水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

インクに薄明光線が注げば

光に照らされない水が、これほど怖いものだとは。

透明感を失い、墨汁のようになったプールの水に浸かりながら、迫ってくる恐怖をどうにか受け流していく。胸の辺りの水面を見ないように、意識して遠くを見る。

夜目が利く方で良かった。周囲の人の動きが微かに見える。混乱と動揺のざわめきの中に、時々高い泣き声が混じっている。ああ、特に小さい子には、たまらなく怖い状況だろう。







子供の頃、夏に通った懐かしい屋内型市民プール。休日にバスで少し遠出した時に、たまたま、まだ営業しているプールの建物が目に入った。もうすっかり遠くなってしまっていた、縦横無尽に水と戯れる喜びの記憶が蘇った。

それからずっと、その記憶は私の頭の中に居座り、ついには晩夏の暑さでバテている私を市民プールに引っ張って来たのだ。

ぎこちないクロールや平泳ぎで、25mプールを往復する。フラッグが見えたところで、くるりとターンして。抵抗する水の感触が、はっきり分かる。

ほどよく疲れた後は、空いているフリースペースで、ぷかぷかとラッコのように浮かんだ。何も言えないほど、心地好い。水に背中を包まれて、優しく揺らされる。永遠にこうしていたい。

ラッコになりきっていた私の視界は、突然暗闇に閉ざされた。鼻から水が入りそうになりながら、慌ててプールの底に足をつける。



目を凝らして数分経ち、微かな視界が戻ると同時に、停電という状況が飲み込めた。遠くでちらちらと動く光の球。プールの職員さんが、懐中電灯を持ってきたのだろう。

右往左往する無数の光の球。緊急事態に、職員さんも混乱しているのだ。すぐにプールから上がってという声と、移動すると危険なのでそのままという声が重なって聞こえて来た。

胸元まである水を一瞬見て、すぐに目線を外した。底の見えない黒い水は、予想以上に怖い。数秒見つめるだけで、パニックになってしまいそうだ。気を紛らわせなくては。遠くにいる人の影と、光の球を夢中で見つめた。

少し経ってから、大きな板が張り付けられた、移動式の照明器具らしきものが運ばれてきた。ピカッと板が発光する。プールの水に、淡い光が行き渡った。

儚い光が溶け込むと、老若男女に恐怖を与えていた墨汁のような水は、夜空に変貌した。水の揺らめきに反射した光は、薄い雲に包まれた星の光のよう。

徐々に、泣き声や怯える声は止み、幻想的な水の夜空の鑑賞会が静かに始まる。照明の近くの水には、ムーンリバーのような光の直線。

ゆっくり、水の中に潜ってみた。ゴーグル越しに、水中を眺める。おぼろげな光が、一般的な25mプールを、星や月に照らされる穏やかな夜の海に変えていた。

藍色から黒への美しいグラデーションを見つめ、新しい水の記憶を頭の中に残す。また、思い出せますように。



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