僕は御茶ノ水勤務のサラリーマン。新宿で転職の話をしたら、渋谷で探索者をすることになった。(書籍版・普通のリーマン、異世界渋谷でジョブチェンジ)
変わっていく世界を見る・上
目をうすく開けると、白い光がうっすらと目に差し込んできた。太陽の光だ。
目の前に黒い塊が見える。何かと思ったら、セリエの胸だということに気づいた。
どうやら膝枕されていて、セリエが僕の首を抱くようにしてうとうとと寝ているっぽい。
体を起こそうとしたら強烈に頭痛がした。ちょっと遅れてむせかえるような酒の匂いが鼻をつく。
身じろぎしたら、セリエが飛び起きた。
「すみません、ご主人様」
頭の上からセリエの声が降ってくる。
体を起こして、おはよう、と言い返そうとしたけど。舌が喉に張り付いたような感覚で声がうまく出せなかった。
割れるように頭が痛む。というか、典型的な飲み過ぎの二日酔いだ、これは。
ジェスチャーで水を飲むしぐさをすると、セリエが水差しに水を持ってきてくれた。
机の上に転がっていたカップに入れて飲む。しみわたるように喉に冷たい水が抜けていった。
「あー……お早う、セリエ」
「おはようございます、ご主人様」
周りを見渡すと、さわやかな朝、という光景じゃなかった。というか窓から差し込む光の角度的に、もう昼近いかもしれない。
そこら中に酒瓶が転がり、床はこぼれた酒であちこち濡れている。いくつかの机はひっくり返っていて、倒れてない机の上には料理が置きっぱなしだ。
皿からチーズを一切れ取ってかじる。ちょっと硬くなってるけど、まあまだ食べれるな。
床にはヴァレンさんとリチャード、アーロンさんが転がって高いびきを立てている。
レインさんは壁にもたれて寝ていて、都笠さんは机に突っ伏していた。なんというか、絵に描いたような乱痴気騒ぎのあとって感じだ。
「ユーカとシェイラさんは?」
「お嬢様と奥様はまだお部屋でお休みです」
セリエがもう一杯水をカップに注いでくれながら教えてくれる。どうやら賢明な諸氏はさっさと騒ぎから抜け出して、最後に残ったのは僕等だけってわけか。
痛む頭で昨日のことを思い出す。
帰った時点でもう12時は過ぎていた。
東京と違ってガルフブルグでは12時を回れば深夜で、やっている店はほぼなくなり、人もほとんどいなくなってしまう。
そんな時間でもサンヴェルナールの夕焼け亭にはウェイトレスさんとかも含めて全員が残っていてくれた。もともとはサヴォア家につかえていた人が多いから、心配だったんだろう。
ユーカと一緒に店に入ってきたシェイラさんの顔を見たヴァレンさんは男泣きに泣いた。
この人もいろんなものを犠牲にして、正しいと思うものの為に戦ってきたんだな、と思うと素直にすごいと思える。帰ってくるかもわからない主のために家を守ってきたんだから。
そして、食材庫のほぼ全部を使って料理を作ってくれて深夜の大宴会が始まった。正直言って、誰か止めるのかと思ったし、止めてほしかったんだけど、誰も止めなかった。
アーロンさん曰く、探索者はいつ死ぬか分からない、次の日に不幸が起きるかもしれない、だから喜べるときは直ぐ喜びを分かち合うもんだってことらしい。
その後の記憶はあいまいだ。
カップに酒が次々と注がれて、深夜の大騒ぎになった。音楽もかけてたし、よく隣近所から文句がとんでこなかったもんだと思う。
アーロンさんの尋常じゃない酒の強さは知っていたけど、都笠さんもそうとは思わなかった。
途中からは記憶が全くない。
最後に覚えているのは、泣きながらワインを飲むヴァレンさんと、僕のグラスに蒸留酒を注ぎ続けるアーロンさんと、大ジョッキでエールを飲み比べる都笠さんとリチャードの姿か。
「ご主人様、失礼しますね」
痛む頭を抱えていると、セリエが座ったままの僕にぴったりと抱き着いてきた。
「……この方が効果が高いので……お辛そうですから」
セリエのやわらかい胸が僕の胸板に当たる。髪が頬に触れて温かい息が耳にかかった。
「【彼の者をむしばむ災い、我が祈りによりて正に帰さん、斯く成せ】」
セリエの詠唱が終わると、割れるような頭痛がすっきりと引いていった。
解毒や治癒は普通に触れるだけでも使えるのは知ってるけど。僕としても役得なので拒む理由もないので特に文句はない。
