僕は御茶ノ水勤務のサラリーマン。新宿で転職の話をしたら、渋谷で探索者をすることになった。(書籍版・普通のリーマン、異世界渋谷でジョブチェンジ)
ずっと一緒に大事なひとと
昔、ずっと暮らしていた家にもう住めなくなって。お父様が突然いなくなって、お母さまが突然いなくなって。どれいってものになった。
その時、あたしは分かってなかった。どれい、というのがなんなのか。
どれいになって、しばらくして。
何人かの、怖い顔をした人たちが来て……その日のことはあまり覚えていない。一人でどこかの宿の部屋にいたことだけは覚えている。
セリエが部屋に戻ってきたときのことも。
柔らかい栗色の髪はバサバサに乱れて、いつもきれいに着こなしている服もエプロンが無くて。
いつも優しくあたしを見てくれる綺麗な目は真っ赤で、微笑んでくれる頬も涙で濡れていた。
「……お嬢様、ご心配なく」
セリエはそれでも笑ってくれた。
…………あたしは、セリエの為に何ができるだろう。
◆
どれいになって、12歳になった時、スロットシートに触れた。あたしにもスロットがあることが分かった。
お母さまはスロット能力が無かったけど、お父様は凄くたくさんのスロットを持っていたってセリエが教えてくれた。
スロット武器を取ったからあたしだって戦える。これでセリエばかり辛い目に合わせない。そう思ったけど、戦いに出るのは止められた。
「お嬢様に何かあったら……旦那様や奥様に顔向けができません……どうか」
セリエがあたしに縋って泣いた。
「お金が貯まったら……奴隷ではなくなります。その日までご辛抱ください」
セリエは言っていた。でも、セリエが酷い目に会うたびに胸が張り裂けそうになった。何もできない自分が心の底から嫌だった。
お金が貯まる日って……いったいいつのことなんだろう。
……奴隷じゃなくなったら。いつかセリエと小さな家を買おう。庭にいっぱい花を植えて、セリエと一緒に過ごすんだ。
その時はあたしだって大人になってる。そうしたら探索者になるんだ。
セリエは家でご飯を作って、あたしを待っていてもらおう。今まで辛い思いをさせてしまった分、たくさんセリエの為に頑張ろう。
……そんな、いつになったら終わるか分からない日を、突然やってきたお兄ちゃんが変えてくれた。
お父さんを陥れたラクシャス家に買われそうになって、セリエとばらばらにされそうになっていたのを、救い出してくれた。
一度、なんでそんなことしてくれたのって聞いたことがある。でもお兄ちゃんは教えてくれなかった
◆
お兄ちゃんと一緒に居られることになって、新しい部屋に住むことになった。
奴隷商の城から少し離れたところにある探索者の人がいる建物だ。
ちょっと小さな細長い部屋に寝台が2台と机と椅子にクリーム色の湯浴み用のお風呂。壁には昔住んでいた家よりもきれいな白い壁紙が張ってあった。
ベッドも、今まで寝ていたのとは全然違う、柔らかいけど硬い不思議なベッド。お兄ちゃんはマットレス、と言っていたけど。
ある夜、突然目が覚めた。目を開けると真っ暗な部屋で、隣のベッドで寝ているはずのセリエがいなかった。
一瞬、怖くなった。セリエはどうしたんだろう……どこかに行ってしまったなんてことは無いと思うけど。
探しに行った方がいいんだろうか。そう思った時に、ドアが開いて部屋に光が差し込んできて、セリエが入ってきた。
唇を抑えて入ってきたセリエは、今まで見たこともないくらい幸せそうな顔をしていた。
……お兄ちゃんと一緒に居たんだ。それだけはなんとなくだけど分かった。何があったかは分からないけど。
暫くして、セリエが部屋を出ていった夜、お兄ちゃんの部屋を覗いた。
お兄ちゃんとセリエがキスしていた。キスが終わって、セリエとお兄ちゃんが何か話している、けど聞き取れなかった。
幸せそうな顔を見て嬉しかったけど、なんかここに居ちゃいけない気がして慌てて部屋に戻ってベッドに飛び込んだ。
あたしもお父様やお母さまとキスしたこともある。でもそんなにすごいことだっただろうか。
