寝取られ令嬢は英雄を愛でることにした

早瀬黒絵

ヴィネラ山脈(2)

 




 そっと肩を揺すられて目が覚める。

 まだ眠気の残る瞼を押し上げれば、リタが申し訳なさそうな顔でこちらを覗き込んでいる。



「エディス様、昼食のお時間でございます」

「……もうお昼なの?」



 起き上がるとリタが髪やドレスを整えてくれる。

 クッションのおかげもあり、フォルト様の魔術もあって、体を十分休められたようだ。

 朝よりも体が軽い気がする。

 それからリタの手を借りて馬車を降りる。

 山の中だから清々しい空気と濃い森の匂いがした。

 ユナが近くの木陰に敷き物を広げて、昼食の準備をしてくれている。

 騎士達も各々が好きな場所に腰を落ち着けており、フォルト様達と話していたライリーがわたしに気付くと軽く手を上げた。

 それにわたしも小さく手を振り返す。

 話の邪魔をしないよう、リタに勧められて敷き物に上がり、そこで待つことにした。

 ユナが肩にストールをかけてくれる。



「山の空気は冷えるので気を付けてくださいね」



 そういえば少し涼しい感じがする。



「ありがとう」



 ストールをきちんと肩に羽織る。

 リタが差し出したティーカップを受け取ると、そこには見慣れた紅茶が湯気を上げて揺れていた。

 今淹れたばかりといったそれに驚いた。



「あら、いつの間に火を熾したの?」

「いえ、魔術で少々」

「え?」



 リタが魔術を使えるなんて知らなかった。

 思わずリタの顔を見ると、ニコリと笑みが返る。



「ですが魔力が少ないので魔術師のようなことは出来ません。私に出来るのは少量のお湯を沸かしたり、水を出したり、洗濯物をちょっとだけ早く乾かせるくらいです」

「それでも十分凄いわ!」



 ではこの温かい紅茶はリタが魔術でお湯を沸かしたのね。

 大きな魔術が使えなくても、リタの魔術は生活の上で、とても役に立つと思う。

 紅茶に口をつける。

 少しひんやりした空気の中で飲む紅茶はとても美味しく、その良い香りと温もりにホッとする。

 紅茶を飲みながらしばし待っていれば、話を終えたライリー達がやって来た。



「エディス、体調はどうだ?」



 敷き物の上に乗り、わたしの横に来たライリーが温めるようにわたしを抱き締める。



「馬車の中で休ませていただいたので、もうすっかり良くなりましたわ」

「そうか」



 わたしの額に触れて熱がないが確認したライリーが、安堵した様子で頷く。

 一緒に戻ってきたフォルト様とレイス様がリタ達から軽食を渡され、わたし達も同じものをもらう。

 三角形のパンの間に肉や野菜、チーズなどが挟んであるサンドウィッチ、ドライフルーツが入ったマフィン、それと果物だ。

 わたしはただ馬車の中で寝ていただけなので、サンドウィッチを一つだけ食べた。

 ライリーとレイス様は相変わらずよく食べる。

 フォルト様はサンドウィッチとマフィンを二つずつ食べると、果物のオレンジを自分で切り分けている。



「食べる?」



 ジャムサンドクッキーと言い、果物がお好きなのかしらと思って眺めていると、フォルト様にオレンジを一欠片差し出された。

 瑞々しくて美味しそうなそれをつい受け取った。



「はい、いただきます」



 皮も剥いてあり、そのまま口へ入れられる。

 一口齧るとオレンジの酸味と甘みが口の中に広がり、さっぱりとする。

 フォルト様も皮を剥いたオレンジを口に放り込んでいる。



「このオレンジ、とても美味しいです」

「そうだねえ」



 フォルト様はレイス様やライリーにもオレンジを渡している。

 デザートには丁度いい味だった。

 リタに渡された布で手を拭う。

 フォルト様はオレンジの汁で汚れた手を、魔術で出した水の玉に入れて洗い、その水を適当にそこら辺の草木へ放る。ぱしゃりと水が小さく弾けた。

 魔術が使えると便利そうね。

 残念ながらわたしには魔力がないので使うことは出来ないけれど、使える人がちょっとだけ羨ましいわ。



「今はどの辺りですか?」



 食事を終えたライリーに聞く。



「最初の小さめの山を越えたところだ」

「もう山を一つ越えたの?」

「ああ、魔獣も殆ど出なかったし、フォルト殿の魔術のおかげで馬車がいても速度が出せたからな。これなら予定よりも早く次の街へ着けるだろう」



 そうなのね。

 魔獣がほぼ出ないのは良いことだわ。

 日が落ちる少し前まで午後も走り、そこで一晩野宿をしたら、明日は山脈を越えて、この速度で行ければ次の街へ昼頃には着くそうだ。

 休憩を兼ねた昼食を終え、片付けると、わたし達はまた馬車に乗り込み、ライリー達は馬に乗って街道を行く。

 午後はわたしも起きていた。

 一度魔獣に遭遇したけれど、ライリー達は危なげなく倒し、それ以降は何事もなく快適なものだった。