解毒はどうやら二日酔いも解消してくれるらしい。酒は毒扱いなのか、飲みすぎると毒ってことなのか。
いずれにせよ、ドラッグストアで二日酔いの薬を買える世界じゃないし、助かった。
ていうか、ドラッグストアの薬とかもこっちに持ち込むと便利かもしれない。
回復魔法や解毒、疾病治癒とかのような魔法や、回復のジェムとかは強力かつ便利だけど。
魔法は使い手が限られているし、ジェムとかのような回復アイテム的なものもあくまで限られたもので、庶民にはあまり縁がないようだし。
薬草とかよりはまあ効果があるんじゃないかと思う。
「ありがとう」
立ち上がって強張った体を伸ばす。
我ながら酒臭いんだけど、気分はすっきり普通通りなのはなんか変な感じだ。水を飲みながらチーズをかじっているとリチャード達が起きてきた。
起きてきたアーロンさんたちにセリエが、勿論抱きつかずに、順番に解毒をかける。
アーロンさんたちはまだ寝たりないのか帰っていった
◆
総出で片づけをして3日後、ようやく営業を再開した。
そのさらに3日後の昼、サンヴェルナールの夕焼け亭にバスキア公の使いが来た。今日の夜に行くから誰も入れるなってことらしい。
まあようするに貸し切りにしろってことか。
昼に突然連絡してきて貸し切り営業ってのは勘弁なんだけど、相手が相手だし幸いにも先約が入っていなかったのでよかった。
そして、夜。
シェイラさんやヴァレンさんも含めて全員で出迎えの支度をしていると、約束通りバスキア公がやってきた。
狭い路地は騎士や従士によって封鎖されて、店の前のスペースには前にも見たバカでかい馬車が止まっている。
なんというか、大統領が来たって感じだな。
「しばらくだな、スミト。
じゃあ、噂の楽師無き音楽堂とお前の管理者を見せてもらおうじゃねぇか」
どかどかとバスキア公が入ってきた。今日もこの間と同じく、ファー付きの黒のロングコート姿だ。
シェイラさんとヴァレンさんが慌てて跪くけど。
「ああ、気にすんな。ここは宮廷でも何でもねぇ」
バスキア公が手で立つように促す。わりとこの人もフランクな人だな。
目つきとかも、前に会った時のようなちょっと威圧的な雰囲気はない。
今日もジェラールさんが後ろに控えていて、それ以外にも何人かの人が従っている。
この間と違って戦えるのはジェラールさんだけって感じだ。他は女の人とか秘書っぽい文官とか、何故か子供までいた。よくわからない組み合わせだな。
「来たことないんですか?」
「俺が来ようとすると、こうなっちまうからな」
バスキア公がドアの外を指さす。
まあ確かにこれだけ大げさだとお忍びもなにもあったもんじゃない。
籐司郎さん一人だけを連れて気ままに動いているっぽいダナエ姫とは正反対だけど、どっちかというとダナエ姫の方が特殊なんだろう。
「まあそんなことはどうでもいい。早速始めろ」
「それじゃ。
管理者、起動。電源復旧」
電源をつけて、カウンターの中のレナさんに合図をする。
レナさんがカウンターの奥に下がって行って、すぐに木管楽器と金管楽器の音、続いて威勢のいいドラムとシンバルの音が高性能スピーカーから流れた。
低温の響きがいい。
今日は貴族に受けがいいクラシックのうち、なんとなくバスキア公好みっぽい行進曲を選んでみた。
どこから音が聞こえてくるかわからないらしく、バスキア公やお付きの人が周りを伺っているのが面白い。ジェラールさんも厳つい顔のまま視線を左右にやっている。
バスキア公の満足げな表情を見るとお気に召したらしい。皆が黙って聞き入って、7分ほどの少し長めの曲が終わった。
「……他の演奏も聞けるって話だが?」
「ええ」
カウンターの中にいるレナさんにもう一度合図を送ると、レナさんがCDを変えてくれる。
一度音楽が止まって、すぐに次が流れ出した。次はちょっと軽快な感じのピアノが流れて、ベースのリズムがそれに加わる。リズミカルなジャズだ
「ほう、噂通り……いや、噂以上だな。こんな風にすぐに切り替えられるわけか。しかも全然違うものに。
しかし、こんなからくりを作るとは、お前等塔の廃墟の連中はよほどの音楽好きだったんだな」
「まあ……そうかもしれませんね」
東京にいる頃は好きな曲だけを適当に聞いていたからあまり意識したことはなかったけど、CDを集めてみると実にいろんな種類のジャンルがある。