……わからなかったけど、初めてお兄ちゃんにキスしてもらった時に分かった。とっても幸せで、セリエの気持ちが分かった。
でも、しばらくして気付いた。あたしがお兄ちゃんとキスすると、セリエはちょっと悲しそうな顔をする。
本当にごくわずかで、お兄ちゃんは気づいてないと思う。でもあたしにはわかった。
なんでだろうって考えた。あたしはセリエがお兄ちゃんとキスしてるのを見ても嬉しいだけなんだけど。
お兄ちゃんのちょっと照れたような顔とセリエの幸せそうな顔を見るとあたしも幸せな気持ちになる
……セリエは違うんだろうか。
考えて、そして思い出した。
お母様が昔教えてくれたことがある。好きには、「特別な好き」があるんだって、その人が一番大事だっていう好きがあるんだって。
あたしはセリエも好きだし、お兄ちゃんも好きだし、スズおねえちゃんも好き。
でもセリエがお兄ちゃんを好きな気持ちは違うんだ。セリエの好きは多分その「特別な好き」なんだ。
「セリエ、あたし、もうお兄ちゃんにキスしてもらうの辞めるね」
寝る前にコアクリスタルのライトを消そうとしたセリエに言うと、セリエが驚いた顔をした。
「………なぜでしょうか?」
「……代わりにお兄ちゃんにぎゅってしてもらうのはあたしもだよ、それはいいよね、セリエ?」
お兄ちゃんがぎゅっと抱きしめてくれるのは、キスした時と同じくらいに幸せだから、あたしはそれで十分満足。
「……ありがとうございます、お嬢様」
セリエが戸惑ったような顔をして、ちょっと嬉しそうあたしを抱きしめてくれた。
お兄ちゃんと一緒に居るようになって、セリエは幸せそうに笑うようになった。
お兄ちゃんと同じように塔の廃墟に元から居たっていうスズお姉ちゃんも、とっても強くて、不思議な武器を持っていて、とっても優しい。
魔獣と戦ったりするのはちょっと怖かったけど、それでもお兄ちゃんやセリエが一緒にいてくれるってだけで勇気がわいてくる。
もう二度と会えないと思っていたお母様とも会えた。朝、お母様にお早うって言えることはなんて幸せなんだろう。
また前の家に戻れるかもしれないっていうのも聞いた。
お兄ちゃんとお姉ちゃん、お母様、エルネストおじさん、セリエ、レナ、みんなで前みたいに暮らせればこんな嬉しいことはないと思う。
家に帰れたら……サンヴェルナールの山の夕焼けをみんなで見よう。
たしか林檎の美味しいお酒があったはずだ。お父様が好きだったお酒。お兄ちゃんもお姉ちゃんもきっと気に入ってくれる。
お兄ちゃんがいろいろつれてってくれたみたいに、いろんなところにお兄ちゃんやお姉ちゃんを案内しよう。
そう思ってた
そう思ってたから……オルドネス公の言葉には心臓を掴まれたような気がした。お兄ちゃんがもとの世界に帰れるかもしれない……帰っちゃうかもしれない。
でも、お兄ちゃんはずっといてくれるって思った、
だから……お兄ちゃんが口ごもったときは目の前が真っ暗になった。
帰りたいの?ずっと一緒だよって言ってくれたのに。
あたしたちのこと、もう要らないの?
◆
パニックになって慌てて部屋から飛び出しちゃったけど、途中でそんなことしてる場合じゃないって気づいた。
「お嬢様!」
立ち止まると、セリエが廊下を走って追いかけてくるのが見えた。
「行こう、セリエ」
「え?」
「一緒に行こう!お兄ちゃんに言わなきゃ、行かないでって、二人で言わなきゃ」
すぐに一緒に来てくれると思ったセリエが、黙ってうつむいてしまった。どうしたんだろう。
「………ご主人様にも」
「え?」
「ご主人様にも……おやりになりたいことがあるんです、お嬢様」
「何言ってるの?」
「……ご主人様のお心を乱さないように、お決めになるまでは私はお会いしないつもりです」
「なんで……そんなこと言うの?」
セリエが何を言ってるのかわからなかった。お兄ちゃんがいなくなっちゃうかもしれないのに。
「セリエは……お兄ちゃんのことが好きなんでしょ?大好きなんでしょ?
