水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

ドクターの朝

微かな手ごたえを感じながら、薬研やげんの車を押しては引く。清涼感のある香りが漂ってきて、苦手な雨の湿った匂いが少し薄まった。

時間を知らせる太鼓の音が外で鳴り響く。予定していた量の薬をきっちり調合できるように、少し速度を上げる。

今日は、あの妙な患者が来る。夕方に、笠を深く被って訪れるあの患者。いつも、擦り切れた鼠色の袴と黒い小袖。開口一番、夢を治してほしいと言ってきた時には、狂っているのだろうと思った。しかし、彼の言動はまともだ。その、夢の内容以外は。

バタバタバタバタという耳障りな音。雨が強くなったのだろう。手は止めない。

地に潜るのだという。ひたすら、下に下に。足が地面に食われるように、徐々に地中に引きずり込まれる。全身が地中に埋まると視点が変わり、自分が地中深くに沈む様子を、真横からひたすら眺めるのだという。

己の身体は彫像のようで、傷つきはしないものの、目を見開いていて不気味らしい。様々な質感や色の土や砂の層を突き進むと、必ず真っ赤な世界に到達するという。赤いという感覚以外、何も無い世界に。

彼は、それに酷く怯えている。それほど悪い行いをした覚えはないが、きっとあの世界は地獄で、近々私は地獄に堕ちるのではないかと。



引き戸が開く音がする。手を止めて、足早に土間に向かう。やはり、あの笠の男だ。脱いだ笠を脇に挟み、晴れやかに笑っている。憑き物が落ちたように。

「よく来たね、さぁ、お上がりよ」

「先生、夢の意味が分かりました。重なってただけなんです。時間が。地獄なんかじゃ、なかったんだ」

「時間?」

「おはようございます」









「眠れないとおっしゃってたので、少し強めの薬を出しますね。では、お大事に」

「はい」

診療室から待合室に戻ると、隣の子供が楽しそうに「エディアカラン、リィアキアン、シデリアン」と唱え、母親らしき人に叱られていた。頭を過る締め切り。煮詰まっている地質学の論文。気が重くなる。

処方箋を受け取って、病院の外に出た瞬間、小雨に気付いた。思わずため息が出る。雨の匂いは苦手だ。


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