単純にクラシックというジャンルの中だけでも年代で結構雰囲気が違う。日本じゃあまりなじみのない海外の音楽まで含めればとても数えきれないほどの種類だ。
どちらかというとガルフブルグでは古典に属する音楽や民族音楽的なものが受けが良くて電子音を使ったポップスとかテクノとかはあまり理解されなかった。
というか、やはりあの電子音は違和感が強すぎるらしい。ファンタジー世界の人たちにはちょっと早すぎるんだろうけど、1世代くらいしたら流行ったりするんだろうか。
「じゃあ仕組みも教えてもらうぜ……いやとは言わねえよな」
「ええ。いいですよ。こっちへどうぞ」
バスキア公がじろりと僕等を睨むけど。今更約束を破って隠そうなんてつもりはない。
店の奥のオーディオを見せて、CDの入れ替え方や簡単な操作法を教える。
一しきり説明したけど、バスキア公はよくわからん、という顔をしていた。まあ無理もないかな。
「よし、スミト。一度管理者を解除しろ」
「いいですけど?電源解除」
管理者を解除すると、オーディオのディスプレイの表示が消えて、音楽も消えた。
「よし。おい」
「はい!」
バスキア公が手で合図すると小さな男の子が元気よく返事をして進み出てきた。
背が小さくて痩せていていて、肌もほんのり日焼けしている。やんちゃな少年ってかんじだ。こげ茶色の髪を短く切っているけど、散髪したばかりのように見える。
ユーカよりは少し年上っぽいけどセリエよりは年下っぽい。ゼーヴェン君と同じくらいだろうか。
赤地に白で刺繍が入った立派なマントと、おろしたてって感じのきれいな礼装を着ている。
従者っぽいけど、今一つ似合ってないというか、垢ぬけてないというか、着慣れてない感じだ。何とも初々しい。
「さあ、やってみろ」
「はい」
バスキア公に促されて男の子がオーディオに手を伸ばす。
返事は元気がよかったけどかなり緊張してる感じだ。何度も深呼吸をしている。
「しゃきっとしろ!お前の力を信じろや」
「はい!」
いらだたしげにバスキア公が声をかけて男の子が背筋をしゃんと伸ばした。覚悟を決めたように黒いオーディオ本体に手を触れる
「【……眠っている君、僕の力になってくれるかな】」
オーディオのディスプレイにまたデジタル表示が現れる。男の子が恐る恐る再生キーを押すと、さっきと同じピアノが流れ出した。
男の子が安心したようにため息をつく。この子は管理者使いか。
「よーし。そうだ。それでいい」
「はい」
バスキア公が満足げにうなづく
男の子が嬉しそうな誇らしげな顔でバスキア公を見上げて、あわてて表情を引き締めて前を向き直った
立ち居振る舞いといい、服に着られてる雰囲気といい、多分だけど、貴族の子弟とかじゃないんだろうと思う。
なんとなくだけど、強引にどこかの領土の庶民の家から引っ張ってきたんだろうなって感じがする。
この子がラジカセとか持って管理者を使って地方を回ったるするんだろうか。
「じゃあ、これあげますよ」
棚の下にしまってあった小型のラジカセを差し出す。
一番最初に買ったやつだけど、結局使わずじまいになっていたものだ。
「なんだこれは?」
サンヴェルナールの夕焼け亭に設置したのは最高級のオーディオで、スピーカーも大型の高級品だ。これを運んで設置するのは結構手間がかかる。
地方に持ち出すなら持ち運びがしやすいラジカセのほうがいいだろう。
「これの小型のものですよ。
ここの仕組みは持ち運びがしにくいですから。こっちの方がいいんじゃないですか?」
「ほーう。こんなものもあるとはな。ありがたく頂いておくぜ。おいエジット」
管理者使いの少年、エジット君というらしいけど。
彼が進み出てきてラジカセをガラス細工でも扱うように大事そうに持ち上げて外に出ていった。
◆
「そういえばスミト、お前に会いたいと言うのがいる」
カウンターの外に出てテーブルを囲んで座るとバスキア公が突然、そんなことを言い出した。
とりあえずもう管理者の使い方は教えたから、今日の主目的は果たしたんじゃないかと思うけど、何の話だろう。
「……誰です?」
「おい!」
バスキア公に促されて進み出てきたのは、40歳ちょっとすぎって感じの男の人だ。少なくとも僕は会ったことがない。