 本来は道の悪い山の中だが魔術で浮いた馬車の中は全く揺れず、滑らかに流れていく車窓を眺めつつ、リタ達とお喋りをして過ごした。

 日が大分傾いた頃、馬車が止まった。



「今日はここで野営をするようですね」



 馬車から顔を出したユナが言った。

 丁度街道の脇に拓けた場所があり、そこに馬車を停めて、街道を塞がないようにするようだ。

 馬車から降りて背筋を伸ばす。

 ずっと座っていたから少しお尻も痛い。

 ユナに誘導されて、倒れた木を椅子代わりにして腰かける。この広場の真ん中辺りだ。



「ここにいてくださいね」



 と、言われて頷いた。

 周りでは騎士達が薪を集めて火を点けたり、リタやユナが食事の準備をしたりと忙しなく動いている。

 お手伝いしたいが、下手にうろついたら迷惑になってしまうだろう。

 それにドレス姿で火に近付くのは危険だ。

 わたしは木に腰掛けて周りを眺める。

 ……ちょっと寂しいわね。

 ぼんやりしていると不意に声をかけられた。



「お隣、よろしいでしょうか?」



 顔を上げればやや年嵩の男性が立っていた。

 柔らかな枯れ草色の髪を緩く一つに束ね、丸い眼鏡をかけた、細身の、穏やかそうな男性はローブのような衣服を身に纏っている。

 その男性は使節団の一人だった。

 一瞬考えたが、これだけ人目のある場所ならば大丈夫だろうと頷き返す。



「ええ、どうぞ」

「失礼します」



 男性はわたしとの間に一人分の間を空けて座る。



「ようやく御挨拶が出来ますね。初めまして、シェルジュ王国より参りましたノイマン=アルブレドと申します。この度、使節団大使を任されております」



 まあ、大使様でいらしたのね。

 会釈をされたのでわたしも返す。



「初めまして、マスグレイヴ王国ベントリー伯爵家が長女エディス=ベントリーと申します。御挨拶が遅くなり失礼致しました」

「いえ、ここまでの旅でお互い関わることがありませんでしたから」



 それぞれ同じ宿に泊まっていたと言っても、関わりがあったのはフォルト様やレイス様、ライリーなどで、同行者のようなわたしが関わる理由がなかった。

 でも今になって何故話しかけて来たのかしら。

 アルブレド様が小声で話す。



「英雄殿と婚約者である貴女には、申し訳ないことをしました。……式の準備をしていらしたとか」



 眉を下げて話す姿にわたしは苦笑した。



「ええ、まあ。ですが国のためですもの。それにライリー様のお立場を考えれば、このようなことがあっても仕方がないと理解しております」

「そうですか」



 どこかホッとした様子だった。

 他国の者とは言え、英雄と称される人物の機嫌を損ねることは避けたいのかもしれない。

 今回は互いに協力関係にあるから尚更だろう。



「わたしは国の外へ出るのは初めてなのですが、シェルジュ王国についてお聞きしてもよろしいでしょうか?」



 憂いが減ったからかアルブレド様がニコリと笑う。



「我が国は鉱山が多く、宝石や魔石の産出量は他のどの国よりも多いです。職人が多いので、一度は我が国の宝飾品を御覧になるべきかと」



 宝石も魔石も宝飾品にするために、職人達の手が必要になる。産出量が多ければ当然扱う職人も増える。



「そうなのですね、時間がありましたら是非見させていただこうと思います」

「ええ、是非。気候も穏やかですし、海と山に挟まれて両方の幸に恵まれておりますから、食事も期待出来ますよ」

「まあ、それは楽しみですわ」



 マスグレイヴ王国も海に接してはいるけれど、狭く、海産物はもっぱら輸入に頼っている。

 代わりに山の幸や酪農なんかは非常に盛んだ。

 国によって独特な文化があり、料理もその一つで、わたしは生まれた国以外の料理を食べたことがない。

 だから他国の料理も楽しみである。

 そうして他愛もないことを話しているとアルブレド様が使節団の方に呼ばれてしまった。



「おや、行かなくては」



 それに気付いたアルブレド様が立ち上がる。



「楽しい一時をありがとうございました」



 立ち上がって感謝を込めたカーテシーを行う。

 するとアルブレド様も礼を取ってくださった。



「いえ、こちらこそ。貴女のように美しい女性のお相手を出来て光栄です」

「まあ、お上手ですこと」



 互いに小さく笑って、その場で解散する。

 アルブレド様は使節団の方に呼ばれ、やってきた従者らしき人物に背を押されながら戻っていった。

 思っていたよりも話しこんでしまったようで、気付けば夕食の準備も殆ど出来ているらしかった。

 いつの間にか側にユナが控えていた。

 見計らったようにライリーが近付いて来る。



「エディス」



 その声に自然と笑みが浮かぶ。



「ライリー様」



 ライリーは何故かわたしを見て動きを止めた。

 驚いたような顔をして、続いて破顔する。



「食事が出来たそうだ。時間的には早いが、そろそろ夕食にしよう」

