水月のショートショート詰め合わせ
しっぽの福音
ほかほかと湯気を立てる丼。一口、麺をすすった。
鼻に抜ける香ばしい醤油とまろやかな昆布出汁の香り。とろりとした汁は、もっちりとした食感の麺によく絡む。子供の頃、よく食べたこの小さい食堂のオリジナル麺料理は、そのままの味で残っていた。
部下たちとボディーガードの目を盗み、何重ものセキュリティゲートを強行突破してきた甲斐があった。十数年、恋焦がれた味。涙腺が緩んでしまう。耐えなくては。今お客さんは私のみ。目立ってしまう。
少し咳払いしてから、もう一度麺を啜ろうとした時、右隣に何かの気配がした。誰もいなかったはずだ。口に運ぼうとした箸を降ろし、隣をしっかりと確認する。
白い狐だ。
異様に尻尾が多い。
こちらを見ている。
もしや。
「どうも」
低い男性の声が狐の不動の口元から響いて、大きくのけ反る。
「まさかこんなところに王様が1人でいらっしゃるとは。なんと危なっかしい。あ、私の声も姿もあなたしか認知できませんので。あまり動揺すると目立ちますよ」
流暢にしゃべり続ける狐。カウンターの奥にいる店主のおばちゃんに目線で助けを求めたが、きょとんとした顔で会釈された。
「王様、あなたにお願いがあって来たのです。あなたの想像通りの九尾でございます。私は賢君の治世にしか存在できません。私は人を食らう禍々しい妖怪と忌み嫌われておりますが、とんでもない誤解でございます。人の幸福を言祝ぐためだけに、私は存在するのです」
9本の尻尾が、孔雀の羽根のように広がっていく。徐々に伸びる尻尾は、時折七色に光る。手の力が抜けて、箸がテーブルの上に落ちた。
カランという音で我に返り、冷めつつある汁と麺に視線を戻す。押し黙った九尾に、思い切って小声で話しかける。
「あの……食べてからでもいいですか?」
少しの間を置いて、九尾は小さく頷いた。
「手短にお話します。食べながらでも。お忍び中、お邪魔して申し訳ない」
良かった。話の通じる九尾だ。箸を手に取り直し、二口目を楽しむ。ああ、やっぱり美味しい。
「お願いというのは、私を食べて欲しいということです」
吹き出しそうになり、咄嗟に口を抑えたら麺と七味が気管に入った。咳が止まらない。おばちゃんが心配してグラスを手渡してくれた。水を飲んで少し落ち着く。
「九尾の身体の一部を食べた人間は、あらゆる災厄を跳ね除けることができます。私は、あなたにできるだけ長く王でいてもらいたい」
九尾はおもむろに、一番左端の尻尾の先を咥えた。直後にポンと軽い音を立てて、その尻尾があっけなく取れてしまった。根本からごっそりと。
「え……だ、大丈夫?痛くないの?」
「また生えますので」
九尾は狼狽える私の膝に、その尻尾を恭しく置いた。
「お召し上がりください」
「ええ……ちょっと、いや、かなり抵抗感が……」
「食べづらいですか。分かりました。こうしましょう」
九尾はくるりと中空で回転し、消えた。膝の上に置かれた尻尾も。見回しても、何の気配もない。白昼夢でも見ていたのだろうか。首をかしげながら麺をすする作業を再開する。
しばらくすると、お皿を持ったおばちゃんが近づいてきた。
「もし良かったら食べて。お客さん、美味しそうに食べてくれるから。特別サービス」
藤色のエプロンが似合っているおばちゃんは、ウインクをして去っていく。
目の前に置かれた、3つのお稲荷さん。一口かじる。甘辛いジューシーなお揚げと、ゴマ入りの酢飯の相性は抜群だ。これも美味しい。あっとう間に平らげてしまった。
右の視界の隅で、白い九尾の尻尾が揺れた気がする。
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