ちょっとふっくらして温和そうな雰囲気の人だ。整髪料というか脂かなにかで癖のある黒っぽい茶髪を後ろになでつけている
ちょっと太めの体に礼装が窮屈そうだ。立派なマントをまとっている。バスキア公の旗下の上位の貴族って感じだろうか。
愛想よく笑って頭を下げてくれたからこちらも下げる。ただ、愛想は良いけど、ちょっと垂れた目は笑ってないというか、僕を探るように見ている。なんというか、貴族というより商人っぽいな。
その横にはセリエと同じ年くらいの女の子がいる。セリエより少し背が高い。
濃いめのブラウンのウェーブがかかった長い髪に優しげな感じのブラウンの目の、整った顔立ちの人だ。
僕をみて柔らかくほほ笑んでくれる。かわいいとかというより、一緒に居ると安心するって感じだな。
男の人と揃いの柄の短めマントを着て、その下はワンピースのような薄桃色のドレスを着ている。
マントがおそろいってことは親子かな。目元が心なしか似ている気もする。
女の子がカーテシーのようにスカートをちょっとつまんで頭を下げた。
「初めてお目にかかる。スミト卿。私はラヴェイユ・ヴィローナ・パピエ」
「お会いできてうれしいです、カザマスミト様。私、メリッサ・オーヴェルーナ・パピエと申します」
「はあ……初めまして」
やっぱり親子らしい。始めましてなんだけど、この人達は一体何なんだろう。
「大公様が、お前にふさわしい婿を連れてきてやる、と仰せでしたのでお会いするのを心待ちにしていたのですが……私はスミト様のお眼鏡にかなわなかったとお聞きしまして」
そう言ってメリッサさんとやらが目を伏せる
「それでも、せめて一目お会いしたく思って。今日は公にお願いして……参りました」
誰かと思ったけど、婿ってところでなんとなくわかった。
この間の夜に、バスキア公が結婚しろって言ってた相手か。確かにかわいらしい感じだ。
ただ、断ったのは、お眼鏡にかなうとかそういう問題じゃなかったんだけど
「……大公からお伺いした所では、今まで領地を治めるということをされておられなかったことを気にしておいでとか」
そういってメリッサさんが唐突に僕の手を取った。そのまま上目遣いに見上げてくる。
「でも、御安心下さい。
この通りわが父は健在ですから、父とともに我が領地のことについて知っていただければ……婿入りの差し障りはないと思います。勿論私も微力ながらお支えしますし」
その横でラヴェイユさんがうなづいている。
「流石は竜殺しの英雄、その慎み深い振る舞いには私も感服いたしました。
自慢の娘ですが……婿殿としてはこれ以上の相手は求めるべくもありますまい」
「あのですね、唐突に会ったこともない男と結婚しろとかいわれてるんですけど、いいんですか?」
僕の言葉にメリッサさんが首を傾げた。
「貴族の倣いですから。
それに、龍殺しの英雄であるあなた様と共に歩んでいけるのなら……とても幸せなことですわ
是非私を娶って我が家に御入り頂いただければと思います」
絡んだ指に力が入って、息がかかるほどの距離に顔が近づく。
おっとりした顔しているけど、めちゃくちゃ押しが強いな、この子。
「……あの話は終わったんじゃないんですか?」
「いや、俺は今もお前はこいつを娶って貴族になるべきだと思ってるぜ。
落ちぶれ貴族の準騎士と大貴族の跡取りじゃ発言力が違うからな」
バスキア公の方を見て抗議するけどあっさりと否定された。
「あの時はお前とブルフレーニュのお譲ちゃんの顔を立てただけだ。心変わりはいつでも受け付けてるぞ。
どうだ?本人を見て気が変わらねぇか?」
確かにかわいいんだけど、だからと言ってそれでいいという問題じゃないわけで。
言い淀んでる僕を見て、メリッサさんがやさしく笑う
「今日は御挨拶だけです。
いつか私を選んでいただけると信じておりますけど……ひとまず失礼しますね」
「スミト卿、色よい返事を期待しておりますぞ。貴方を息子と呼べる日が待ち遠しい」
絡んだ指がほどけてメリッサさんが一礼する。美味しい場面のはずなのになんか疲れた。
ラヴェイユさんがバスキア公と言葉を交わすと二人で店を出ていく。
「風間君、いいの?結構かわいい子じゃない。
貴族のお姫様だし。逃した魚は大きいかもよ」
都笠さんが楽しげに笑いながら僕の肩を叩く。どう見てもからかって言ってるな。
