寝取られ令嬢は英雄を愛でることにした
手紙と贈り物
* * * * *
シェルジュ王国の白百合宮。
その一角で少女の歓声が上がった。
「ユニファ! ねえ見て! エディス様からお手紙が届いたわ!!」
この宮の主人であるエルミーシャは両手で手紙と包みを侍女へ掲げて見せた。
ユニファと呼ばれた侍女はそんな主人を優しい眼差しで眺めた。
「それは良うございましたね」
つい最近、シェルジュ王国を訪れたマスグレイヴ王国の名高き英雄や騎士達。その中には英雄の婚約者もいた。
そしてエルミーシャは英雄と婚約者、特に婚約者のエディス=ベントリー伯爵令嬢と親しくなった。
帰国する前に約束した「手紙を送る」という話を彼女はさっそく果たしてくれたのだ。
この国までの輸送を考えれば、帰国して二、三日以内に書いて送ったのだろう。
おまけに本も同封されていた。
王女であるエルミーシャに渡される前に本は中身を確認されたが、こうして手元に届いたということは、エルミーシャが読んでも問題なしと判断されたわけだ。
「きっとすぐに送ってくれたんだわ。わたしも早くお返事を書かなきゃ」
「本をくださったのですから、そちらを読んでからご感想と共に書かれるのはいかがでしょう?」
「……そうね。お礼も書くことになるなら、読んでからの方が書きやすいかも」
そう言いながらもエルミーシャはベントリー伯爵令嬢からの手紙を見つめている。
侍女は一度手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切ってから再度エルミーシャへ手渡した。
エルミーシャは落ち着かない様子で封筒から便箋を取り出し、開いたそれの中身へ視線を落とす。
侍女のユニファは主人が読み終えるのを待った。
恐らく一度読み返したのだろう。
じっくりと時間をかけて手紙を読んだエルミーシャの顔には喜色の笑みが浮かんでいる。
「わたしが絵本みたいな物語が好きだって話していたから、わたしの好きそうな本を送ってくれたみたい」
「どのような本かは書かれておりましたか?」
「うん、ウィンターズ様とエディス様の婚約までの実話を元にした小説なんですって」
手紙を丁寧に畳んで封筒に戻すと、エルミーシャはその手紙を大きめの箱へ納めた。
その箱は宝石やレースがあしらわれてキラキラとした可愛らしい見た目で、中にはエルミーシャが大事にしているものが入っている。
そうして今度は本の包みを開けた。
一度確認のために開けられただろうが、きちんと元に戻されているため、綺麗に結ばれたリボンをエルミーシャは丁寧に解いた。
包みを開ければ、やや分厚めの本が一冊。
表紙はベルベットのような上品な深紅で、植物がデザインされており、書かれている題名は「黄金の腕に抱かれて」というものだった。
「『黄金の腕に抱かれて』」
「獅子の時の金色の毛並みを表現していらっしゃるようですね」
「題名からしてなんだかドキドキするわ……」
恐らく恋愛小説なのだろう。
題名からしてそのような雰囲気が漂っている。
エルミーシャは絵本のような物語が好きだと言っているが、実際には絵本のような恋愛小説が好きなのである。
英雄と婚約者の波乱のある物語はきっと主人のお気に召すだろうとユニファは思った。
「今日は読書をして過ごすわ!」
幸い今日は授業が少ないため時間がある。
やや分厚い本を抱えてエルミーシャはそう宣言した。
「では紅茶を御用意いたしますね」
読書には紅茶と甘いお菓子が合う。
侍女の言葉にエルミーシャの目が輝いた。
主人は年相応に甘いものも好きなのだ。
さっそく、いそいそとソファーへ移動するエルミーシャを横目に侍女はベルを鳴らし、別のメイドに紅茶の用意を頼んだ。
戻ると主人は既に本を開いている。
集中力が高いのであっという間に読み終えてしまうかもしれない。
しばらくして静かなノックが聞こえて対応すれば、メイドがサービスワゴンを持ってきた。
それを受け取り、室内へ運び入れるとテーブルの側に置いて紅茶を淹れる。
少しばかり別のカップへ注ぎ、一口飲む。
……問題はなさそうだ。
それから主人の分の紅茶を注いだティーカップを、テーブルの上の、視界に入るだろう位置に置く。