じゃあ言わなきゃ!」
「……ご主人様の思うようにしていただくのが……お仕えするものの務めですから」
セリエが静かに言うけど……泣くのをこらえているのがわかった。
「そんなの関係ないよ!なんでそんなこと言うの?
お兄ちゃんがいなくなっちゃうかもしれないんだよ!」
そういったけど、セリエは黙って泣くのをこらえていつもみたいにまっすぐ立っていた。
セリエが何を考えているかは分からなかった。でもお兄ちゃんに何も言いに行かないことは分かった。
◆
一人でも言わないと、と思ってお兄ちゃんを探したけど、どこにもいなかった。どこかに行ってしまったんだろうか。
どうしようかって思ったけど、スズお姉ちゃんに話そう……スズお姉ちゃんは頭がよくて、いつだってあたしにいろんなことを教えてくれる。
メイドのお姉さんに教えてもらったスズお姉ちゃんの部屋に行くと、お姉ちゃんが椅子に座って窓から外を見ていた。
部屋には夕日が赤く差し込んできていて、お兄ちゃんが迎えに来てくれた時みたいだった。
「あら、ユーカ、どうかした?」
「お姉ちゃん……お兄ちゃんに行かないでって言いに行くの。お姉ちゃんも一緒に来て」
スズお姉ちゃんがちょっと困った顔をした。
「……あたしはどこにも行かないわ。帰るつもりはない。それじゃだめかな?」
お姉ちゃんがいてくれるのは嬉しい、でも。セリエにはお兄ちゃんじゃないとダメなんだ。
「セリエは?」
「……お兄ちゃんには会わないって。お兄ちゃんが決めるまで会わないっていうの」
「そっか……」
お姉ちゃんがため息を一つついて立ち上がる。
「おかしいよ。セリエはお兄ちゃんのこと好きなんだよ。じゃあ何で一緒に居てって言わないの?
お兄ちゃんが帰っちゃってもいいなんておかしいよ」
お姉ちゃんが黙って窓の方に歩いて行って、こっちを向く。黒い影が部屋の中に伸びた
「……セリエはね……お兄ちゃんのことがね、大好きなの」
「ええ、分かるわ」
「そうじゃないの……ただの好きじゃないの、特別な好きなの」
好きと特別な好きは全然違う。でも、この気持ちが塔の廃墟から来たお姉ちゃんに分かるだろうか。
「……言いたいことは分かるわよ、人間なんてどこでも同じよね」
お姉ちゃんが笑う。
「お兄ちゃんはどうかな。セリエのこと……好きかな」
この質問をするのは……本当は凄く怖かった。
お兄ちゃんはとっても優しいけど……お兄ちゃんはセリエをどう思ってるんだろう。スズお姉ちゃんが首をかしげて考え込む。
「……そうだと思うわ、多分ね。あいつあんまりその辺は表に出さないけど
……ていうか、あいつ、セリエに何も言ってないの?好きだ、とか」
「………うん」
セリエがそのことで時々不安そうにしてるのを知ってる。お姉ちゃんが呆れたって顔で首を振った。
「……まったくふざけてるわね、あの草食系……蹴っ飛ばそうかしら」
「……草食系って何?」
草食系って言葉の意味は分からなかったけど。でも、それだったらやっぱり一緒にいてほしい
好きな二人が一緒にいることは幸せなことだよって、お母様も言ってたもの。
「でも、それなら……お兄ちゃんもセリエが好きだし、セリエだってお兄ちゃんが好きなんだから。一緒に居られるのが一番いいでしょ、そうじゃない?」
「そうね、ユーカ。多分あなたの言ってることは間違ってないわ」
「そうでしょ?そうだよね」
