかな布で身体全体を覆った人々が、当たり前のように一緒に食卓についている。楽しそうにパンをかじっている人もいれば、泣きながらスープを啜っている人、腕を組んで不機嫌そうな人、無表情で黙々と食べている人もいた。

「食べていいんだよ。賢い小さな新入りさん。迷いの川のディナーテーブルにようこそ。私はラシード。このディナーテーブルの担当者だ」

目の前の若い男の人が話しかけてきた。褐色の肌がかっこいい。

「あの、ここは」

場所を聞こうとした時に、一気に騒がしくなった。金や銀、宝石などで身体中を着飾った美女と美男の集団が突然現れ、テーブルの周りで歌い踊り始める。

僕はびっくりしたが、周囲の人は特に驚かずに食事を続けている。

「踊り子たちだよ。普段はカニや小魚の姿をしている」

ラシードさんが紹介してくれた踊り子さんたちは皆、笑顔だ。踊り子さんの1人と目が合ったけれど、僕は縮こまって目を逸らしてしまった。

10分ほど経つと、踊り子さんたちは霧の中に消えていった。テーブルの人々は拍手をして見送る。

「ラシード、私もう帰ろうと思うの。吹っ切れた。色々と、ありがとう」

「そうかい。良かった。帰り道で迷わないようにね。幸運を」

楽しそうにパンを頬張っていた女性が、立ち上がり、ラシードさんに別れの挨拶をした。薄いオレンジの布をまとっていた女性が、霧に消えていく。

「ラシードさん、あの、ここはどういう所なんですか」

「迷い苦しんでいる人だけが招待される、特別なディナーパーティーの会場だよ。川の主がゲストを選ぶのさ。君も選ばれた。テーブルで心を決めれば、自然に帰りたくなる。ここに来た時の状態で、無事に帰れるよ。それまで、永遠にディナーを続けられるテーブルさ」

「心を、決めるって?」

「自分で答えを出すってことさ。間違いか正解かなんて、どうでもいい。担当者の私は、ゲストそれぞれの迷いの内容を知っているんだ。アドバイスするためにね」

「え、僕の迷いも……?」

「そうだよ。君は自分自身を責めているね。周りの人に期待された通りに、何者かになれない自分を。しかし、己は己でありたいという自分も確かにいる。2つの自我に挟まれて迷っている」

僕の心のモヤモヤの輪郭を見事に浮き上がらせたラシードさんは、大きな目で僕を見つめている。

「何者かになろうとする君も、何者にもなりたくない君も、寸分違わぬ正真正銘の君だ。だから、善悪や優劣で判断するなんてナンセンスだ。どちらの君の失敗も成功も、楽しんでみるといい。自由と愉快は己の為ならず。きっと君とシンクロする人々が現れて、より楽しくなるだろう」

ラシードさんは、長い袖から機械仕掛けの右手を出して、薄いパンを1枚取った。

「私のアドバイスは以上。後は、君がじっくり考えて答えを出さねば。腹が減っては思考はできぬ。さぁ、たんとお食べ。クルミのデザートもあるぞ」

すすめられた揚げ餃子のような見た目のデザートを取り皿に取った。サクッと一口かじってみる。甘くて香ばしい。咀嚼しながら目で美味しいと伝えると、ラシードさんはウインクしてくれた。

「……美味しいです」

「それは良かった。嬉しいな。実を言うと、私の好物なんだ。とろける甘さと香ばしさで、心が軽やかになるだろう?」

「ふふっ、そうですね」

軽くなった心で、とことん悩んでみようと思った。このディナーテーブルで、僕はきっと、僕の答えを見つけるのだ。


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