そんなことより、セリエとユーカの白い目が痛すぎた。
目の前に黒い塊が見える。何かと思ったら、セリエの胸だということに気づいた。
どうやら膝枕されていて、セリエが僕の首を抱くようにしてうとうとと寝ているっぽい。
体を起こそうとしたら強烈に頭痛がした。ちょっと遅れてむせかえるような酒の匂いが鼻をつく。
身じろぎしたら、セリエが飛び起きた。
「すみません、ご主人様」
頭の上からセリエの声が降ってくる。
体を起こして、おはよう、と言い返そうとしたけど。舌が喉に張り付いたような感覚で声がうまく出せなかった。
割れるように頭が痛む。というか、典型的な飲み過ぎの二日酔いだ、これは。
ジェスチャーで水を飲むしぐさをすると、セリエが水差しに水を持ってきてくれた。
机の上に転がっていたカップに入れて飲む。しみわたるように喉に冷たい水が抜けていった。
「あー……お早う、セリエ」
「おはようございます、ご主人様」
周りを見渡すと、さわやかな朝、という光景じゃなかった。というか窓から差し込む光の角度的に、もう昼近いかもしれない。
そこら中に酒瓶が転がり、床はこぼれた酒であちこち濡れている。いくつかの机はひっくり返っていて、倒れてない机の上には料理が置きっぱなしだ。
皿からチーズを一切れ取ってかじる。ちょっと硬くなってるけど、まあまだ食べれるな。
床にはヴァレンさんとリチャード、アーロンさんが転がって高いびきを立てている。
レインさんは壁にもたれて寝ていて、都笠さんは机に突っ伏していた。なんというか、絵に描いたような乱痴気騒ぎのあとって感じだ。
「ユーカとシェイラさんは?」
「お嬢様と奥様はまだお部屋でお休みです」
セリエがもう一杯水をカップに注いでくれながら教えてくれる。どうやら賢明な諸氏はさっさと騒ぎから抜け出して、最後に残ったのは僕等だけってわけか。
痛む頭で昨日のことを思い出す。
帰った時点でもう12時は過ぎていた。
東京と違ってガルフブルグでは12時を回れば深夜で、やっている店はほぼなくなり、人もほとんどいなくなってしまう。
そんな時間でもサンヴェルナールの夕焼け亭にはウェイトレスさんとかも含めて全員が残っていてくれた。もともとはサヴォア家につかえていた人が多いから、心配だったんだろう。
ユーカと一緒に店に入ってきたシェイラさんの顔を見たヴァレンさんは男泣きに泣いた。
この人もいろんなものを犠牲にして、正しいと思うものの為に戦ってきたんだな、と思うと素直にすごいと思える。帰ってくるかもわからない主のために家を守ってきたんだから。
そして、食材庫のほぼ全部を使って料理を作ってくれて深夜の大宴会が始まった。正直言って、誰か止めるのかと思ったし、止めてほしかったんだけど、誰も止めなかった。
アーロンさん曰く、探索者はいつ死ぬか分からない、次の日に不幸が起きるかもしれない、だから喜べるときは直ぐ喜びを分かち合うもんだってことらしい。
その後の記憶はあいまいだ。
カップに酒が次々と注がれて、深夜の大騒ぎになった。音楽もかけてたし、よく隣近所から文句がとんでこなかったもんだと思う。
アーロンさんの尋常じゃない酒の強さは知っていたけど、都笠さんもそうとは思わなかった。
途中からは記憶が全くない。
最後に覚えているのは、泣きながらワインを飲むヴァレンさんと、僕のグラスに蒸留酒を注ぎ続けるアーロンさんと、大ジョッキでエールを飲み比べる都笠さんとリチャードの姿か。
「ご主人様、失礼しますね」
痛む頭を抱えていると、セリエが座ったままの僕にぴったりと抱き着いてきた。
「……この方が効果が高いので……お辛そうですから」
セリエのやわらかい胸が僕の胸板に当たる。髪が頬に触れて温かい息が耳にかかった。
「【彼の者をむしばむ災い、我が祈りによりて正に帰さん、斯く成せ】」
セリエの詠唱が終わると、割れるような頭痛がすっきりと引いていった。
解毒や治癒は普通に触れるだけでも使えるのは知ってるけど。僕としても役得なので拒む理由もないので特に文句はない。
解毒はどうやら二日酔いも解消してくれるらしい。酒は毒扱いなのか、飲みすぎると毒ってことなのか。
いずれにせよ、ドラッグストアで二日酔いの薬を買える世界じゃないし、助かった。