「はい」



 差し出された手を借りて立ち上がる。

 すぐそこだけれど、エスコートしてくれた。

 そちらの方には既にフォルト様やレイス様、他の騎士の方々が椅子代わりの丸太に腰掛けている。

 わたしは少し焚き火から離れた位置だ。

 スカートに火が燃え移ると危険だから。

 丸太に座る前に、ライリーが汚れないようにとハンカチを敷いてくれて、ありがたくその上へ座らせてもらう。

 リタとユナ、騎士の数人が大鍋から中身を掬い、木の器によそうと座っている者へ手渡していく。

 わたしも渡された器を受け取った。

 器の中にはスープが入っている。恐らく日持ちさせるために干した肉と街で購入しただろう野菜達。

 一緒に焼き締められた黒パンもある。

 夜の山の冷たい空気の中で、肉や野菜のたっぷり入った温かいスープというのはなかなかに贅沢な感じがする。

 全員に食事が行き渡ると食前の祈りをして、食べ始める。

 同じ木のスプーンで掬い、一口含む。

 干し肉と野菜の甘みと旨味が出ており、塩のみの味付けだけれど十分美味しい。

 気付かないうちに冷えていた体にスープの温かさがじんわりと染みる。

 膝の上に器を置き、黒パンを両手で握り、力を入れる。パキッと軽い音がして割れた。そうして出来る限り小さく割り、スープに浸す。

 柔らかくなった頃合いで食べれば、香ばしい黒パンに塩気のあるスープが染み込んで食べやすくなった。



「夜に外で食べるのもいいですわね」



 横に座るライリーが頷いた。



「今日は天気も良いから星もよく見える」

「ええ、本当に綺麗な星空ね」



 二人揃って夜空を見上げる。

 わたし達の話を聞いていたフォルト様やレイス様など数人が、同様に顔を上げた。

 拓けているため、木々の合間から空が見える。

 夜空には雲ひとつなく、天井にはほんのりと青みがかった月が浮かび、周りに多くの星々が輝いている。

 ……こんなにゆっくりと夜空を眺めたのは初めてかもしれない。

 記憶が戻る前のわたしはいつも俯いてばかりで、継母達から虐待を受け、日々自分の生活のことで手一杯で景色を眺める余裕なんてなかった。

 ライリーと出会ってまだ一年も経ってない。

 その間に色々なことがあった。

 横にいるライリーに寄りかかれば、当たり前のように力強い腕が背中に回る。

 初めて行くシェルジュ国には期待半分不安半分といった具合で、きっと到着しても落ち着かないだろう。

 ライリー達も忙しいはずだ。



「寒くないか?」



 ライリーの問いに首を振る。



「いいえ、大丈夫よ。あなたが温かいもの」

「そうか」



 少し照れた様子で顔を正面に戻し、片手で器を持ち、それに口をつけてライリーがスープを食べる。

 貴族としてはマナーに反する食べ方だが、不思議とその食べ方は合っている気がした。

 周りを見れば、他の騎士達も器に口をつけている。

 フォルト様やレイス様も、スプーンで食べるのが面倒なのか、黒パンを片手に、器に口をつける。

 かなり深めの器はカップに近い。

 彼らを真似て、そっと器を持ち上げ、縁に口をつけて器を傾ける。ふわっと鼻腔をスープの良い香りがくすぐり、少し熱いが、スプーンで食べるよりもたっぷりと味わえる。

 何だかこっそり悪いことをしてる気分だわ。

 わたしに気付いたライリーがふと目元を和らげる。



「こういうのも悪くないな」



 かけられた声に頷いた。

 時間をかけて黒パンとスープを食べる。

 その間に、大きな鍋いっぱいに作ったスープは騎士達が完食し、食後に果物もしっかりと食べていた。

 体を冷やすからと夕食後は、わたしはユナと共に馬車に戻り、リタが食事の後片付けを手伝った。

 戻ってきたリタがお湯を作ってくれて、それに布を浸して顔や首など拭ける部分の汚れを拭い、ついでに口も濯ぐ。

 ユナが髪を梳かし、リタがドレスのコルセットを緩め、座席にクッションを敷いてくれた。

 そのクッションに寄りかかって一息吐いていると、外から扉が叩かれた。

 リタが僅かにカーテンを上げて確認した。



「旦那様です」

「中へ」



 頷けばリタが扉を開けた。

 ヒンヤリした空気と共にライリーが入って来る。

 そうしてわたしの横に腰を下ろした。



「そろそろ休んだ方がいい」



 頬を撫でられ、触れたそこに口付けられる。



「もう?」

「明日は朝早い。休める時に休むんだ」

「分かりましたわ」



 抱き寄せられるとライリーの温かな体温に包まれる。

 ああ、ライリーが傍にいると思うととても安心出来る。体の力を抜けばギュッと腕に力がこもる。



「おやすみ、エディス。良い夢を」



 瞼へ口付けられて目を閉じる。

 ふんわりと包む眠気にわたしは身を任せた。




 

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