クッキーなどのお菓子もそっと添えた。
それに気付いたエルミーシャが顔を上げた。
「ありがとう、ユニファ」
それにユニファはにこりと微笑んだ。
エルミーシャは紅茶を一口飲み、本格的に読書に集中することにした。
* * * * *
それから三時間半ほどかけてエルミーシャは贈られた本を読み切ってしまった。
よほど面白かったのか、途中から紅茶を飲むことも忘れ、一心に読み進めていた。
時々ハラハラしたり、涙ぐんだり、頬を染めることもあって主人を見ていると何となく話の雰囲気だけは読み取れる。
やがて最後まで読み終えると静かに本を閉じた。
読書の余韻を楽しむように、ほうとエルミーシャが感嘆の溜め息を漏らす。
「ああ、とっても面白かった……! それに素敵! まるで劇を観た後みたいだわ!!」
とても大事そうに本を抱き締める姿にユニファも目尻を下げた。
「お二人のお話はいかがでしたか?」
「お話を聞いた時よりも詳しく書かれていたわ。エディス様もウィンターズ様もお互いをとても好きなのは知っていたけれど、本ではもっともっと仲が良いのよ」
「あれよりもですか?」
ユニファはちょっとだけ驚いた。
英雄もその婚約者も、人目を憚らずにべったりとしていたけれど、あれでもまだ控えていた方だったのか。
そうだとすれば相当仲が良い。
「そうみたい。あとがきにも『二人はこのように愛し愛され、今も幸せに暮らしています』って書いてあるの。手紙にも結婚式の準備をしてるって幸せそうな感じがしたわ」
本の最後のページを開いた。
「これを書いた作家の名前はヴァローナ=サレンナというそうよ」
「聞いたことのない名前ですね」
「マスグレイヴ王国の御令嬢の間でひっそり人気になりつつある作家なんですって。わたしが気にいるようであれば別の作品も送ってくださるそうよ。ああ、別のお話ってどんなのかしら!」
どうやらエルミーシャはそのヴァローナという作家を相当気に入ったようだ。
だからか「この本を貸すからユニファも読んでみて!」と言われたのには少々困ってしまった。
ユニファは恋愛には興味がない。
でも主人の好きなものは知っておきたい。
結局、ユニファは後ほど本を借りることにした。
夜、エルミーシャが眠った後に、控え室で読んでみようと思う。
「さあ、手紙を書かなくちゃ。どうしよう、お礼と感想を書いたらすごく長くなってしまうわね」
「良いのではないでしょうか。本を気に入ったことを素直に書かれるのがよろしいかと。私であったなら、相手に贈った物が喜ばれるのはとても嬉しいことですから」
「最初に手紙が厚くなることに触れて謝っておけば大丈夫かしら?」
本を持って机に戻ったエルミーシャのために、ユニファが手紙を書く準備をする。
恐らくこれを使うだろうとエルミーシャ一番のお気に入りである小花柄とクローバーの便箋を差し出せば、嬉しそうに受け取った。
「さすがユニファね」
ペンとインクも用意する。
エルミーシャはペンを手に取ると、インク壺にペン先を浸し、便箋に向かう。
「エディス=ベントリー伯爵令嬢様、っと。ええと、木々の青葉が美しく、小鳥の囀りが……」
時季の挨拶を思い出しながら書き始めたエルミーシャをユニファは穏やかに見守った。
きっと主人から届いた手紙を読んで、ベントリー伯爵令嬢も喜ぶだろう。
二人が楽しそうに話していた姿を思い出す。
歳は離れているものの、良い友人になれそうだ。
なかなか外へ出られない主人に友人が出来るのはとても良いことである。
願わくばこの繋がりがずっと続きますように。
* * * * *
場所は変わり、シェルジュ王国の北部。
孤児院と教会に隣接した修道院。
その裏庭で修道女達が洗濯物を干していた。
衣類やシーツなどがやや冷たい風で揺れている。
その様を心地好くエリュシアナは眺めた。
自領の修道院へ入ったが、ここはエリュシアナを領主の娘だからといって特別扱いしない場所だった。
貴族の娘も平民の娘もここでは皆、同じ修道女として生活しており、そこに上下関係はない。
……先輩後輩という立ち位置はあるけれど。
だが先輩だから威張ったり、後輩だから甘やかされたりということもない。
毎日決められた仕事をこなし、贅沢な暮らしから離れ、自分のことは自分で行う。