ていうか、ドラッグストアの薬とかもこっちに持ち込むと便利かもしれない。
回復魔法や解毒、疾病治癒とかのような魔法や、回復のジェムとかは強力かつ便利だけど。
魔法は使い手が限られているし、ジェムとかのような回復アイテム的なものもあくまで限られたもので、庶民にはあまり縁がないようだし。
薬草とかよりはまあ効果があるんじゃないかと思う。
「ありがとう」
立ち上がって強張った体を伸ばす。
我ながら酒臭いんだけど、気分はすっきり普通通りなのはなんか変な感じだ。水を飲みながらチーズをかじっているとリチャード達が起きてきた。
起きてきたアーロンさんたちにセリエが、勿論抱きつかずに、順番に解毒をかける。
アーロンさんたちはまだ寝たりないのか帰っていった
◆
総出で片づけをして3日後、ようやく営業を再開した。
そのさらに3日後の昼、サンヴェルナールの夕焼け亭にバスキア公の使いが来た。今日の夜に行くから誰も入れるなってことらしい。
まあようするに貸し切りにしろってことか。
昼に突然連絡してきて貸し切り営業ってのは勘弁なんだけど、相手が相手だし幸いにも先約が入っていなかったのでよかった。
そして、夜。
シェイラさんやヴァレンさんも含めて全員で出迎えの支度をしていると、約束通りバスキア公がやってきた。
狭い路地は騎士や従士によって封鎖されて、店の前のスペースには前にも見たバカでかい馬車が止まっている。
なんというか、大統領が来たって感じだな。
「しばらくだな、スミト。
じゃあ、噂の楽師無き音楽堂とお前の管理者を見せてもらおうじゃねぇか」
どかどかとバスキア公が入ってきた。今日もこの間と同じく、ファー付きの黒のロングコート姿だ。
シェイラさんとヴァレンさんが慌てて跪くけど。
「ああ、気にすんな。ここは宮廷でも何でもねぇ」
バスキア公が手で立つように促す。わりとこの人もフランクな人だな。
目つきとかも、前に会った時のようなちょっと威圧的な雰囲気はない。
今日もジェラールさんが後ろに控えていて、それ以外にも何人かの人が従っている。
この間と違って戦えるのはジェラールさんだけって感じだ。他は女の人とか秘書っぽい文官とか、何故か子供までいた。よくわからない組み合わせだな。
「来たことないんですか?」
「俺が来ようとすると、こうなっちまうからな」
バスキア公がドアの外を指さす。
まあ確かにこれだけ大げさだとお忍びもなにもあったもんじゃない。
籐司郎さん一人だけを連れて気ままに動いているっぽいダナエ姫とは正反対だけど、どっちかというとダナエ姫の方が特殊なんだろう。
「まあそんなことはどうでもいい。早速始めろ」
「それじゃ。
管理者、起動。電源復旧」
電源をつけて、カウンターの中のレナさんに合図をする。
レナさんがカウンターの奥に下がって行って、すぐに木管楽器と金管楽器の音、続いて威勢のいいドラムとシンバルの音が高性能スピーカーから流れた。
低温の響きがいい。
今日は貴族に受けがいいクラシックのうち、なんとなくバスキア公好みっぽい行進曲を選んでみた。
どこから音が聞こえてくるかわからないらしく、バスキア公やお付きの人が周りを伺っているのが面白い。ジェラールさんも厳つい顔のまま視線を左右にやっている。
バスキア公の満足げな表情を見るとお気に召したらしい。皆が黙って聞き入って、7分ほどの少し長めの曲が終わった。
「……他の演奏も聞けるって話だが?」
「ええ」
カウンターの中にいるレナさんにもう一度合図を送ると、レナさんがCDを変えてくれる。
一度音楽が止まって、すぐに次が流れ出した。次はちょっと軽快な感じのピアノが流れて、ベースのリズムがそれに加わる。リズミカルなジャズだ
「ほう、噂通り……いや、噂以上だな。こんな風にすぐに切り替えられるわけか。しかも全然違うものに。
しかし、こんなからくりを作るとは、お前等塔の廃墟の連中はよほどの音楽好きだったんだな」
「まあ……そうかもしれませんね」
東京にいる頃は好きな曲だけを適当に聞いていたからあまり意識したことはなかったけど、CDを集めてみると実にいろんな種類のジャンルがある。
単純にクラシックというジャンルの中だけでも年代で結構雰囲気が違う。日本じゃあまりなじみのない海外の音楽まで含めればとても数えきれないほどの種類だ。