やっぱりそうなんだ。言わないと、お兄ちゃんに。行かないでって。
「お姉ちゃん、一緒に言って。お兄ちゃんに行かないでって言って」
スズお姉ちゃんが今まで見たことがない困った顔をして首を振った
「ごめんね、ユーカ……それはできない」
「………なんで?」
「どうするかは、風戸君が決めることだから」
「でも、お兄ちゃんはセリエのことが好きなんでしょ。
好きな人同士は一緒にいるのが幸せだってお母様が言ってたもん」
「ええ、それは確かに正しいわ……でもね」
そういってお姉ちゃんがあたしを見る。
「……ユーカもお母さんに会えて嬉しかったでしょ?」
その言葉はあたしにはあまりにも重かった。
「……うん」
「風戸君だってそうだと思わない?」
そう。お母さまと会えた時、もう二度と会えないと思ってたお母さまと会えた時は本当にうれしかった。
……わかってるんだ。あたしの我儘だって。わかってる。
でも、離れたくない。どこにも行ってほしくない。ずっと一緒にいてくれるって思ってた。
こんな日が、こんな早く来るなんて思ってなかった。
涙があふれ出てきた。止められなかった。
お兄ちゃんがどこかに行ってしまったら、セリエはどれだけ泣くだろう。
……あたしは結局セリエのためになにもしてあげられない。
きっと部屋で泣いてるセリエ……あれだけあたしを守るためにつらい思いをしてくれたセリエのために、あたしはなにもできないんだ。
◆
目が覚めたら、ソファの上だった。毛布が滑り落ちる。もう部屋は真っ暗で、窓の外からは白い月の光が差し込んできていた。
ソファが濡れていた。多分泣きながら寝ちゃったんだろう。
暗い部屋にはコアクリスタルの燭台が灯っていて、その向こうでスズお姉ちゃんがお酒を飲んでいた。
「起きた?」
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
お姉ちゃんが首を振って立ち上がって、手を広げたままこっちに歩いてきた。そのままお姉ちゃんが抱きしめてくれる。
あたしの息と、お姉ちゃんの心臓の音としか聞こえなくて。世界にあたしたちだけしかいないくらいに静かだった。押しつぶされそうなほどに。
あったかい手に抱かれていると、また涙が出そうになる。
「あのね……ユーカ」
抱きしめられたままで、お姉ちゃんの声が上から降ってきた。
「これは……確実とは言えないわ……でもね」
「……うん」
「でもね、多分風戸君は、いかないと思うわ。此処に残ると思う」
お姉ちゃんの言葉に心臓が飛び上がりそうになった。
もしそうだったら……どんなに嬉しいだろう。でもなんでそう思うんだろう?それに、もしそうじゃなかったら……
「………なんで?」
「それはね……」
……お姉ちゃんがその後言ってくれたことは、あたしにはよくわからなかった。
でも、お姉ちゃんはいままで嘘は言わなかった。だから、きっとそうなると本当に思ってるんだ。
そのあとは、お姉ちゃんが部屋まで送ってくれた。
部屋には2台の立派なベッドがあって、片方の上でセリエが自分の体を抱きかかえるように丸くなって寝ていた。
毛布を掛けてあげる……お兄ちゃんは本当にどこにもいかないだろうか。お姉ちゃんが言っていたことはあたしにはよく分からなかったけど。
◆
次の日。
お兄ちゃんがあたしたちの部屋に来て、まだこっちにいてくれるって言ってくれた……本当にお姉ちゃんの言うとおりになった!