公爵家の令嬢であるエリュシアナには何もかもが初めての経験である。
掃除も、洗濯も、料理の手伝いや片付けも、洗濯物を畳むのも、子供達の世話をするのも遊ぶのも。公爵令嬢のままだったらエリュシアナは経験することがなかっただろう。
そしてエリュシアナはこの生活が結構好きだ。
変に肩肘も張らなくて済むし、周りもエリュシアナを馬鹿にしたり変に持ち上げたりもしないし、何よりあれこれと事情を聞かれない。
ただエリュシアナという一人の人間として扱ってくれる。
洗濯が上手く出来ない時は手伝いながら教えてくれるし、洗濯物が綺麗になると気分がいい。
料理を作るのも楽しいし、美味しいと言われれば嬉しい。一人で広い食堂で食べる豪華な食事よりも、狭い食堂で大勢と騒がしい中で食べる質素な食事の美味しさを知った。
贅沢さはないから一つ一つの衣類や物を大事に使うようになったし、そうすることで、今まで自分の生活がどれだけ恵まれていたのか理解出来た。
子供達の世話は大変だけれど、子供の笑顔を見ると胸が温かくなる。暴れん坊な子や意地悪な子もいるが基本的に裏表がない素直な子達で、一緒になって外を目一杯走り回って遊ぶと気分がすっきりする。
公爵家にいた頃よりも毎日が楽しい。
朝は日の出と共に起きて、朝食を作ったら食べて、修道女仲間とお喋りしながら掃除や仕事をして、昼食を作ったら食べて、子供達の世話をして、お祈りの時間を過ごして、夕食を作ったら食べて、自分の時間が少しあって、夜になったら眠る。
決まったことを繰り返すだけの日々だ。
でも毎日不思議な充実感があった。
「お嬢様!」
聞き慣れた声に振り返れば、見慣れた姿がこちらへ駆けてくるのが見えた。
エリュシアナが昔拾った少年は青年になった。
長年、青年はエリュシアナに仕えていた。
そうして彼は修道院へ入るエリュシアナの側にいると主張し、エリュシアナが屋敷に残るように告げても頑なに首を縦に振らなかった。
結局、彼はここまでついて来てしまった。
「アレン、わたしはもうお嬢様ではないのよ」
「あっ、そうでした。申し訳ありません、アナ」
ここではエリュシアナはアナと呼ばれている。
小さな子供達はエリュシアナの名前を上手く呼ぶことが出来ず、アナと呼び始めたことから、皆がそう呼ぶようになった。
エリュシアナもその愛称を気に入っていた。
「それで、どうかしたの?」
「アナ宛てに手紙と荷物が届いたんだ」
「……あら、エディス様からだわ」
差し出された荷物と手紙を受け取ると、そこには随分と失礼な態度を取ってしまった女性の名前があった。
手紙と共に送られてきた荷物はかさばるものらしく、随分と大きい。
手紙の封を切って便箋を取り出した。
そこには時季の挨拶が手短に書かれ、修道院での生活はどうかという話から始まり、あれこれと体調や気持ちを気遣う文が綴られ、最後に荷物について触れられていた。
アレンに持ってもらい、荷物の封を開けると膝掛けが二枚と刺繍や裁縫に必要そうな道具が大体揃って納められていた。
「こっちの黒い膝掛けはアレンの分ですって。こっちの裁縫道具は好きに使ってだそうよ」
夜になると冷えるので膝掛けは嬉しい。
それに裁縫道具は服を繕うのに必要だ。
刺繍用のハンカチや糸なんかも沢山入っていた。
ここでの暮らしは寄付金やバザーで補っているため、刺繍用のハンカチや糸などがあれば刺繍したものをバザーに出せるのでありがたい。
そして封筒や便箋、インクも入っていた。
今のエリュシアナに負担がかからないように、わざわざ用意してくれたのだろう。
相手の心遣いにエリュシアナは泣きそうになった。
「お返事を書かなくてはいけないわね」
感謝の念を込めて、丁寧に書こう。
今日一番の笑顔を見せたエリュシアナに青年も嬉しそうに小さく笑う。
遠くからエリュシアナを呼ぶ声がした。
「アナー! まだ掃除が残ってるわよー!」
その声にまだ仕事が終わっていないことを二人は思い出し、顔を見合わせる。
そしてどちらからともなく吹き出した。
エリュシアナは弾けるような明るい声で応えた。
「ごめんなさい! 今行くわ!」
美しく高い声が晴れた青空によく響き渡る。
また後でと言い置いて軽やかに駆け出したエリュシアナの背を、青年は眩しそうに目を細めて見送った。