どちらかというとガルフブルグでは古典に属する音楽や民族音楽的なものが受けが良くて電子音を使ったポップスとかテクノとかはあまり理解されなかった。
というか、やはりあの電子音は違和感が強すぎるらしい。ファンタジー世界の人たちにはちょっと早すぎるんだろうけど、1世代くらいしたら流行ったりするんだろうか。
「じゃあ仕組みも教えてもらうぜ……いやとは言わねえよな」
「ええ。いいですよ。こっちへどうぞ」
バスキア公がじろりと僕等を睨むけど。今更約束を破って隠そうなんてつもりはない。
店の奥のオーディオを見せて、CDの入れ替え方や簡単な操作法を教える。
一しきり説明したけど、バスキア公はよくわからん、という顔をしていた。まあ無理もないかな。
「よし、スミト。一度管理者を解除しろ」
「いいですけど?電源解除」
管理者を解除すると、オーディオのディスプレイの表示が消えて、音楽も消えた。
「よし。おい」
「はい!」
バスキア公が手で合図すると小さな男の子が元気よく返事をして進み出てきた。
背が小さくて痩せていていて、肌もほんのり日焼けしている。やんちゃな少年ってかんじだ。こげ茶色の髪を短く切っているけど、散髪したばかりのように見える。
ユーカよりは少し年上っぽいけどセリエよりは年下っぽい。ゼーヴェン君と同じくらいだろうか。
赤地に白で刺繍が入った立派なマントと、おろしたてって感じのきれいな礼装を着ている。
従者っぽいけど、今一つ似合ってないというか、垢ぬけてないというか、着慣れてない感じだ。何とも初々しい。
「さあ、やってみろ」
「はい」
バスキア公に促されて男の子がオーディオに手を伸ばす。
返事は元気がよかったけどかなり緊張してる感じだ。何度も深呼吸をしている。
「しゃきっとしろ!お前の力を信じろや」
「はい!」
いらだたしげにバスキア公が声をかけて男の子が背筋をしゃんと伸ばした。覚悟を決めたように黒いオーディオ本体に手を触れる
「【……眠っている君、僕の力になってくれるかな】」
オーディオのディスプレイにまたデジタル表示が現れる。男の子が恐る恐る再生キーを押すと、さっきと同じピアノが流れ出した。
男の子が安心したようにため息をつく。この子は管理者使いか。
「よーし。そうだ。それでいい」
「はい」
バスキア公が満足げにうなづく
男の子が嬉しそうな誇らしげな顔でバスキア公を見上げて、あわてて表情を引き締めて前を向き直った
立ち居振る舞いといい、服に着られてる雰囲気といい、多分だけど、貴族の子弟とかじゃないんだろうと思う。
なんとなくだけど、強引にどこかの領土の庶民の家から引っ張ってきたんだろうなって感じがする。
この子がラジカセとか持って管理者を使って地方を回ったるするんだろうか。
「じゃあ、これあげますよ」
棚の下にしまってあった小型のラジカセを差し出す。
一番最初に買ったやつだけど、結局使わずじまいになっていたものだ。
「なんだこれは?」
サンヴェルナールの夕焼け亭に設置したのは最高級のオーディオで、スピーカーも大型の高級品だ。これを運んで設置するのは結構手間がかかる。
地方に持ち出すなら持ち運びがしやすいラジカセのほうがいいだろう。
「これの小型のものですよ。
ここの仕組みは持ち運びがしにくいですから。こっちの方がいいんじゃないですか?」
「ほーう。こんなものもあるとはな。ありがたく頂いておくぜ。おいエジット」
管理者使いの少年、エジット君というらしいけど。
彼が進み出てきてラジカセをガラス細工でも扱うように大事そうに持ち上げて外に出ていった。
◆
「そういえばスミト、お前に会いたいと言うのがいる」
カウンターの外に出てテーブルを囲んで座るとバスキア公が突然、そんなことを言い出した。
とりあえずもう管理者の使い方は教えたから、今日の主目的は果たしたんじゃないかと思うけど、何の話だろう。
「……誰です?」
「おい!」
バスキア公に促されて進み出てきたのは、40歳ちょっとすぎって感じの男の人だ。少なくとも僕は会ったことがない。
ちょっとふっくらして温和そうな雰囲気の人だ。整髪料というか脂かなにかで癖のある黒っぽい茶髪を後ろになでつけている
ちょっと太めの体に礼装が窮屈そうだ。立派なマントをまとっている。バスキア公の旗下の上位の貴族って感じだろうか。