いつも通り、セリエがお兄ちゃんとキスしたけど、後ろを向かされたのがちょっと不本意だった。
でも、振り返って、いつもみたいに並んで、照れたような顔をしているお兄ちゃんと、幸せそうにしてるセリエを見て、とっても嬉しかった。セリエは少し不満げな顔でもあったけど。
いつもみたいにお兄ちゃんに抱きしめられながら……昨日のお姉ちゃんの言葉をもう一度思い出した。
「………なんで?」
「……それはね」
「……」
「……あたしたちは戦友だからよ。一緒に戦った仲間だから」
「戦友?」
「一緒に戦う、戦いの中で背中を預けるってことはね、とっても特別なの。
………その人のすべてを信じていないとできない」
「そうなの?」
「……命を掛けたもの同士だからこそ、その絆はとても強いわ。
セリエや、ユーカや、あたしと離れたくないと……風戸君だって思うはず」
そういってスズお姉ちゃんがあたしに微笑みかけた。
「……それが……あたしが、あいつが残ると思う理由」
その時、あたしは分かってなかった。どれい、というのがなんなのか。
どれいになって、しばらくして。
何人かの、怖い顔をした人たちが来て……その日のことはあまり覚えていない。一人でどこかの宿の部屋にいたことだけは覚えている。
セリエが部屋に戻ってきたときのことも。
柔らかい栗色の髪はバサバサに乱れて、いつもきれいに着こなしている服もエプロンが無くて。
いつも優しくあたしを見てくれる綺麗な目は真っ赤で、微笑んでくれる頬も涙で濡れていた。
「……お嬢様、ご心配なく」
セリエはそれでも笑ってくれた。
…………あたしは、セリエの為に何ができるだろう。
◆
どれいになって、12歳になった時、スロットシートに触れた。あたしにもスロットがあることが分かった。
お母さまはスロット能力が無かったけど、お父様は凄くたくさんのスロットを持っていたってセリエが教えてくれた。
スロット武器を取ったからあたしだって戦える。これでセリエばかり辛い目に合わせない。そう思ったけど、戦いに出るのは止められた。
「お嬢様に何かあったら……旦那様や奥様に顔向けができません……どうか」
セリエがあたしに縋って泣いた。
「お金が貯まったら……奴隷ではなくなります。その日までご辛抱ください」
セリエは言っていた。でも、セリエが酷い目に会うたびに胸が張り裂けそうになった。何もできない自分が心の底から嫌だった。
お金が貯まる日って……いったいいつのことなんだろう。
……奴隷じゃなくなったら。いつかセリエと小さな家を買おう。庭にいっぱい花を植えて、セリエと一緒に過ごすんだ。
その時はあたしだって大人になってる。そうしたら探索者になるんだ。
セリエは家でご飯を作って、あたしを待っていてもらおう。今まで辛い思いをさせてしまった分、たくさんセリエの為に頑張ろう。
……そんな、いつになったら終わるか分からない日を、突然やってきたお兄ちゃんが変えてくれた。
お父さんを陥れたラクシャス家に買われそうになって、セリエとばらばらにされそうになっていたのを、救い出してくれた。
一度、なんでそんなことしてくれたのって聞いたことがある。でもお兄ちゃんは教えてくれなかった
◆
お兄ちゃんと一緒に居られることになって、新しい部屋に住むことになった。
奴隷商の城から少し離れたところにある探索者の人がいる建物だ。
ちょっと小さな細長い部屋に寝台が2台と机と椅子にクリーム色の湯浴み用のお風呂。壁には昔住んでいた家よりもきれいな白い壁紙が張ってあった。
ベッドも、今まで寝ていたのとは全然違う、柔らかいけど硬い不思議なベッド。お兄ちゃんはマットレス、と言っていたけど。
ある夜、突然目が覚めた。目を開けると真っ暗な部屋で、隣のベッドで寝ているはずのセリエがいなかった。
一瞬、怖くなった。セリエはどうしたんだろう……どこかに行ってしまったなんてことは無いと思うけど。
探しに行った方がいいんだろうか。そう思った時に、ドアが開いて部屋に光が差し込んできて、セリエが入ってきた。
唇を抑えて入ってきたセリエは、今まで見たこともないくらい幸せそうな顔をしていた。
……お兄ちゃんと一緒に居たんだ。それだけはなんとなくだけど分かった。何があったかは分からないけど。
暫くして、セリエが部屋を出ていった夜、お兄ちゃんの部屋を覗いた。