* * * * *
シェルジュ王国の白百合宮。
その一角で少女の歓声が上がった。
「ユニファ! ねえ見て! エディス様からお手紙が届いたわ!!」
この宮の主人であるエルミーシャは両手で手紙と包みを侍女へ掲げて見せた。
ユニファと呼ばれた侍女はそんな主人を優しい眼差しで眺めた。
「それは良うございましたね」
つい最近、シェルジュ王国を訪れたマスグレイヴ王国の名高き英雄や騎士達。その中には英雄の婚約者もいた。
そしてエルミーシャは英雄と婚約者、特に婚約者のエディス=ベントリー伯爵令嬢と親しくなった。
帰国する前に約束した「手紙を送る」という話を彼女はさっそく果たしてくれたのだ。
この国までの輸送を考えれば、帰国して二、三日以内に書いて送ったのだろう。
おまけに本も同封されていた。
王女であるエルミーシャに渡される前に本は中身を確認されたが、こうして手元に届いたということは、エルミーシャが読んでも問題なしと判断されたわけだ。
「きっとすぐに送ってくれたんだわ。わたしも早くお返事を書かなきゃ」
「本をくださったのですから、そちらを読んでからご感想と共に書かれるのはいかがでしょう?」
「……そうね。お礼も書くことになるなら、読んでからの方が書きやすいかも」
そう言いながらもエルミーシャはベントリー伯爵令嬢からの手紙を見つめている。
侍女は一度手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切ってから再度エルミーシャへ手渡した。
エルミーシャは落ち着かない様子で封筒から便箋を取り出し、開いたそれの中身へ視線を落とす。
侍女のユニファは主人が読み終えるのを待った。
恐らく一度読み返したのだろう。
じっくりと時間をかけて手紙を読んだエルミーシャの顔には喜色の笑みが浮かんでいる。
「わたしが絵本みたいな物語が好きだって話していたから、わたしの好きそうな本を送ってくれたみたい」
「どのような本かは書かれておりましたか?」
「うん、ウィンターズ様とエディス様の婚約までの実話を元にした小説なんですって」
手紙を丁寧に畳んで封筒に戻すと、エルミーシャはその手紙を大きめの箱へ納めた。
その箱は宝石やレースがあしらわれてキラキラとした可愛らしい見た目で、中にはエルミーシャが大事にしているものが入っている。
そうして今度は本の包みを開けた。
一度確認のために開けられただろうが、きちんと元に戻されているため、綺麗に結ばれたリボンをエルミーシャは丁寧に解いた。
包みを開ければ、やや分厚めの本が一冊。
表紙はベルベットのような上品な深紅で、植物がデザインされており、書かれている題名は「黄金の腕に抱かれて」というものだった。
「『黄金の腕に抱かれて』」
「獅子の時の金色の毛並みを表現していらっしゃるようですね」
「題名からしてなんだかドキドキするわ……」
恐らく恋愛小説なのだろう。
題名からしてそのような雰囲気が漂っている。
エルミーシャは絵本のような物語が好きだと言っているが、実際には絵本のような恋愛小説が好きなのである。
英雄と婚約者の波乱のある物語はきっと主人のお気に召すだろうとユニファは思った。
「今日は読書をして過ごすわ!」
幸い今日は授業が少ないため時間がある。
やや分厚い本を抱えてエルミーシャはそう宣言した。
「では紅茶を御用意いたしますね」
読書には紅茶と甘いお菓子が合う。
侍女の言葉にエルミーシャの目が輝いた。
主人は年相応に甘いものも好きなのだ。
さっそく、いそいそとソファーへ移動するエルミーシャを横目に侍女はベルを鳴らし、別のメイドに紅茶の用意を頼んだ。
戻ると主人は既に本を開いている。
集中力が高いのであっという間に読み終えてしまうかもしれない。
しばらくして静かなノックが聞こえて対応すれば、メイドがサービスワゴンを持ってきた。
それを受け取り、室内へ運び入れるとテーブルの側に置いて紅茶を淹れる。
少しばかり別のカップへ注ぎ、一口飲む。
……問題はなさそうだ。
それから主人の分の紅茶を注いだティーカップを、テーブルの上の、視界に入るだろう位置に置く。
クッキーなどのお菓子もそっと添えた。