愛想よく笑って頭を下げてくれたからこちらも下げる。ただ、愛想は良いけど、ちょっと垂れた目は笑ってないというか、僕を探るように見ている。なんというか、貴族というより商人っぽいな。
その横にはセリエと同じ年くらいの女の子がいる。セリエより少し背が高い。
濃いめのブラウンのウェーブがかかった長い髪に優しげな感じのブラウンの目の、整った顔立ちの人だ。
僕をみて柔らかくほほ笑んでくれる。かわいいとかというより、一緒に居ると安心するって感じだな。
男の人と揃いの柄の短めマントを着て、その下はワンピースのような薄桃色のドレスを着ている。
マントがおそろいってことは親子かな。目元が心なしか似ている気もする。
女の子がカーテシーのようにスカートをちょっとつまんで頭を下げた。
「初めてお目にかかる。スミト卿。私はラヴェイユ・ヴィローナ・パピエ」
「お会いできてうれしいです、カザマスミト様。私、メリッサ・オーヴェルーナ・パピエと申します」
「はあ……初めまして」
やっぱり親子らしい。始めましてなんだけど、この人達は一体何なんだろう。
「大公様が、お前にふさわしい婿を連れてきてやる、と仰せでしたのでお会いするのを心待ちにしていたのですが……私はスミト様のお眼鏡にかなわなかったとお聞きしまして」
そう言ってメリッサさんとやらが目を伏せる
「それでも、せめて一目お会いしたく思って。今日は公にお願いして……参りました」
誰かと思ったけど、婿ってところでなんとなくわかった。
この間の夜に、バスキア公が結婚しろって言ってた相手か。確かにかわいらしい感じだ。
ただ、断ったのは、お眼鏡にかなうとかそういう問題じゃなかったんだけど
「……大公からお伺いした所では、今まで領地を治めるということをされておられなかったことを気にしておいでとか」
そういってメリッサさんが唐突に僕の手を取った。そのまま上目遣いに見上げてくる。
「でも、御安心下さい。
この通りわが父は健在ですから、父とともに我が領地のことについて知っていただければ……婿入りの差し障りはないと思います。勿論私も微力ながらお支えしますし」
その横でラヴェイユさんがうなづいている。
「流石は竜殺しの英雄、その慎み深い振る舞いには私も感服いたしました。
自慢の娘ですが……婿殿としてはこれ以上の相手は求めるべくもありますまい」
「あのですね、唐突に会ったこともない男と結婚しろとかいわれてるんですけど、いいんですか?」
僕の言葉にメリッサさんが首を傾げた。
「貴族の倣いですから。
それに、龍殺しの英雄であるあなた様と共に歩んでいけるのなら……とても幸せなことですわ
是非私を娶って我が家に御入り頂いただければと思います」
絡んだ指に力が入って、息がかかるほどの距離に顔が近づく。
おっとりした顔しているけど、めちゃくちゃ押しが強いな、この子。
「……あの話は終わったんじゃないんですか?」
「いや、俺は今もお前はこいつを娶って貴族になるべきだと思ってるぜ。
落ちぶれ貴族の準騎士と大貴族の跡取りじゃ発言力が違うからな」
バスキア公の方を見て抗議するけどあっさりと否定された。
「あの時はお前とブルフレーニュのお譲ちゃんの顔を立てただけだ。心変わりはいつでも受け付けてるぞ。
どうだ?本人を見て気が変わらねぇか?」
確かにかわいいんだけど、だからと言ってそれでいいという問題じゃないわけで。
言い淀んでる僕を見て、メリッサさんがやさしく笑う
「今日は御挨拶だけです。
いつか私を選んでいただけると信じておりますけど……ひとまず失礼しますね」
「スミト卿、色よい返事を期待しておりますぞ。貴方を息子と呼べる日が待ち遠しい」
絡んだ指がほどけてメリッサさんが一礼する。美味しい場面のはずなのになんか疲れた。
ラヴェイユさんがバスキア公と言葉を交わすと二人で店を出ていく。
「風間君、いいの?結構かわいい子じゃない。
貴族のお姫様だし。逃した魚は大きいかもよ」
都笠さんが楽しげに笑いながら僕の肩を叩く。どう見てもからかって言ってるな。
そんなことより、セリエとユーカの白い目が痛すぎた。
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