お兄ちゃんとセリエがキスしていた。キスが終わって、セリエとお兄ちゃんが何か話している、けど聞き取れなかった。
幸せそうな顔を見て嬉しかったけど、なんかここに居ちゃいけない気がして慌てて部屋に戻ってベッドに飛び込んだ。
あたしもお父様やお母さまとキスしたこともある。でもそんなにすごいことだっただろうか。
……わからなかったけど、初めてお兄ちゃんにキスしてもらった時に分かった。とっても幸せで、セリエの気持ちが分かった。
でも、しばらくして気付いた。あたしがお兄ちゃんとキスすると、セリエはちょっと悲しそうな顔をする。
本当にごくわずかで、お兄ちゃんは気づいてないと思う。でもあたしにはわかった。
なんでだろうって考えた。あたしはセリエがお兄ちゃんとキスしてるのを見ても嬉しいだけなんだけど。
お兄ちゃんのちょっと照れたような顔とセリエの幸せそうな顔を見るとあたしも幸せな気持ちになる
……セリエは違うんだろうか。
考えて、そして思い出した。
お母様が昔教えてくれたことがある。好きには、「特別な好き」があるんだって、その人が一番大事だっていう好きがあるんだって。
あたしはセリエも好きだし、お兄ちゃんも好きだし、スズおねえちゃんも好き。
でもセリエがお兄ちゃんを好きな気持ちは違うんだ。セリエの好きは多分その「特別な好き」なんだ。
「セリエ、あたし、もうお兄ちゃんにキスしてもらうの辞めるね」
寝る前にコアクリスタルのライトを消そうとしたセリエに言うと、セリエが驚いた顔をした。
「………なぜでしょうか?」
「……代わりにお兄ちゃんにぎゅってしてもらうのはあたしもだよ、それはいいよね、セリエ?」
お兄ちゃんがぎゅっと抱きしめてくれるのは、キスした時と同じくらいに幸せだから、あたしはそれで十分満足。
「……ありがとうございます、お嬢様」
セリエが戸惑ったような顔をして、ちょっと嬉しそうあたしを抱きしめてくれた。
お兄ちゃんと一緒に居るようになって、セリエは幸せそうに笑うようになった。
お兄ちゃんと同じように塔の廃墟に元から居たっていうスズお姉ちゃんも、とっても強くて、不思議な武器を持っていて、とっても優しい。
魔獣と戦ったりするのはちょっと怖かったけど、それでもお兄ちゃんやセリエが一緒にいてくれるってだけで勇気がわいてくる。
もう二度と会えないと思っていたお母様とも会えた。朝、お母様にお早うって言えることはなんて幸せなんだろう。
また前の家に戻れるかもしれないっていうのも聞いた。
お兄ちゃんとお姉ちゃん、お母様、エルネストおじさん、セリエ、レナ、みんなで前みたいに暮らせればこんな嬉しいことはないと思う。
家に帰れたら……サンヴェルナールの山の夕焼けをみんなで見よう。
たしか林檎の美味しいお酒があったはずだ。お父様が好きだったお酒。お兄ちゃんもお姉ちゃんもきっと気に入ってくれる。
お兄ちゃんがいろいろつれてってくれたみたいに、いろんなところにお兄ちゃんやお姉ちゃんを案内しよう。
そう思ってた
そう思ってたから……オルドネス公の言葉には心臓を掴まれたような気がした。お兄ちゃんがもとの世界に帰れるかもしれない……帰っちゃうかもしれない。
でも、お兄ちゃんはずっといてくれるって思った、
だから……お兄ちゃんが口ごもったときは目の前が真っ暗になった。
帰りたいの?ずっと一緒だよって言ってくれたのに。
あたしたちのこと、もう要らないの?
◆
パニックになって慌てて部屋から飛び出しちゃったけど、途中でそんなことしてる場合じゃないって気づいた。
「お嬢様!」
立ち止まると、セリエが廊下を走って追いかけてくるのが見えた。
「行こう、セリエ」
「え?」
「一緒に行こう!お兄ちゃんに言わなきゃ、行かないでって、二人で言わなきゃ」
すぐに一緒に来てくれると思ったセリエが、黙ってうつむいてしまった。どうしたんだろう。
「………ご主人様にも」
「え?」
「ご主人様にも……おやりになりたいことがあるんです、お嬢様」
「何言ってるの?」
「……ご主人様のお心を乱さないように、お決めになるまでは私はお会いしないつもりです」
「なんで……そんなこと言うの?」
セリエが何を言ってるのかわからなかった。お兄ちゃんがいなくなっちゃうかもしれないのに。
「セリエは……お兄ちゃんのことが好きなんでしょ?大好きなんでしょ?