それに気付いたエルミーシャが顔を上げた。
「ありがとう、ユニファ」
それにユニファはにこりと微笑んだ。
エルミーシャは紅茶を一口飲み、本格的に読書に集中することにした。
* * * * *
それから三時間半ほどかけてエルミーシャは贈られた本を読み切ってしまった。
よほど面白かったのか、途中から紅茶を飲むことも忘れ、一心に読み進めていた。
時々ハラハラしたり、涙ぐんだり、頬を染めることもあって主人を見ていると何となく話の雰囲気だけは読み取れる。
やがて最後まで読み終えると静かに本を閉じた。
読書の余韻を楽しむように、ほうとエルミーシャが感嘆の溜め息を漏らす。
「ああ、とっても面白かった……! それに素敵! まるで劇を観た後みたいだわ!!」
とても大事そうに本を抱き締める姿にユニファも目尻を下げた。
「お二人のお話はいかがでしたか?」
「お話を聞いた時よりも詳しく書かれていたわ。エディス様もウィンターズ様もお互いをとても好きなのは知っていたけれど、本ではもっともっと仲が良いのよ」
「あれよりもですか?」
ユニファはちょっとだけ驚いた。
英雄もその婚約者も、人目を憚らずにべったりとしていたけれど、あれでもまだ控えていた方だったのか。
そうだとすれば相当仲が良い。
「そうみたい。あとがきにも『二人はこのように愛し愛され、今も幸せに暮らしています』って書いてあるの。手紙にも結婚式の準備をしてるって幸せそうな感じがしたわ」
本の最後のページを開いた。
「これを書いた作家の名前はヴァローナ=サレンナというそうよ」
「聞いたことのない名前ですね」
「マスグレイヴ王国の御令嬢の間でひっそり人気になりつつある作家なんですって。わたしが気にいるようであれば別の作品も送ってくださるそうよ。ああ、別のお話ってどんなのかしら!」
どうやらエルミーシャはそのヴァローナという作家を相当気に入ったようだ。
だからか「この本を貸すからユニファも読んでみて!」と言われたのには少々困ってしまった。
ユニファは恋愛には興味がない。
でも主人の好きなものは知っておきたい。
結局、ユニファは後ほど本を借りることにした。
夜、エルミーシャが眠った後に、控え室で読んでみようと思う。
「さあ、手紙を書かなくちゃ。どうしよう、お礼と感想を書いたらすごく長くなってしまうわね」
「良いのではないでしょうか。本を気に入ったことを素直に書かれるのがよろしいかと。私であったなら、相手に贈った物が喜ばれるのはとても嬉しいことですから」
「最初に手紙が厚くなることに触れて謝っておけば大丈夫かしら?」
本を持って机に戻ったエルミーシャのために、ユニファが手紙を書く準備をする。
恐らくこれを使うだろうとエルミーシャ一番のお気に入りである小花柄とクローバーの便箋を差し出せば、嬉しそうに受け取った。
「さすがユニファね」
ペンとインクも用意する。
エルミーシャはペンを手に取ると、インク壺にペン先を浸し、便箋に向かう。
「エディス=ベントリー伯爵令嬢様、っと。ええと、木々の青葉が美しく、小鳥の囀りが……」
時季の挨拶を思い出しながら書き始めたエルミーシャをユニファは穏やかに見守った。
きっと主人から届いた手紙を読んで、ベントリー伯爵令嬢も喜ぶだろう。
二人が楽しそうに話していた姿を思い出す。
歳は離れているものの、良い友人になれそうだ。
なかなか外へ出られない主人に友人が出来るのはとても良いことである。
願わくばこの繋がりがずっと続きますように。
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場所は変わり、シェルジュ王国の北部。
孤児院と教会に隣接した修道院。
その裏庭で修道女達が洗濯物を干していた。
衣類やシーツなどがやや冷たい風で揺れている。
その様を心地好くエリュシアナは眺めた。
自領の修道院へ入ったが、ここはエリュシアナを領主の娘だからといって特別扱いしない場所だった。
貴族の娘も平民の娘もここでは皆、同じ修道女として生活しており、そこに上下関係はない。
……先輩後輩という立ち位置はあるけれど。
だが先輩だから威張ったり、後輩だから甘やかされたりということもない。