じゃあ言わなきゃ!」
「……ご主人様の思うようにしていただくのが……お仕えするものの務めですから」
セリエが静かに言うけど……泣くのをこらえているのがわかった。
「そんなの関係ないよ!なんでそんなこと言うの?
お兄ちゃんがいなくなっちゃうかもしれないんだよ!」
そういったけど、セリエは黙って泣くのをこらえていつもみたいにまっすぐ立っていた。
セリエが何を考えているかは分からなかった。でもお兄ちゃんに何も言いに行かないことは分かった。
◆
一人でも言わないと、と思ってお兄ちゃんを探したけど、どこにもいなかった。どこかに行ってしまったんだろうか。
どうしようかって思ったけど、スズお姉ちゃんに話そう……スズお姉ちゃんは頭がよくて、いつだってあたしにいろんなことを教えてくれる。
メイドのお姉さんに教えてもらったスズお姉ちゃんの部屋に行くと、お姉ちゃんが椅子に座って窓から外を見ていた。
部屋には夕日が赤く差し込んできていて、お兄ちゃんが迎えに来てくれた時みたいだった。
「あら、ユーカ、どうかした?」
「お姉ちゃん……お兄ちゃんに行かないでって言いに行くの。お姉ちゃんも一緒に来て」
スズお姉ちゃんがちょっと困った顔をした。
「……あたしはどこにも行かないわ。帰るつもりはない。それじゃだめかな?」
お姉ちゃんがいてくれるのは嬉しい、でも。セリエにはお兄ちゃんじゃないとダメなんだ。
「セリエは?」
「……お兄ちゃんには会わないって。お兄ちゃんが決めるまで会わないっていうの」
「そっか……」
お姉ちゃんがため息を一つついて立ち上がる。
「おかしいよ。セリエはお兄ちゃんのこと好きなんだよ。じゃあ何で一緒に居てって言わないの?
お兄ちゃんが帰っちゃってもいいなんておかしいよ」
お姉ちゃんが黙って窓の方に歩いて行って、こっちを向く。黒い影が部屋の中に伸びた
「……セリエはね……お兄ちゃんのことがね、大好きなの」
「ええ、分かるわ」
「そうじゃないの……ただの好きじゃないの、特別な好きなの」
好きと特別な好きは全然違う。でも、この気持ちが塔の廃墟から来たお姉ちゃんに分かるだろうか。
「……言いたいことは分かるわよ、人間なんてどこでも同じよね」
お姉ちゃんが笑う。
「お兄ちゃんはどうかな。セリエのこと……好きかな」
この質問をするのは……本当は凄く怖かった。
お兄ちゃんはとっても優しいけど……お兄ちゃんはセリエをどう思ってるんだろう。スズお姉ちゃんが首をかしげて考え込む。
「……そうだと思うわ、多分ね。あいつあんまりその辺は表に出さないけど
……ていうか、あいつ、セリエに何も言ってないの?好きだ、とか」
「………うん」
セリエがそのことで時々不安そうにしてるのを知ってる。お姉ちゃんが呆れたって顔で首を振った。
「……まったくふざけてるわね、あの草食系……蹴っ飛ばそうかしら」
「……草食系って何?」
草食系って言葉の意味は分からなかったけど。でも、それだったらやっぱり一緒にいてほしい
好きな二人が一緒にいることは幸せなことだよって、お母様も言ってたもの。
「でも、それなら……お兄ちゃんもセリエが好きだし、セリエだってお兄ちゃんが好きなんだから。一緒に居られるのが一番いいでしょ、そうじゃない?」
「そうね、ユーカ。多分あなたの言ってることは間違ってないわ」
「そうでしょ?そうだよね」
やっぱりそうなんだ。言わないと、お兄ちゃんに。行かないでって。
「お姉ちゃん、一緒に言って。お兄ちゃんに行かないでって言って」
スズお姉ちゃんが今まで見たことがない困った顔をして首を振った
「ごめんね、ユーカ……それはできない」
「………なんで?」
「どうするかは、風戸君が決めることだから」
「でも、お兄ちゃんはセリエのことが好きなんでしょ。
好きな人同士は一緒にいるのが幸せだってお母様が言ってたもん」
「ええ、それは確かに正しいわ……でもね」
そういってお姉ちゃんがあたしを見る。