毎日決められた仕事をこなし、贅沢な暮らしから離れ、自分のことは自分で行う。
公爵家の令嬢であるエリュシアナには何もかもが初めての経験である。
掃除も、洗濯も、料理の手伝いや片付けも、洗濯物を畳むのも、子供達の世話をするのも遊ぶのも。公爵令嬢のままだったらエリュシアナは経験することがなかっただろう。
そしてエリュシアナはこの生活が結構好きだ。
変に肩肘も張らなくて済むし、周りもエリュシアナを馬鹿にしたり変に持ち上げたりもしないし、何よりあれこれと事情を聞かれない。
ただエリュシアナという一人の人間として扱ってくれる。
洗濯が上手く出来ない時は手伝いながら教えてくれるし、洗濯物が綺麗になると気分がいい。
料理を作るのも楽しいし、美味しいと言われれば嬉しい。一人で広い食堂で食べる豪華な食事よりも、狭い食堂で大勢と騒がしい中で食べる質素な食事の美味しさを知った。
贅沢さはないから一つ一つの衣類や物を大事に使うようになったし、そうすることで、今まで自分の生活がどれだけ恵まれていたのか理解出来た。
子供達の世話は大変だけれど、子供の笑顔を見ると胸が温かくなる。暴れん坊な子や意地悪な子もいるが基本的に裏表がない素直な子達で、一緒になって外を目一杯走り回って遊ぶと気分がすっきりする。
公爵家にいた頃よりも毎日が楽しい。
朝は日の出と共に起きて、朝食を作ったら食べて、修道女仲間とお喋りしながら掃除や仕事をして、昼食を作ったら食べて、子供達の世話をして、お祈りの時間を過ごして、夕食を作ったら食べて、自分の時間が少しあって、夜になったら眠る。
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「お嬢様!」
聞き慣れた声に振り返れば、見慣れた姿がこちらへ駆けてくるのが見えた。
エリュシアナが昔拾った少年は青年になった。
長年、青年はエリュシアナに仕えていた。
そうして彼は修道院へ入るエリュシアナの側にいると主張し、エリュシアナが屋敷に残るように告げても頑なに首を縦に振らなかった。
結局、彼はここまでついて来てしまった。
「アレン、わたしはもうお嬢様ではないのよ」
「あっ、そうでした。申し訳ありません、アナ」
ここではエリュシアナはアナと呼ばれている。
小さな子供達はエリュシアナの名前を上手く呼ぶことが出来ず、アナと呼び始めたことから、皆がそう呼ぶようになった。
エリュシアナもその愛称を気に入っていた。
「それで、どうかしたの?」
「アナ宛てに手紙と荷物が届いたんだ」
「……あら、エディス様からだわ」
差し出された荷物と手紙を受け取ると、そこには随分と失礼な態度を取ってしまった女性の名前があった。
手紙と共に送られてきた荷物はかさばるものらしく、随分と大きい。
手紙の封を切って便箋を取り出した。
そこには時季の挨拶が手短に書かれ、修道院での生活はどうかという話から始まり、あれこれと体調や気持ちを気遣う文が綴られ、最後に荷物について触れられていた。
アレンに持ってもらい、荷物の封を開けると膝掛けが二枚と刺繍や裁縫に必要そうな道具が大体揃って納められていた。
「こっちの黒い膝掛けはアレンの分ですって。こっちの裁縫道具は好きに使ってだそうよ」
夜になると冷えるので膝掛けは嬉しい。
それに裁縫道具は服を繕うのに必要だ。
刺繍用のハンカチや糸なんかも沢山入っていた。
ここでの暮らしは寄付金やバザーで補っているため、刺繍用のハンカチや糸などがあれば刺繍したものをバザーに出せるのでありがたい。
そして封筒や便箋、インクも入っていた。
今のエリュシアナに負担がかからないように、わざわざ用意してくれたのだろう。
相手の心遣いにエリュシアナは泣きそうになった。
「お返事を書かなくてはいけないわね」
感謝の念を込めて、丁寧に書こう。
今日一番の笑顔を見せたエリュシアナに青年も嬉しそうに小さく笑う。
遠くからエリュシアナを呼ぶ声がした。
「アナー! まだ掃除が残ってるわよー!」
その声にまだ仕事が終わっていないことを二人は思い出し、顔を見合わせる。
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