「……ユーカもお母さんに会えて嬉しかったでしょ?」
その言葉はあたしにはあまりにも重かった。
「……うん」
「風戸君だってそうだと思わない?」
そう。お母さまと会えた時、もう二度と会えないと思ってたお母さまと会えた時は本当にうれしかった。
……わかってるんだ。あたしの我儘だって。わかってる。
でも、離れたくない。どこにも行ってほしくない。ずっと一緒にいてくれるって思ってた。
こんな日が、こんな早く来るなんて思ってなかった。
涙があふれ出てきた。止められなかった。
お兄ちゃんがどこかに行ってしまったら、セリエはどれだけ泣くだろう。
……あたしは結局セリエのためになにもしてあげられない。
きっと部屋で泣いてるセリエ……あれだけあたしを守るためにつらい思いをしてくれたセリエのために、あたしはなにもできないんだ。
◆
目が覚めたら、ソファの上だった。毛布が滑り落ちる。もう部屋は真っ暗で、窓の外からは白い月の光が差し込んできていた。
ソファが濡れていた。多分泣きながら寝ちゃったんだろう。
暗い部屋にはコアクリスタルの燭台が灯っていて、その向こうでスズお姉ちゃんがお酒を飲んでいた。
「起きた?」
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
お姉ちゃんが首を振って立ち上がって、手を広げたままこっちに歩いてきた。そのままお姉ちゃんが抱きしめてくれる。
あたしの息と、お姉ちゃんの心臓の音としか聞こえなくて。世界にあたしたちだけしかいないくらいに静かだった。押しつぶされそうなほどに。
あったかい手に抱かれていると、また涙が出そうになる。
「あのね……ユーカ」
抱きしめられたままで、お姉ちゃんの声が上から降ってきた。
「これは……確実とは言えないわ……でもね」
「……うん」
「でもね、多分風戸君は、いかないと思うわ。此処に残ると思う」
お姉ちゃんの言葉に心臓が飛び上がりそうになった。
もしそうだったら……どんなに嬉しいだろう。でもなんでそう思うんだろう?それに、もしそうじゃなかったら……
「………なんで?」
「それはね……」
……お姉ちゃんがその後言ってくれたことは、あたしにはよくわからなかった。
でも、お姉ちゃんはいままで嘘は言わなかった。だから、きっとそうなると本当に思ってるんだ。
そのあとは、お姉ちゃんが部屋まで送ってくれた。
部屋には2台の立派なベッドがあって、片方の上でセリエが自分の体を抱きかかえるように丸くなって寝ていた。
毛布を掛けてあげる……お兄ちゃんは本当にどこにもいかないだろうか。お姉ちゃんが言っていたことはあたしにはよく分からなかったけど。
◆
次の日。
お兄ちゃんがあたしたちの部屋に来て、まだこっちにいてくれるって言ってくれた……本当にお姉ちゃんの言うとおりになった!
いつも通り、セリエがお兄ちゃんとキスしたけど、後ろを向かされたのがちょっと不本意だった。
でも、振り返って、いつもみたいに並んで、照れたような顔をしているお兄ちゃんと、幸せそうにしてるセリエを見て、とっても嬉しかった。セリエは少し不満げな顔でもあったけど。
いつもみたいにお兄ちゃんに抱きしめられながら……昨日のお姉ちゃんの言葉をもう一度思い出した。
「………なんで?」
「……それはね」
「……」
「……あたしたちは戦友だからよ。一緒に戦った仲間だから」
「戦友?」
「一緒に戦う、戦いの中で背中を預けるってことはね、とっても特別なの。
………その人のすべてを信じていないとできない」
「そうなの?」
「……命を掛けたもの同士だからこそ、その絆はとても強いわ。
セリエや、ユーカや、あたしと離れたくないと……風戸君だって思うはず」
そういってスズお姉ちゃんがあたしに微笑みかけた。
「……それが……あたしが、あいつが残ると思う理由」
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